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2018/01/19

「沖縄新石器時代前Ⅳ期の二・三叉工具による押し引き文土器について」(島袋洋)

 島袋洋は、奄美系と呼ばれる土器のうち、面縄東洞式は、「先端が二叉や三叉に分岐したヘラ状工具を使用して押し引き文を施」されていると指摘している(「沖縄新石器時代前Ⅳ期の二・三叉工具による押し引き文土器について」(島袋洋「廣友会誌」2016)。

 これは曲線文が組み合わされるものに集中する。

先端の尖ったあるいは丸味を帯びたヘラ状工具による幾何学的な文様と異なり、曲線を駆使した抽象的な構図やUターンするような横位文など、特徴的な文様構図を採用している(後略)。

 出土した遺跡・皆具かごとに丁寧に説明されているので、感覚的につかむことができた。ぼくたちはこの工具をカラムシ(苧麻)の茎と推定している。

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 古我地原貝塚のこれは、筆使いのような指の動きまで見えてくるようだ。

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 上の伊礼原遺跡のものは、超えと潜りを丁寧に表現しようとしている。


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2018/01/18

「八重山民謡に見るヒトとカニとのかかわり」(武田淳、大山己)

 「八重山民謡に見るヒトとカニとのかかわり〔含 コメント〕」(武田淳、大山己「季刊人類学」1989)は、「網張(アンパル)ヌ目高蟹(ミダガーマ)ユンタ」のカニたちを分析している。

 目を止めるのは、「ヤクジャーマ蟹」では、ベニシオマネキとされているが、「発見・採集の困難度から」ヒメシオマネキを当てはめていることだ。

形態的特徴として赤いはさみ脚をもち、行動学的にはベニシオマネキはよくはさみ脚をふるので、踊り役に適しているのではないかという疑問は残るのであるが、昼行性でかつ群居性のヒメシオマネキの方が個体数が多いためにヒトとの出会いも多かったのではないかと判断するからである。

 ぼくたちの問題意識は、農耕と人のかかわりではなく、トーテム蟹にあるので、この歌を離れて、どちらがふさわしかといえば、「赤」色と鋏の上下が、トーテムにはより意味を持ったと考えられる。

 しかし、それはともかく、「ミナミヒメシオマネキ」はとても美しい。この色をモチーフにした土器がないか、探ってみたくなる。

 ここには安渓遊地のコメントがあって、これが面白い。

 西表島干立集落では、ツノメガニとミナミスナガニの両方を指して「パルン」と呼ぶ。面白いのは、北琉球の阿波連下層式土器の蟹モチーフが、このふたつの蟹になるのだが、ひとつにならないのが不思議に思っていた。これは西表島の例だが、両者はおなじものとして括られていたなら、とてもよく了解されてくる。

 西表島では、干立集落の人は、「フタデガタリャー」と呼ぶ。ガタリャーとは、ワタリガニのことだ。「小さいけれども攻撃的で、はさまれるとひどい目にあう」。あだ名には、トーテムの記憶が宿っている。

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2018/01/17

下田原期の土器文様と口縁部形態

 これだけで何が判断できるわけでもないが、下田原期の土器文様と口縁部形態の類型を対応させてみる(『石垣市史考古ビジュアル版第1巻』(石垣市総務部市史編集課編)。

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 ぼくたちが、貝の可能性を見たのは、2になるわけだが、「縦耳」は分からないとして、「指頭押圧紋?」「縦位爪形紋」は、「貝」ではなく、「トカゲ」にふさわしい文様だ。バリエーションはあっても、これらはやはり「トカゲ」と見なしてよいのかもしれない。

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2018/01/16

無土器期の石斧と蟹

 『石垣市史考古ビジュアル版第2巻』(石垣市総務部市史編集課編、2008)から、無土器期の石斧の特徴をタイプと特徴を抽出してみる。

 1.短冊形で、両側面に平面があり、片切刃を持つ。とても肉厚で鋭い刀部を持つ。
 2.両側面に平面があり、片切刃を持つ。扁平な方形片刃で、とても鋭い刀部を持つ。
 3.両側面に平面があり、片切刃を持ち、蛤刃を持つ。類例が少ない。
 4.断面形状が半円に近く、片切刃を持つ。丸ノミ状石斧。刀縁が放物線状に尖る。
 5.断面形状が薄い半円に近く、片切刃を持つ。4が薄くなったもので、くちばしのような形。

