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2021/05/28

カニとニンニク

 Arneは、ドゥナン(与那国島)の豊年祭(uganfututi)の二日目、お供え物を入れるお盆には、「カニとニンニク」だけが入っていると書いている。

 カニ(Grapsus tenuicrustatus (rock crab/lightfooted crab))は、オオイアワガニやミナミイワガニと見なせる。

 この二つの供え物をトーテミズムとしてみると、オカヤドカリを表している。

 ニンニク(hiru) -         シャコガイ(gira)  - 宿貝

 オオイワガニ・ミナミイワガニ - クモガイ - ヤシガニ - オカヤドカリ

 この本のなかでは、ニンニクとカニ、そして同等のものとしてクモガイが指摘されているだけで、シャコガイとヤシガニは、貝塚や多良間島の習俗を参照して加えたものだ。

 ドゥナンでは、スナガニを「ニンニクの体」と呼ぶことも上記を暗示している(Not surprisingly, the Dunang identify the species as the garlic body,hirumi.(p.69))。

With habitual access to marine and terrestrial crevices, crabs have been allotted the role of intermediaries in the task of accessing the nirabandu (nirabansu). This is the realm of the female spirit to whom the fuzzy function of playing a part both in the joy of births and the horror of deaths has been ascribed. An elderly shrine steward, the tidibi of the ndi shrine, stated the point. The spirit is passionately attracted by the crabs.(p.71)

海や陸の隙間に入り込む習性のあるカニは、ニラバンズ(nirabansu)にアクセスする仲介者の役割を割り当てられている。これは女性の霊の領域で、誕生の喜びと死の恐怖の両方を担うファジーな機能が与えられている。ンディ御嶽のティディビと呼ばれる年配の宮司さんがこう言う。霊はカニに熱烈に惹かれている。

 奄美大島などでは、生児の頭にカニを這わす儀礼が行われたが、オカヤドカリ(アマム)トーテムの段階では、子はカニの化身態としてある。だから、カニはニラとの仲介者でいるわけではなく、子の生命の源泉に位置する。それが「霊はカニに熱烈に惹かれている」という意味だ。


But, then, what do crabs or garlic symbolize? This, perhaps, would be a commonsensical way of meeting another culture from the vantage point of our own assumptions of mental representations, favoring a one-to-one type of fixed relationship rather than a part-to-part relationship in horizontally or vertically bound semantic fields. What in the felicitous Lévi-Straussian phrase would be a science of the concrete can be shown, for the Dunang, to work in favor of both a shared understanding of nature and a shared experience of ethics quite without any analogies brought into play between humans (or categories of humans) and species in nature.No Dunang woman or man whom I met think that garlic and crabs are mystical species deserving of continuous attention. They are not sacred species, and they may not connect with definable “beliefs.” They are not divine messengers in crustacean guise. Nonetheless, garlic and crabs are culturally authored simulacra. And they are tell-tale impressions taken from nature, eminently serviceable for society ethics.(p.74)

しかし、カニやニンニクは何を象徴しているのだろうか。これはおそらく、私たち自身の心的表象の前提から異文化に出会うための常識的な方法であり、水平または垂直に結ばれた意味領域における部分と部分の関係ではなく、1対1のタイプの固定された関係を好んでいるのだろう。レヴィ・ストロース的な表現では具体の科学となるものが、ドゥナンの人々にとっては、人間(あるいは人間のカテゴリー)と自然界の種との間に類推を持ち込まなくても、自然に対する理解の共有と倫理の経験の共有の両方に有利に働くことが示されている。それらは神聖な種ではないし、明確な「信念」とは結びつかないかもしれない。それらは甲殻類の姿をした神の使いではない。それにもかかわらず、ニンニクとカニは文化的に作られたシミュラクラ(模造品)である。そして、それらは自然から得られた、社会の倫理に大いに役立つ印象的なものだ。

「自然界の種との間に類推を持ち込まなくても」というのはその通りだが、ニンニクとカニは「文化的に作られたシミュラクラ」ではなく、トーテムの化身態で、オカヤドカリ(アマム)を表したものだ。この対が供えられるということは、成人儀礼を意味していたと考えられる。

 

 追記。与論では、ニンニクはピル(piru)と呼ぶが、この言語的(生命論的)な由来が分かったのは収穫だった。

 

Arne Røkkum(著)Nature, Ritual, and Society in Japan's Ryukyu Islands (Japan Anthropology Workshop Series) (English Edition)

 

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2021/05/09

『土偶を読む』(竹倉史人)

 「土偶」という縄文時代の遺物の由来を自然のなかに求める点で、著者のアプローチには親近感を持った。

 ここでは、「土偶は食用植物と貝類をかたどっている」という竹倉の仮説に、わたしの仮説を対置させておきたい。

 「土偶」は生命の源泉としてのトーテムと人を同時に表す「トーテム-人」像である。「土偶」だけでなく、土器も石器も、加工された貝も自然貝も「トーテム-人」像である。さらに、遺跡や貝塚も「トーテム-人」像である。

 ここからみると、土偶が「食用植物」であることは、植物がトーテムである段階に相当する。ただし、「食用」か否かではなく、先史人が「生命の源泉」として捉えたかどうかが問われる。同様に、土偶が「貝類」になるのは、貝がトーテムである段階になる。それは、竹倉が挙げている土偶と植物や貝と必ずしも一致するわけではない。時代がくだるにつれて「トーテム」と「人」のあいだの観念は複合的になるから、「植物」や「貝」などの他の動植物や自然物が「トーテムー人」像に溶かし込まれることはある。それが、土偶や土器、遺構の形態を複雑にする一因になるが、そのなかには竹倉が退けている「地母神」や「精霊」のイメージも入ることになる。

 縄文時代の痕跡が示すのは「トーテム-人」像として一貫しているから、「土偶」の出土しない琉球弧を主に見ている場所からも「土偶」の位相を捉えることはできる。竹倉が紹介している土偶のなかには、その「トーテムー人」像を把握しているものもあるが、琉球弧の遺跡・貝塚から立論しているさなかなので、土偶に言及するのはもう少し準備を整えてからにしたい。

 竹倉は「植物の人体化」として土偶の形態を捉えており、ここが最も近接する個所なのだが、わたしの方はそれをさらに強めて、「トーテム-人」と見なしている。「土偶」は「トーテム-人」のなかでも、「人」に寄った「トーテム-人」像なのだ。そこで、「土偶の変遷は重点的に利用された植物資源の変遷を示している」という個所は、「土偶」の変遷はトーテムの変遷を示すというがわたしの理解になる。それは土偶に留まらず、土器の編年に対応している。

 接近しては離れる、を繰り返す本書の立論をとても面白く読んだ。

 

『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』

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