« ミナミオカガニ段階の奄美大島住用・サモト遺跡 | トップページ | 「トーテムとメタモルフォーゼ」第1回:その全体観とシャコガイから出現する貝人 »

2019/04/16

「貝塚後期文化の貝交易(藤尾慎一郎)」『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

 琉球弧の精神史の探究は、思いがけず考古学に踏み入ることになったので、学ぶことが多いのだが、ここは琉球弧についての言及にのみ触れることにする。「貝塚後期文化の貝交易」というコラムだ。

 藤尾は、九州の土器文化の影響は見られるが、としたうえで次のように書いている。

貝塚前期文化は、縄文文化の琉球類型でるという考え方もあるが、のちに琉球王国が成立するという日本国とは別の国家が成立するという意味で、北海道とは異なる歴史的変遷をたどる点を重視して、筆者は貝塚前期文化や貝塚後期文化を縄文文化や弥生文化と並立する独立した文化という立場をとる。

 ぼくも先史琉球弧を「縄文文化の琉球類型」とするのは自文化を著しく見損なうと思うので共感するが、それを琉球王国の成立をもってするというのとは少し筋がちがう。琉球弧の先史時代のトーテムの系譜とその時間的推移が独立しているから、傘下に入るような形が安易に見えてしまう、ということだ。そもそも本土の弥生化にもかかわらず、先史時代を継続したところにも独自性は現れているわけだ。

 しかし問いはその先にあって、琉球弧でトーテムの推移が辿るように、本土でも辿ったら、それぞれの地域ブロックごとに同様の文化圏が見えてくるのではないだろうか。それはおそらく土器形式の圏とほぼ重なるように思えるが、そうだとしたら、縄文文化というくくりそのものがいったんは解体されて見直されるところまで行ったほうがいいと思える。

 ここから先は主に木下尚子の説を引く形でコラムは展開されている。

遺跡が森の高台から砂丘に移るのである。木下は、これまで依存してきた森から遠くなることをおいてもなお、サンゴ礁に面する前面に居を移した方がよいという決断を、人々が行った点を重視している。

 トーテムの視点からいえば、トーテムがオカガニからスナガニへ移ったところで、貝塚人たちは砂丘へ貝塚を築くようになる。貝塚人は、トーテムの地を目指すからだ。

 弥生土器の影響を受けた土器の出土から、九州北部との強い結びつきをもった「貝塚後期文化」というイメージが作られるが、しかしその後いっこうに、琉球弧で「稲作」が形成された形跡が見つからない。そこで登場するのが、貝交易を行う「貝塚後期文化」像だ。

 しかしこれについても、貝塚人は「交易」という経済活動を行っていたのではない。それとおぼしきははやくにヤドカリ段階に入った奄美の貝塚人がその可能性を持っている程度だ。貝塚人がしていたのは贈与だと思える。「沖縄の遺跡でゴホウラ類とイモガイ類の貝殻だけを集めた集積や、腕輪のために粗く加工された未製品(粗加工品)が見つかることから明らかである」と、貝は「交易のストック品」と見なされるのだが、貝塚人には交換の概念を持たないのだから、これはストック品ではない。考古学が「貝集積」と呼んでいるものは、貝塚人の分身である貝や土器や石器によって構築されたトーテム像である。貝や土器は分身なのだから、自分の分身をストック品として放置するはずもない。貝塚にストック品という構図は、御嶽や神社に商品在庫の箱が積まれたようなものと言えば、ありえないことが分かるだろう。

 贈与は貝塚や遺跡に残された貝とは別にプレゼントされたと考えるしかない。そして、交易ではないからこそ、本土からの貝の需要が途絶えたとき、貝塚人からの継続要請もなく、そのまま終焉を迎えることになるのだ。交易「貝塚後期文化」像もこの点は見直されなければならないと思える。

 

『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

|

« ミナミオカガニ段階の奄美大島住用・サモト遺跡 | トップページ | 「トーテムとメタモルフォーゼ」第1回:その全体観とシャコガイから出現する貝人 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ミナミオカガニ段階の奄美大島住用・サモト遺跡 | トップページ | 「トーテムとメタモルフォーゼ」第1回:その全体観とシャコガイから出現する貝人 »