 トーテムの段階からいえば、これは蟹の鋏を表現していると思える。

 トーテムとして想定した蟹(カニ)たちは、

 ・ミナミオカガニ 参考:「カニ類 オカガニ科 ミナミオカガニ」
 ・ツノメガニ 参考:「ツノメガニ」
 ・ベニシオマネキ 参考:「6/30 今日の木道:シオマネキの仲間とか」
 ・オウギガニ 参考:「カノコオウギガニ」

 これを、類例が少ないとされる3を除いたものに該当させてみる。

 ミナミオカガニ:2.、「扁平な方形片刃」と「鋭い刀部」
 ツノメガニ:4、「断面形状が半円に近い」「刀縁が放物線状に尖る」
 ベニシオマネキ:1、「短冊形」「両側面に平面」「とても肉厚で鋭い刀部」
 オウギガニ5、「断面形状が薄い半円」「くちばしのような形」

 南琉球弧は、土器は途切れても、斧には変わらずトーテムを表現してきたと思える。南琉球弧は、「斧」で編年を組めばいいのではないだろうか。

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2018/01/15

与那国島大泊浜貝塚の焼土製品

 与那国島の大泊浜貝塚で出土した「焼土状製品」の胎土分析が行われている(「胎土分析から見た下田原式土器」「付編 与那国島大泊浜貝塚採集焼土状製品(仲座採集標本)の胎土分析」(山崎真治、仲里健、仲座久宜「沖縄県立博物館・美術館博物館紀要 / 沖縄県立博物館・美術館 編」2012)

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(「与那国島で採集した考古資料」仲座久宜、羽方誠「与那国島総合調査報告書」「沖縄県立博物館・美術館別刷」2009)

・色調は橙褐色~暗灰褐色を呈する。
・調整痕を持つものもあり、土器片や土製品の可能性も考えられる。

焼土状製品1
・有孔虫、貝殻等の生砕物が多く含まれる。石英粒が多く含まれ、雲母、斜長石もみられる。

焼土状製品2
・1と同様。砂岩等の岩片も少量含まれる。

 これを沖縄島南部の土器胎土の突き合わせてみる(「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健「日本考古学」2015)。

 もっとも近いのは、面縄前庭式(新)に相当する胎土だ。

 面縄前庭式(サキタリ洞遺跡)
 ・石英、斜長石、雲母、砂岩、変成岩

 大泊浜貝塚焼土製品
 ・石英、斜長石、雲母、砂岩、生砕物

 大泊浜貝塚は、「遺跡は祖納集落の東約3.5㎞、 東端の東崎へ至る途中で牧場を北に抜け、 急峻な道を下ると北側海岸沿いの砂丘地に立地している」(「与那国島で採集した考古資料」)。

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 この立地からすれば、仲原式~浜屋原式の胎土とも近いと言える。

 仲原式~浜屋原式(サキタリ洞遺跡)
 ・石英、斜長石、雲母、砂岩、生砕物、角閃石

 胎土からいえば、大泊浜貝塚は貝あるいは蟹トーテムの段階を示唆している。立地や生砕物の多さからいえば、蟹トーテムの可能性が高いのではないだろうか。

 著者は、「細粒の石英」は、「現地性の堆積物とは考えられない」としている。

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2018/01/14

「沖縄島南部における先史遺跡の分布と立地について」(山崎真治)

 山崎真治は、先史時代の遺跡立地について、糸満と南城との地形のちがいを指摘している(「沖縄島南部における先史遺跡の分布と立地について」(「沖縄県立博物館・美術館博物館紀要 沖縄県立博物館・美術館 編」2011)。

 南城では、標高の高い石灰岩台地が広く発達していて、険しい崖線の続くところに遺跡は分布している。対して、糸満は海水面と比高差の小さい低平な石灰岩台地がひろく分布していて、遺跡も台地縁辺部から海浜部にかけて形成されている。

 糸満では、居住活動に適した広い平坦面を確保することができた。

縄文時代の南城方面では、まだ低地部分での砂丘の発達が十分でなく、弥生~平安並行時代に砂丘が発達して以降、低地に遺跡が進出した、と推定することができる。

 低地である場合、トーテムの変化と遺跡の立地は連続的に見えるわけだ。


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2018/01/13

下田原貝塚土器と隆帯文系土器

 山極海嗣は、下田原貝塚のみで現れる土器形態に言及している(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 : 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」)。

下田原貝塚(1983-85)のみ例外的にこれら 3 類型に加え、口縁に向かって内湾する器形が口唇部で直口に立ち上がり、口唇部外面に凹みを有しやや外反するという、3 類型には含まれない口縁形態を確認することができる。

