『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』
人間が、人間のみの世界の内側に閉じこもって、かなたにある人間の知性と能力をはるかに超えた外部の世界と出会っておくことがないのなら、私たちは私たちの行く末を、このまま永遠に見失ったままなのではないだろうか。逆に、こちら側からあちら側に抜けるための連絡通路を開いておけば、私たちはこちらとあちらを往還しながら、アニミズムが自然と立ち上がってくるだろう。
ぼくもハジチの紋様を解読しながら、このことをつくづく感じた。ハジチを始めた人々は、人を人のみでは考えていない。人の向こうにトーテムである植物を、そこから生まれる蝶を、そしてトーテムからの化身態としては分身である貝とを同時に見ている。人はむしろ、それらの自然から照らされて像を結んでいる。
文学、思想、アニメ、トレンド等のさまざまな角度からアニミズムが論じられた本書のなかで、トーテミズムとの接点はいたるところにあるが、「往って還ってくる」生死の運動もそうだ。もっともトーテミズムからいえば、これは、「還って、現れる」、もっと正確には「還って、予兆(予祝)され、現れる」ということになる。「この世」側ではなく、「トーテム(あの世)」側に主体は置かれるからだ。
この運動を見るのには本書でも引用されている「メビウスの帯」がふさわしく、かつ、アニミズムからトーテミズムへの通路もつくりやすい。
一回転半ねじってメビウスの帯をつくり、それを帯びの真ん中から切り抜くと、「三つ葉結び目」ができあがる。ところで、貝塚・遺跡の構造を見続けていると、「あの世に還る」「予祝する」「この世に現れる」という三つの運動が絶えず行われているのが見えてくる。この「還る」「予祝する」「現れる」という運動をひとつながりにイメージすると、立ち上がるのは「三つ葉結び目」なのだ。
生と死以前に、トーテムと人との関係は、この「三つ葉結び目」のなかを絶えず歩む運動のなかで溶けあい確認されている。それはやがて、生と死を結ぶものとも考えられるようになる。このつながりあいの終わりは、「還る」「予祝する」「現れる」の場が分離によって表現されることになる。
人間を人間のみの世界で考えない他との接点を持つということは、アニミズムへの回路を拓く。それは同時にトーテミズムの世界への通路でもある。
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