« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »

2017/11/30

アラフ遺跡と貝斧

 宮古島アラフ遺跡の遠景と考古学者の江上幹幸が発掘した貝斧。これは、モノクロでしか見たことがなかったので、ただ美しさを味わえればいい。(参照:「宮古島アラフ遺跡のシャコガイ製貝斧と利器」(江上幹幸)

Photo_4
Photo_5
(「沖縄考古学ニュース - 沖縄県立博物館・美術館」2009)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/29

津堅貝塚の土器群

 津堅貝塚の土器群も独特だ。貝塚時代後期に属する。

Photo_2
(「沖縄考古学ニュース - 沖縄県立博物館・美術館」2009)

 いちばん左は、アカジャンガー式土器。これが壺形だろうか。「くびれ平底」系。

 真ん中と右は、「無文尖底」系に位置づけられる大当原式。

 口縁部の文様は、左上の大当原式?と下段のアカジャンガー式?が気になる。「無文尖底」は蟹トーテム、「くびれ平底」はヤドカリトーテムと、ぼくは考えているが、どれも蟹文様なのではないだろうか。宮古の刺青文様の「蟹」と似ているのだ。

Photo_3

 穿った見方をすれば、大当原式?(左上)の「無文尖底」は貝の子として蟹を表すので、曲線は「鋏」のみを示せばいい。しかし、「くびれ平底」系のアカジャンガー式(下段)は、ヤドカリだから、土器本体は貝なので、合体する蟹は、宮古文様のようにふたつの曲線で描かれていると見なすこともできる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/28

伊礼原遺跡の土器群

 伊礼原遺跡の土器群がすばらしい。遺跡は北谷にある。

Photo
(「沖縄考古学ニュース - 沖縄県立博物館・美術館」2009)

 「爪形文」はその長さを想像させる。室川下層式は、「条痕文系」に位置づけられる。

 面縄前庭式は、「隆帯文」系。頚部のくびれと胴部の張りがすごい。貝の産出力が強調されている。

 荻堂式は、「点刻線文」系。口縁部の突起と「赤」が目に入る。この赤は、蝶形骨器の赤と同じ意味を持つと思える。

 面縄東洞式は、「籠目文」系。口縁部の押し引き文がすごい。

 大当原式は、「無文尖底」系。口径の広がりが特徴的だ。フェンサ下層式は、「くびれ平底」系。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/27

肥厚口縁系土器の奄美先行

 奄美の貝採取は、イノーでは大形種、そして干瀬・礁斜面の種も多いことが指摘されている。

イノー内でも大形種が目立ち、干瀬・礁斜面の種も多いことは、沖縄諸島の前4期とは異なり、同諸島の後1期の組成に類似し、貝類採集状況が徳之島において時代をさかのぼる可能性が出てきた。(黒住耐二「面縄貝塚の貝類遺体(予察)」)

 一方、森田太樹は、「奄美諸島における前5期の土器について」で、前5期の肥厚口縁系土器は、「口縁部の肥大化・文様の無文化・壺形の成行を始まりとして、しだいに口縁部の扁平化・幅広化、そして肥厚の消失という方向性で次の段階へと移行する様相が明らかにされてきた」と書いている。

 肥厚口縁系は、前5期より前に、沖縄諸島に先立ち、奄美で展開され始めている。このことは、黒住の指摘する状況と無関係ではないはずだ。つまり、サンゴ礁を貝とみなす思考が進展していたのである。内在的な理由を求めるとすればそれは、イノーが大きくはならず、すぐに干瀬に届くことが背景にあるのではないだろうか。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/26

前4期土器の貝・蝶・苧麻

 仲泊式土器の口縁は、山形と平口縁がある(新里亮人「貝塚時代前4期奄美諸島の土器様相」)。

Photo_2

 両タイプがあるにしても、本質的には上図の「山形」が重要なのではないだろうか。口縁部に「蝶」を表現したのだ。

 蝶の造形は、4000年前の「蝶形骨器」に始まっているが、その段階で土器様式の変化はなかった。3500年前の変化は、蝶形骨器の意味とは異なる。他界の発生である。

 他界の発生は、時間を一方向へと向ける。そこで、時間の尺度を持つ、この段階ではおそらくトーテムだった蝶を、土器で表現した。それが「山形」の意味だ。

 前4期の展開が複雑なのは、この後、沖縄諸島中心の「沈線文系」と奄美諸島の「籠目文系」に分かれることだ。「籠目」の名の通り、奄美系は、植物トーテムの出現を想起しやすいしかし、