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 この口唇部の外反は、北琉球の隆帯文系の土器のそれと似ている。

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 この下田原貝塚のみで出現する土器が、貝トーテムを示すものなのかもしれない。


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2018/01/12

「奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島土器の蛍光X線による胎土分析--縄文時代後・晩期資料を中心に」(新里貴之、三辻利一、大屋匡史)

 詳細は手に負えないので、分析結果のうち、気になる箇所をメモしておく(「奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島土器の蛍光X線による胎土分析--縄文時代後・晩期資料を中心に」(新里貴之、三辻利一、大屋匡史「廣友会誌」2008)。

・奄美大島は南北に二種類の異なる胎土を持つ土器がある。
・面縄第3貝塚、第4貝塚は、約160m離れた近隣の貝塚だが、土器粘土の採取箇所が異なる可能性がある。
・沖永良部島の沖縄系土器は、沖縄諸島地域からの搬入品ではなく、沖永良部島で製作された可能性がある。
・具志川島遺跡群の土器は、島内で作られた可能性が高い。
・伊是名貝塚出土土器は、島内で作られた可能性が高い。
・古宇利原A・B遺跡出土土器は、小さな島内でも、土器粘土の採取場所が時期によって異なる可能性がある。
・仲泊遺跡群出土土器は、ほとんどの試料が沖縄領域に分布する。

・奄美、沖縄、先島は土器胎土が異なる。
・奄美大島内においても北部と南部でかなり違いがあり、沖永良部島もかなりの違いがあり、一概に奄美系胎土とは呼べない。

 読んでいて思うのは、現在の島ごとの意識差は、先史時代には存在していたものだということだ。

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2018/01/11

胎土の南北

 「胎土分析から見た下田原式土器」(山崎真治、仲里健、仲座久宜「沖縄県立博物館・美術館博物館紀要 / 沖縄県立博物館・美術館 編」2012)。これを、「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健「日本考古学」2015)に突き合わせてみる。

 下田原式土器の胎土。

 A:チャート、ホルンフェルス 富崎層
 B:片岩 トムル層
 C:石英 火成岩(野底層、於茂登岳の深成岩類)

 ホルンフェルスは変成岩の一種。

 まず、チャートと変成岩の組み合わせの胎土は、沖縄島軟部出土のものにはない(A)。
 
 Bの「片岩」は、雲母に似たり斜長石が含まれたりすることがあるのだとすれば、ヤブチ式がやや似ている。

 Cの「石英」は、どの土器にもある。石英の比重が高いのだとすれば、面縄前庭式古段階が近しい。

 そうすると、

 B:蛇
 C:貝

 Aを変成岩でとれば、

 A:トカゲ

 になる。

 大田原から出土しているのは、Bがほとんどだから、上記の推定は矛盾することになる。

 しかし、片岩は変成岩の一種だから、そういう意味では、Bは沖縄島南部の条痕文系と共通性が出てきて、トカゲと解しうることになる。チャートを多く含むのは、伊波式だから、チャートで取れば、

 A:貝と麻
 B:トカゲ
 C:貝

 になる。これはありえるだろうか。

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2018/01/10

「琉球列島における先史時代の崖葬墓」(片桐千亜紀)2

 具志川島岩立遺跡の人骨からは、「乾燥骨」のほか、「焼骨」、「火葬骨」も検出されている。

 片桐は書いている。

(前略)崖葬墓では骨化した骨そのものを火で焼いて再葬する葬法や、軟部組織が残った状態で火葬する葬法が営まれていたことがわかる。全体が24事例と考えるとたった2事例は希少な葬法であるが、その数よりもこのような葬法が貝塚時代前期と後期にわたって行われていたことに着目したい。

 24例中2例ということは、通例の葬法ではないということだ。

 あてずっぽうに過ぎないが、「焼骨」は洗骨やオーストラリアの種族が骨を砕くのと同じで、再生を願うもの、「火葬骨」は、貝の増殖を願うもの、ではないだろうか。

 焼くということは、太陽を通過させるということで、貝になる行為を意味すると思える。それを、人骨に対して行うのは、貝人間としての増殖であり、人体を焼くのは、貝になる行為として貝の増殖だ。

 子の誕生を願う際に「焼骨」が行われ、貝の増殖が願われた際に「火葬」が行われた。そう仮説しておく。
 


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』

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2018/01/09

伊計島仲原遺跡の他界

 仲原遺跡は、伊計島の石灰岩台地上中央部に立地する。23基の竪穴住居跡が検出され、7期の竪穴住居内から、計8体分の人骨も検出されている。墓構造が判明しているのは1号住居のみ。

