「宮古島と宮古馬を学ぼう&何が出来るかミーティング」(宮国優子、梅崎晴光)
つよく心に残ったのは、何世代か前までの島人には「馬は友達」だったという宮国さんのひと言だった。
20世紀の初頭、フランス人の宣教師モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人について、驚きつつこう書いている(『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』 )。
それから半世紀後、あるとき私が畑仕事をしている生徒たちの様子を見に行くと、彼らは座りこんでいて、そのかたわらで二匹の牛が鋤の上に鼻面を乗せて寝そべっていた。
「歩きたがらないので、その気になるのを待っているんです」と少年たちは説明した。
彼らは少しも悪びれずに、自分たちの意欲と、二匹の牛、つまり人物(カモ)としての牛の意欲がうまく揃わなければ、牛に鋤をつなぐことはできないと本気で思いこんでいるのでそういったのである。
このように、学校の生徒たちが家畜と人間との区別がなかなかつけられないということは示唆的なことである。こういう少年に物語を語らせてみると、話のなかにはカモが登場する。カモは飛び、泳ぎ、地下に姿を消したりする。しかしそのつどそれが鳥であり、魚であり、故人であるとわざわざ断ったりはしない。語り手は、さまざまのお話にしたがって主人公の人物がとる姿を追いかけていくが、その人物は目に見える相は変えてもカモとしての身分は変えない。ちょうどいろいろな衣装を取り揃えてもっている舞台の登場人物のようにに、絶えず扮装を変え、変身していくのである。
「馬は友達」というとき、単に仲がいいというだけでは足りない。心を通じ合わせているのはその通りだとしても、それでも少し物足りない。どちらかといえば、このエピソードの少年たちのように、牛を人に連なるものとして見ているというのが近しい。だたそれは、「家畜と人間との区別がなかなかつけられない」というより「あまり区別をしない」と言ったほうがより近い。
レーナルトは少年たちの牛への接し方から、物語のなかで変身を自在に遂げていく存在(カモ)のことにつなげていくように、牛を擬人化してみるということには、それが他の存在へと変身することもあるという視線が伏在している。「馬は友達」にも、同じことは言える。与路島では、ハチジョウダカラガイを「ウシ」と呼び、与論島では大きなタカラガイを「ウマ・シビ(貝)」と呼ぶ。沖縄島ではスイジガイを「モーモー」と呼んだりもする。似ているからだが、こういう名づけの奥には、もともと人や自然を貝の化身態として見ていたこころの動きが宿されている。
宮古島に馬が入ってきたのは14世紀とされている。だから、動植物や自然物を「祖(ウヤ・オヤ)」としていた先史時代からは数百年が経過している。けれど、動植物や自然物をトーテムとした段階は過ぎていても、人と自然を連なるものとして見る視線は、心のどこかで生き続けてきた。トーテムの段階の終わった後に、トーテムに匹敵するような驚嘆で見つめられたのが馬や牛だったことが、これらの貝の呼称に刻まれているのだ。
歌謡のなかでは、砂糖キビの稔りが、牛や馬の「尾」のようと表現される。ススキに似た砂糖キビの葉がゆらゆらと揺れる様に、牛や馬の尾が重ねられている。牛や馬の尾ばかりではない。牛馬の動きもそうだった。
狭い道に追ったなら、
数珠玉のように揺れに揺れ
大野に出て、
追ったなら、
千頭万頭も追い囲こと 果報だと、
こう唱えます。「久場川村のまーゆんがなしいの神詞<上の村>」
数珠玉(ジュズダマ)という植物は、「稲の稔り」にも重ねられるように、ゆらゆら揺れるものを表すときに取り上げられる。牛や馬の尾ばかりではない。その行列も、ゆらゆら揺らめくものとして見つめられていた。
島ではゆらゆら揺らめくさまに、霊力の発現を見る。そこに心を奪われるとき、島人は「綾」という美称辞を添える。ミーティングの4月7日、島では浜降りだった。浜の向こうにはサンゴ礁の海がある。沖の方で白波が立つ。宮古島では、リーフに砕けて立つ白波は「糸の綾」だ。可視と不可視をまたぐ糸の揺らめく様に、宮古の島人はことのほか想いを寄せている。馬のたてがみや尾も「糸の綾」のひとつだ。
ミーティングから遠く離れすぎたことを書いてしまったけれど、「馬は友達」を肌身に知っている島人から、宮古馬のどこに惹かれたか、聞いてみたい想いが喚起されるひと言だったのだ。
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