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2020/11/10

『帝国の島』

 久しぶりに松島さんの本を読んだ。こんなハードなテーマに正面から向き合い続けていることに、まずは敬いの気持ちを表したい。

 けれどここから先、独語のようになってしまうが、いつも感じるのは松島さんの優しい気持ちに、政治的な概念を被せると概念の連なりが優勢になって、まるで違う表情になるようなちぐはぐさを感じてならない。それは島人も標準語を使っている制約なのかもしれないと思うこともある。島人には、それにふさわしい語法と論理を編み出す必要があるのではないか。という困難を思う。

 もっともそこまででなくても、感じるちぐはぐさはある。

 「自由」ということだろうか。ふつうの人が自由に振るまい表現し信仰を持てるという基本的な自由のこと。もちろん、松島さんも国家によって「自由」が著しく制約されていると感じればこそ、日本国家を批判する。そうであれば、この本は国家としての日本を批判すると同時に、帝国主義的な振る舞いを隠さない中国に対しても向けられなければ説得力を持たないのではないだろうか。この本が脱稿されたとき、「国家安全法」はまだ施行されてなくても、それは言いうることだ。

 もうひとつは、この本で詳しく触れられているわけではないが、琉球とはどこであるかということ。ぼくにとってもそれは切実だから、本土とのあいだに明確な差異を引くことができるのかという探究を続けてきた。そして、先史時代に遡れば、トーテムの段階においての違いを見出すことができた。それは時にトカラを含み、奄美から八重山まで共通している。おぼろげには本土のなかにも微差異があり、その向こうに北海道・アイヌとのあいだにも差異があることも見通しとして持っている。

 もちろん、「琉球」というとき、松島さんも奄美への視線は持っている。けれど、奄美北部での拒否感に会い、そこは自己決定権よろしく奄美の人に委ねられる格好になっている。けれどそこに問いは残る。奄美北部では「琉球」という言葉に拒否感があるが、それを解きほぐすことが琉球独立論にとって重要な課題だと思う。そこを自己決定権と投げて終わってしまえば、国家がやっているのと同じ、大は小を兼ねる、あるいは小の無視をなぞってしまう落ちになりかねない。

 奄美北部で顕在化する「琉球」アレルギーはひとつの例だが、かつて松島さんが取り組んでいた各島の自治という、小さな声を聞き落とさない姿勢からすれば、ここに琉球独立論を鍛える素材のひとつがあると思う。

 

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