1号住居中央部の床面を破壊して、土坑が掘り込まれた廃屋墓で、40cm大程度の平坦なテーブルサンゴを右腕側に置く置石土壙墓である(新里貴之「琉球列島における埋葬遺跡の文化的景観」)。

 伊藤慎二は、これについて、「集落空間と埋葬空間の意識が実際に空間的にも直接重複する場合があることを示す一例とみなされる」(「琉球貝塚文化における社会的・宗教的象徴性」)としている。

 この廃屋墓の位相を図れば、「死者が出るとキャンプ地を去る」というスタイルから、集落が定着し、「死者が出ると住居を去る」スタイルへ移行し、かつ集団の墓へ移行しないまま他界を発生させた例だと思える。

 人骨は、成人女性で、「南頭位の仰臥伸展葬」(新里貴之・同前掲)である。この方位からすれば、他界は島の南の伊計グスクではないだろうか。

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(新里貴之「琉球列島における埋葬遺跡の文化的景観」)

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2018/01/08

徳之島喜念クバンシャ遺跡の他界

 喜念クバンシャ遺跡は、「東部の発達したリーフを主要な生業活動の場とし、南側河川とに挟まれた小規模な台地上に居住域をかまえ(喜念クバンシャ遺跡)、北接した岩陰部を墓域(喜念原始墓・喜念クバンシャ岩陰墓)とした完結した領域を確認できる」(新里貴之「琉球列島における埋葬遺跡の文化的景観」)。

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(『喜念原始墓・喜念クバンシャ遺跡・喜念クバンシャ岩陰墓』鹿児島県大島郡伊仙町教育委員会、1988.3)

 この図からは分からないが、喜念クバンシャの他界は、南側の喜念埼ではないだろうか。前5期に相当するとして、リーフ外に立神(トゥンバラ)があれば分かりやすいのだが、それは見当たらない。

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2018/01/07

ラドクリフ=ブラウンのトーテム・センター

 ラドクリフ=ブラウンがトーテム・センターに言及しているところを("The social organization of Australian tribes")、「アボリジニ社会から構造主義へ─土地と親族をめぐるアボリジニ社会の構造─」(門口充徳)から抜粋してみる。

第1に、多くはウォーターホール、時には岩や木や茂みなどの自然物が、トーテム・センターと称される聖地となっている。第2に、トーテム・センターは、トーテムと称される特定の動植物などの棲み処とされている。第3に、世界の始源の時代に遡る特定の神話的祖先がトーテム・センターの形成に関与しているとされる。第4に、個々のホルドの領地にはいくつかのトーテム・センターが存在し、ホルドの成員とトーテムとの間には特殊な関係がある。クランの成員は、トーテム・センターにおいてトーテムの繁殖を祈念する儀礼をおこなったり、とくに神話の形でトーテムの祖先たちの行為を再現したりする。また部族によっては、クランの個々人は、トーテム祖先の輪廻、あるいはトーテム・センターに由来した化身と考えられている。

 ぼくは琉球弧において、土器の胎土を供給した場がトーテム・センターに当たるのではないかと考えている。ラドクリフ=ブラウンが挙げている4つの特徴はそのまま、琉球弧にも当てはまるのではないだろうか。

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2018/01/06

貝塚時代前4期のトーテム・センター

 伊藤慎二は、伊是名貝塚の伊波・荻堂式の遺構は、形成順序を層位的に把握できたものとしては、「琉球列島のすべての先史時代の遺跡を含めて当遺跡はきわめて希有な例に属する」と書いている。

 また、伊波・荻堂式の土器は、斉一性が高いとされているが、伊是名島の場合、島内で容易で胎土を用意できただろうとされている。

 「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健)では、伊波式の胎土の産地として、「沖縄島北部本部半島とその周辺離島(伊江島、伊是名島、伊平屋島)が候補となりうる」としている。

 ぼくたちはここで、「麻」がトーテムとなったときのトーテム・センターを伊是名島に見ることになる。


『琉球縄文文化の基礎的研究 (未完成考古学叢書 (2))』

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2018/01/05

「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健)

  「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健「日本考古学」2015)。これはぼくにはとても重要な論考だ。

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 胎土からいえば、「貝」は「雲母」で表現され、「苧麻」は「チャート」、「蟹」は、「石灰岩の生砕物」で表現されたことになる。チャートを入れると、土器の質感はどうなるのだろう。

