『現代説経集』(姜信子)
言葉が身体に染み入るようだった。「八百比丘尼の話」はyoutubeで流しながら台詞を追ってみた。お気に入りのフレーズは声に出して読んでみた。
このところ、論考めいた言説の文体からの剥離感が強い。さりとて新しい文体がやすやすと出てくるわけでもないのだから、さてどのように書いたものかと戸惑いある者には、この声、この語りが、身体に入ってくると気づかされる。だから、作品のことを書く代わりに、心に留まるいくつかを引用しておこう。
「だから、私は、命をはぐくむ水だけを信じて、国家の内も外も境もなく脈々とのびてゆく命の流れをたどってゆく者です、この世をめぐる水の声に耳傾けて、水とともに流れて生きてゆく者です(後略)」
「(前略)歌は水のように変幻自在にこの世をめぐり、生きることの渇きを癒し、命をつないでゆく、それは私の祈りであり、私の旅である、歌を盗み、物語を盗み、記憶を盗み、この世の中心はただひとつとうそぶいて、水を澱ませる者たちへの、それは私の闘いである、と水のアナーキストは小声で呟いている(後略)」
「そもそも、基本的に、私のうちの九十九パーセントは死者たちの記憶や言葉や声でできあがっております、そして私のうちの私固有の領分は残りほんの一パーセントにすぎません、しかもこの一パーセントは空白、過去の無数の死者たちと未来の無数の生者たちとのつなぎ目となる空白です、かけがえのないものです、私は空白で、空っぽで、果てしない穴で、すべてを受け容れる水路で、同時に私はそこを流れる水で、それゆえにかけがえのない私は、私の中の死者たちの記憶を盗む者や死者たちの声を封じる者たちに、おのずとひそかに静かに抗するひとりの生者なのです、私は過去の無数の死者たちであり、未来のひとりの死者であり、未来の無数の生者なのです。」
「この世には旅をしなければわからぬことが無数にある。本当に大切なことは、旅の先に待っている、長い旅をして、ようやく出会って、つながったときに、そのつながりは未来へと延びてゆくだけでなく、かつてはつながりそこねた過去にものびてゆくものなのでしょう。」
「さて、「旅するカタリ」、と私はたったいま語りだしたばかりの物語を名づけているのですが、「カタリ」は「語り」でもあれば「騙り」でもある、私たちの生きる場所はいつでも嘘と真の間、善と悪の間、正と邪の間、記憶と忘却の間、あらゆる間を揺れ動くその揺らぎの中にあるものだから、何を語ろうともそれは騙りであろうし、その騙りのうちには実もあろうし、なので何事も黒だの白だの断じて畏れも恥も知らぬ輩とこの私をどうか一緒くたにしないでください、私が語るは、有象無象そんなこんなのすべてをのみこんだ「カタリ」。私自身が「カタリ」なのです、私は旅するカタリなのです。」
「物語とは旅する体が運ぶもの、道ゆく声が語るもの、という思いが私にはある。」
「すべての道に小さき神々。すべての道に人々のひそかな物語。物語は旅するカタリたちによって結ばれ、生きることより生まれいずる呪詛も祈りにかえて、祈りとともに増殖する。」
「あらためて。私は旅するカタリです。旅するカタリの声は無数の小さな中心をこの世に立ち上げる。語りとは声のアナーキズムなのだ。と、これは勢い余った私のひそやかな宣言。」
「旅するカタリはこう考える、植民地とは記憶を盗まれた者たちのいる場所、そんなところでは人間は生きているんだか生殺しなんだか・・・、そう、植民地とは、自身の記憶を自身の物語として自身の声で語る場を失くした者たちの場所、根も葉も芯もない宙ぶらりんの空虚な場所。」
「(前略)道をゆく、呼び合う声を結び合わせる、行く先々で人々が地声で自由に物語する治外法権の場を拓いてゆく、それが旅するカタリなのですよ(後略)」
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