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2020/11/14

『蓑虫放浪』

 この本の写真を提供している田附勝は、蓑虫山人の絵をこんな風に書いている。

縄文時代というものに興味を持っていたのだけれど、幕末から明治に移り変わる激動の時代に、こんな温かな絵を残す絵師がいたのかといたく興味を持ってしまったのだ。

 これはその通りの印象だった。「幕末から明治に移り変わる激動」というと、まさにステレオタイプな人物像や時代描写がお馴染みだが、それと接しつつも、気分としてはかけ離れたのびやかで優しい生が浮かんでくる。こんな時代のくぐり方があったということにほっとする。

 「放浪」や「乞食」は定住と生産を背景に置くから出てくる言葉で、言ってみれば蓑虫山人は移動する絵師だった。その人は縄文期の遺物に惹かれ、土器を花瓶のように使ったり土偶をいつも懐に入れたりと身近に置いていた。考古遺物を披露する「神代品展覧会」まで開いている。そのうえその人があの遮光器土偶を発掘したのかもしれないともなると、「激動」の時にひょっこり現れた縄文の人という風にも見えてくる。

 実際、籠だけで庵をつくり、「天井のない変な帽子」をお気に入りで被り、蓑虫山人というあだ名で呼ばれる。絵は正確というのではなく、誇張や心象が混じり、嘘か本当か分からない言葉や噂に包まれているとなると余計にそう思えてくる。偉人というわけでもないから、これまでこんな風にその足跡が丹念に辿られることもなかった。

 蓑虫には「六十六庵」という果たせなかった博物館構想があった。

 蓑虫の構想では、縄文時代の環状集落さながらに、中心に広場を作り、それを取り囲むように、「美濃庵」「豊前庵」と、六六の地域一つひとつの庵を建て、各庵ごとに地域の特産品や珍品、自慢の逸品、名勝を描いた絵などを展示するパビリオンスタイルだったようだ。

 この構想から刺激を受けると、ぼくがやってみたいのは貝塚・遺跡博物館ということになるだろうか。列島や島々で全体像の分かっている貝塚・遺跡を3Dスキャンした再現模型をつくる。そしてそれをゴーグルをつけて観ると、先史人の見た多重なイメージが3D画像で浮かび上がる。それはひとつの土器、土偶や遺物であったもいい。先史人のこころのありようを覗き込めるようにするのだ。

 蓑虫山人から得たアイデアとして持っておこう。

 

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2020/11/10

『帝国の島』

 久しぶりに松島さんの本を読んだ。こんなハードなテーマに正面から向き合い続けていることに、まずは敬いの気持ちを表したい。

 けれどここから先、独語のようになってしまうが、いつも感じるのは松島さんの優しい気持ちに、政治的な概念を被せると概念の連なりが優勢になって、まるで違う表情になるようなちぐはぐさを感じてならない。それは島人も標準語を使っている制約なのかもしれないと思うこともある。島人には、それにふさわしい語法と論理を編み出す必要があるのではないか。という困難を思う。

 もっともそこまででなくても、感じるちぐはぐさはある。

 「自由」ということだろうか。ふつうの人が自由に振るまい表現し信仰を持てるという基本的な自由のこと。もちろん、松島さんも国家によって「自由」が著しく制約されていると感じればこそ、日本国家を批判する。そうであれば、この本は国家としての日本を批判すると同時に、帝国主義的な振る舞いを隠さない中国に対しても向けられなければ説得力を持たないのではないだろうか。この本が脱稿されたとき、「国家安全法」はまだ施行されてなくても、それは言いうることだ。

 もうひとつは、この本で詳しく触れられているわけではないが、琉球とはどこであるかということ。ぼくにとってもそれは切実だから、本土とのあいだに明確な差異を引くことができるのかという探究を続けてきた。そして、先史時代に遡れば、トーテムの段階においての違いを見出すことができた。それは時にトカラを含み、奄美から八重山まで共通している。おぼろげには本土のなかにも微差異があり、その向こうに北海道・アイヌとのあいだにも差異があることも見通しとして持っている。

 もちろん、「琉球」というとき、松島さんも奄美への視線は持っている。けれど、奄美北部での拒否感に会い、そこは自己決定権よろしく奄美の人に委ねられる格好になっている。けれどそこに問いは残る。奄美北部では「琉球」という言葉に拒否感があるが、それを解きほぐすことが琉球独立論にとって重要な課題だと思う。そこを自己決定権と投げて終わってしまえば、国家がやっているのと同じ、大は小を兼ねる、あるいは小の無視をなぞってしまう落ちになりかねない。

 奄美北部で顕在化する「琉球」アレルギーはひとつの例だが、かつて松島さんが取り組んでいた各島の自治という、小さな声を聞き落とさない姿勢からすれば、ここに琉球独立論を鍛える素材のひとつがあると思う。

 

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2020/11/09

奄美大島、その他の紋様

 『ハジチ 蝶人へのメタモルフォーゼ』のなかでは、触れられなかった紋様のバリエーションについて、気づくところを補足していきたい。

Hazuki1

 ハジチ紋様のなかでもひときわ美しいのは、奄美大島のもので、本の表紙にもこれを使った。別に挙げれば下のも、この紋様のバリエーションになる。

Oshima2

 どちらも食痕と幼虫を、チョウセンサザエ(ヤコウガイ)の蓋と枝サンゴで表している。下の方が、流線的な柔らかさがある。トーテム植物であるリュウキュウウマノスズクサを思い出させる柄だ。右手の塗りつぶされた紋様は食痕そのものだと考えられる。

 Oshima1

 こちらの左手甲は、リュウキュウウマノスズクサの花。下に突き出たふたつのこぶは、花弁だと思う。

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2020/11/07

グジマとホーミー

 『ハジチ 蝶人へのメタモルフォーゼ』のなかでは「タカラガイ」としているが、「ホーミー」は「イソアワモチ」ではないかという指摘をいただいたので、考えてみたい。

 この本のなかで、「ホーミー」を「タカラガイ」としたのは、そう聞き取りしているハジチ調査もあるからだが(例.具志川島教育委員会,1987)、もうひとつ、貝塚からもタカラガイは出土してもイソアワモチは出ていないからだ。ただ、「グジマとホーミー」を「ヒザラガイとイソアワモチ」とするのは、両者ともに岩場に張り付いているのだからとても自然な見なしではある。この場合、起点になるのは「ヒザラガイ」だ。ヒザラガイだから、対は姉妹のようなイソアワモチになる、というように。

 けれど発生からいえば、「グジマとホーミー」の対紋様は、「シャコガイとタカラガイ」とするのがその形態からは自然だ。二対は植物トーテムからいえば「花と蕾」であり蝶としてみると、「翅と幼虫?」になる。

 だから、問いは、「シャコガイ」が「ヒザラガイ」呼称に置き換わったのはなぜか、ということになる。

 この置き換えが起きるのは、カニ・トーテムの段階が考えられる。カニ・トーテムではシャコガイは大人貝でカニ腹部であり、タカラガイは子供貝でカニ鋏になる。ヒザラガイも子供貝でカニの鋏だ。ここからみると、タカラガイを鋏として見る視線に合わせて、左手の紋様を同じ鋏であるグジマ(ヒザラガイ)と見なしたことになる。両方の紋様とも子供のときに入れることになり、その意味はカニの鋏だった。

 経緯からいえば、カニ・トーテムの段階で、両方の紋様は、「グジマとホーミー」呼称になったと考えられる。

 

Hajichi

 

 

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