 また、胎土の産地は、それぞれのトーテム段階の、いわばトーテム・センターを示唆するのかもしれない。


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2018/01/04

「境界紀行(八)秋田(九)遠野 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

秋田の小野、湯沢と岩手の遠野。本州弧の北で谷川ゆには「境界紀行」の作法あるいは方法を問おうとしているように見える。

 「この世ならぬものに出会う」不思議な体験を信じる者は愚か者だ、馬鹿者だという「知的な物知り人」に対して、平田篤胤は「しかしそうは言っても、その証拠があるのだからどうしようもない」と苛立ったように答えて見せるのだが、谷川は19世紀初頭には既にそれが問われなければならなくなっていたことに目を向けている。

篤胤やその周囲の人々は、不思議な出来事やこの世ならぬものの存在に対して、客観的に「有か無か」ということをあえて突き詰めねばいられなくなっているということだ。わざわざ論証しなくても不思議なものが疑いなくあったかつての時代から、少なくとも知識人のあいだでは実体としてのカミや霊魂の有無が取り沙汰されるような時代に変化してきているということが窺い知れる(八)。

 「庶民レベル」ではいざ知らず、というわけだ。二世紀後の現在もこの問いは、消えているようで消し切れているとは言えないが、谷川は「あるか、ないか」「信じるか、信じないか」という切込み方自体が、ある種の近代性を孕んでおり、そのように問いを立てた時点で本質からかえって離れるような感じがする」と書く。

 ここで問いは変換される。あるかないか、信じるか信じないかではなく、どのようにしたらかつて信じられたように、感じることができるのか、というように。

 修行、ではない。「人間の側が強い意志で努力して初めて神と近づくことができる」(九)という考え方もあるが、琉球弧のユタは、「修行などしなくても、勝手に「神ダーリ」という「巫病」にかかる」。「自分で望んだわけでもなく、神の方からやって」くるのだから。

 それより谷川は、遠野に取材した水木しげるの、妖怪の「気配は感じたけれど、出逢えなかった。やっぱりああいうものは、長い間住んで初めて会えるものと違いますか」という言葉に立ち止まる。

 一時の訪問者である水木が妖怪に出会えないのは、「遠野という土地を包み込む自然とのつながりが、神や妖怪と出会えるほどには成立していない」からだ。しかし、水木は気配は感じる。

 それは、都市に暮らす人々であっても、本質的にはやはり自然の一部であり、『遠野物語』の世界と同じように、草木や動物に宿る神々と共に暮らしてきた古代のあるようが身体の中に眠っているからだろう(九)。

 それが活性化されて不思議さを体験する、言い換えれば自然との交渉を取り戻すとき、「気配を感じる」という言葉が出てくる、と谷川は捉えている。

 「あの世」は、「現世に重なるように存在している。こちらからその世界を見ることはできないが、しばしば漏れ出してくる不思議な出来事こそが、そこに「幽冥界」が「ある」ということのなによりのあかしだ(八)」と篤胤は考えるが、有無ではなく、「感じる」には、その土地に住みその自然に根ざさなければならない。けれど、「気配」を感じることなら、一時の訪問者にもできる。なぜなら、訪問者だって、不思議を感じる心身を持ち合わせているのだから。

 そこには「体系化された神道の文脈」(八)も必要だというわけではない。谷川はその土地の懐に飛び込むように、感受しようと努めるのだが、そこでは自分が自然を見るのではなく、自然から自分が照射されるように心身を差し向けている。訪れるのは自分だが、主体は自分に置くのではなく、自然の側に委ねるのだ。すると、谷川が初めて平田篤胤の墓を訪ねて挨拶をしたときのように、「自分が肯定的に受け入れてもらったように感じ」(八)られてくる。そして「この世ならぬものと、私自身が重なってしまって区別がつかないような」(九)実感もやってくる。

 連載の「境界紀行」は、「古層」の「水脈に繋がろうとする実践の旅」なのだ。あるかないか、信じるか信じないか、ではない。どのようにしたら感じられるのか、と谷川は身体で問うている。


「波 2017年 11 月号」(新潮社)


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2018/01/03

トーテム編年 2

 「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健「日本考古学」2015)によると、沖縄島でも、トーテムの追加と胎土産地の変化は同期している。

 そうだとしたら、南琉球のトーテム編年は、もうひとつ可能性を持つことになる。

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 ふたたび、山極海嗣の論考に戻ってみる(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」2016.03)。

