映画『洗骨』
もう記憶が遠ざかり始めているが、照屋年之監督の映画は、洗骨が正面から取り上げられていて感銘を受けた。ラスト・シーンはそれをはっきりと示していて、余韻の映像が続くものと構えていただけに驚かされた。舞台の粟国島は、潮を三度かき分けるともう後生に着くと伝えられてきた島だから、洗骨を介した生死の往還を重くせずに思い出させてもくれた。
ただ、21世紀の与論島で洗骨を経験したことからいえば、それは「風習」には違いなくても、そういうより単に「再会」だった。「変わり果てた姿」という感じもなく、姿を変えてはいるけれど、祖父と会ったという気がした。叔母が泣きながら声をかけて抱きついたので、その思いを強くしたのかもしれない。
洗骨の際、骨を苧麻の葉で拭き取ることになっている島もあるから、洗骨は「あの世」の発生した植物トーテムの段階ではすでに行われていたのだと思える。
そうだとすれば、「洗骨」が人間だけの世界を抜け出ていく作品を観たいと思う。波照間島で洗骨が、誕生祝いという意味で呼ばれたように、それは再生を促す行為でもあった。そこでは、死は死者になるというだけではなく、トーテム霊に還ることも意味している。トーテムの化身態としてある人の往還の結節に洗骨は考えられていたのだ。
しかし、忘れられたと思える習俗もこうして作品として再生することがある。そこには大きな可能性のあることを感じさせてくれた作品だった。
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