『土偶を読む』(竹倉史人)
「土偶」という縄文時代の遺物の由来を自然のなかに求める点で、著者のアプローチには親近感を持った。
ここでは、「土偶は食用植物と貝類をかたどっている」という竹倉の仮説に、わたしの仮説を対置させておきたい。
「土偶」は生命の源泉としてのトーテムと人を同時に表す「トーテム-人」像である。「土偶」だけでなく、土器も石器も、加工された貝も自然貝も「トーテム-人」像である。さらに、遺跡や貝塚も「トーテム-人」像である。
ここからみると、土偶が「食用植物」であることは、植物がトーテムである段階に相当する。ただし、「食用」か否かではなく、先史人が「生命の源泉」として捉えたかどうかが問われる。同様に、土偶が「貝類」になるのは、貝がトーテムである段階になる。それは、竹倉が挙げている土偶と植物や貝と必ずしも一致するわけではない。時代がくだるにつれて「トーテム」と「人」のあいだの観念は複合的になるから、「植物」や「貝」などの他の動植物や自然物が「トーテムー人」像に溶かし込まれることはある。それが、土偶や土器、遺構の形態を複雑にする一因になるが、そのなかには竹倉が退けている「地母神」や「精霊」のイメージも入ることになる。
縄文時代の痕跡が示すのは「トーテム-人」像として一貫しているから、「土偶」の出土しない琉球弧を主に見ている場所からも「土偶」の位相を捉えることはできる。竹倉が紹介している土偶のなかには、その「トーテムー人」像を把握しているものもあるが、琉球弧の遺跡・貝塚から立論しているさなかなので、土偶に言及するのはもう少し準備を整えてからにしたい。
竹倉は「植物の人体化」として土偶の形態を捉えており、ここが最も近接する個所なのだが、わたしの方はそれをさらに強めて、「トーテム-人」と見なしている。「土偶」は「トーテム-人」のなかでも、「人」に寄った「トーテム-人」像なのだ。そこで、「土偶の変遷は重点的に利用された植物資源の変遷を示している」という個所は、「土偶」の変遷はトーテムの変遷を示すというがわたしの理解になる。それは土偶に留まらず、土器の編年に対応している。
接近しては離れる、を繰り返す本書の立論をとても面白く読んだ。
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