 トゥグル浜遺跡は土器が一切出土していないが、人工遺物の属性は下田原貝塚(1954・1983-85)と類似している点が多いことが指摘されている(安里)。一方で、無土器期の遺跡と比較すると、トゥグル浜遺跡の属性は八重山列島の無土器期遺跡の属性とは異なる点が多く、反対に宮古島の浦底遺跡と共通する属性が見られる。トゥグル浜遺跡では遺物包含層から出土した貝類から下田原期よりも古い年代が示されているが、貝類は海水のリザーバー効果1や、資料となる貝類自体が土中に埋没する時点で化石化している可能性など、土層本来の年代よりも古い値を示している可能性が高い。リザーバー効果の年代的な誤差も踏まえて考えると、トゥグル浜遺跡は下田原期から無土器期の最初期までに属する可能性を有している。安里嗣淳は、トゥグル浜遺跡を下田原期と無土器期の繋ぐ架け橋のような存在と位置づけているが、今回の分析と比較結果からもトゥグル浜遺跡はまさに下田原期の新段階と、宮古島における無土器期の最初期の間に位置づけることができる属性を示していると捉えることができる。

 この指摘を重視すると、表の「トーテム2」の編年が考えられることになる。

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2018/01/02

貝塚時代の土器の色

 「沖縄島南部における先史土器胎土の長期的変化に関する一考察」(山崎真治、仲里健「日本考古学」2015)は、土器の胎土について、産地を推定している。こうなると、ぜひとも確認したいのは、土器の色だ。

ヤブチ式土器(前1期)

・褐色~黒褐色。薄手の破片。
・黒色の鉱物粒。顕著な特徴。
・火成岩(黒雲母)

 顕著は、「黒色の鉱物粒」は、黄褐色の地に黒褐色の斑紋が入るハブの特徴を示すのだと思える。

爪形文式土器

条痕文式土器(前2期)

・やや厚手で焼き締りは悪く、粗粒の円礫の混入。
・石英含むものあり。

オキナワトカゲの生息地は、

本種は海岸付近に多く、特に砂地を好むようである。また、琉球石灰岩の岩場にも生息しており、 山地よりは低平地に多い(「爬虫類 - 沖縄県」)。

条痕文式土器

面川前庭式土器(前3期)

・古:石英、砂岩、新:石英、斜長石、黒雲母、砂岩、変成岩。
・肉眼観察で金色に見える長柱状の劈開のある鉱物が含まれることが特徴。
・上記は黒雲母と同定される。

面縄前庭式土器

面縄貝塚出土土器

 見にくいが、この期に属するのは、手前の完成品のように見える土器だと思う。

伊波式土器(前4期)

・チャートの礫が多く含まれる。
・胎土の斉一性が高い。
・石英とチャート

伊礼原遺跡土器

 チャートが入ると、どうなるのだろう。

伊波式土器

荻堂式土器

面縄第2貝塚Dトレンチ出土土器

嘉徳Ⅰ式土器

嘉徳Ⅱ式土器

面縄前庭式土器、二重口縁面縄東洞式土器、嘉徳ⅠA式土器、嘉徳Ⅱ式土器、嘉徳式土器

 見た目、伊波式は白っぽいものもあるが、荻堂式になると赤っぽい。目を見張るのは嘉徳式で、青々としている。この時期の北琉球内部でも土器分離は、苧麻の込め具合いの違いを意味するのかもしれない。

室川式土器(前5期)

・赤褐色の外観
・肉眼観察でも生砕物(有孔虫類の遺骸)が多く含まれる。
・石英粒を主とし、粗粒の生砕物を多く含む。
・生砕物は海浜砂やビーチロックに由来するものではなく、石灰岩に由来する。

仲原式土器(後1期)

・細粒で生砕物を含むものが多い。

仲原式~浜屋原式土器(後1期)

・細粒の石英、斜長石。粗粒の鉱物、岩片は認められない。
・石灰岩に由来する粗粒の生砕物が多く含まれる。

仲原式土器

 仲原式では、橙色も目立つ。

宇佐浜式土器

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2018/01/01

浜屋原式土器とベニシオマネキ

 浜屋原式土器の位置系列はシオマネキだと思う。

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 砲弾状と言われる形態は、シオマネキの甲が四角形に寄っているためのものだと考えられる。ここで、第一文様帯への関心は失われているように見える。なかでも、「赤」が鮮やかなベニシオマネキは、筆頭だっただろう。

 参照:ベニシオマネキ

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