Photo_3

 しかし、点刻線文系にしても、第一文様帯のなかでは、網目の表現が見えてくる。だから、どちらにしても、貝・蝶・苧麻のみっつを表現したことでは同じではないだろうか。

 新里は書いている。

貝塚時代前4期の平底土器は、口縁を肥厚させることによって口縁帯を強調し、施文を第一文様帯に特化させたもものから、口縁帯表現の簡略化とともに施文範囲を胴部にも拡張させていく経緯を辿り、第一文様帯への強いこだわりが喪失していく過程を示すと解釈される。

 これを引き取ると口縁部の強調は、他界との境界部の意識化であり、胴部への文様拡張は、この世とあの世の時間差の意識化ではないだろうか。


伊藤慎二『琉球縄文文化の基礎的研究 (未完成考古学叢書 (2))』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/25

条痕文系土器とトカゲ 2

 この条痕文系土器のデザイン、なかでも奄美大島の宇宿高又遺跡の土器デザイン(左)は、オキナワトカゲの鱗の列とそっくりではないだろうか。

 参照:「オキナワトカゲ(孵化)」「オキナワトカゲ(卵)」

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/24

オキナワトカゲのプロフィール

 オキナワトカゲには多くの呼び方がある。

方 言 名 : 沖縄諸島内の各字や集落で異なる方言が多いので、ここでは主なものだけをあげる。
アンダー、アンダクェー、アンダクェーチルー、アンダクェーボージャー、アンダクェービーチャ、ー、アンダクェーマースー、アンダケーボージャー、アンダチラー、アンダチルー、アンダチャー、アンダチャーラー、アンダーハブ、アンダマースー、アンラケー、カーミヌワヤー、カニアンダチ、ルー、カミオイケンケン、カミンジャリ、コーレーグサー、ハーミヌゥワリー、マカイワヤ、マカ、イワヤー、マッカイワヤ、マッカイワヤー、ほか(「爬虫類 - 沖縄県」)

 このなかでは、「アンダーハブ」に目が行く。蛇からトカゲという思考が読み取れる。

全長 19 cm に達する。頭胴長 6~10 cm。幼時は、暗褐色地の背中に白い縦線があり、尾は空色をしている。成長にしたがってこれらの紋様は消失し、褐色の体色に変わる。背中から尾部に伸びる地色に縁取られた白線は、尾の基部から尾端に向けて半分程度まで伸びる。沖永良部島と与論島の個体は尾部に伸びる線は短くなっているが、近年の生化学的、分子生物学的解析から本種に属することが判明している。

分 布 の 概 要 : 沖縄諸島と奄美諸島の与論島、沖永良部島、トカラ列島の中之島に分布する。

生 態 的 特 徴 : 雌は5月中旬から下旬頃、石の下などに穴を掘り5~8個産卵する。産卵後雌はそのまま巣に留まり、卵を動かしたり、舐めたりして卵の世話をする。7 月上旬には孵化個体が出てくる。餌は、昆虫、クモ、ミミズなどの土壌動物が多い。非常に小さな島でも生息が可能であり、長期間個体群が維持されているケースがあると考えられている。

生息地の条件 : 本種は海岸付近に多く、特に砂地を好むようである。また、琉球石灰岩の岩場にも生息しており、山地よりは低平地に多い。

 奄美、沖縄に普遍的に存在し、生息地も前2期の島人に矛盾しない。

 参照:オキナワトカゲ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/23

「南海の竜」(後藤明『「物言う魚」たち』

 ニュージーランドには大型のトカゲが実際に生息していた。メラネシア方面から伝わった鰐の伝承はトカゲのイメージに重なり、竜の観念ができあがったのだろうと、後藤は書いている。

 マニニが航海をして見知らぬ土地にたどりつく。老婆と娘が人食い竜に苦しんでいる。土地の人は火を知らず、生のものしか食べたことがなかった。竜を倒したら娘をもらえる約束をし、穴に隠れながら、マニニは竜の腕や指を切り取り、とうとう竜は死ぬ。その腹を割くと、たくさんの死骸が出てきた。

 マニニは娘を得て妊娠するが、土地の女たちは腹を割いて出産させるという。マニニは止めるが、いないあいだに腹を割いて出産し、娘は死んでしまう。

 新しい生命が生まれるたびに母親が死ぬ運命にあったという状態は、脱皮型神話に出てくる永遠の命をもつ状態の対局である。しかし両者とも、異常な生命の状態を表す点では共通する。それは無秩序な社会ということだ。子供が生まれるかわりに母親が死ぬのなら、家族というものは成り立たない。逆に誰も死なず、老いることがなかったなら、(中略)近親相姦の危険も起こりやすくなる。また祖先を敬うなどという観念は生まれず、人口も増えすぎ、支離滅裂な世の中になるだろう。(後藤明『「物言う魚」たち』)

 このような神話に、竜蛇が登場するのは、「創生以前の未分化な状態を象徴するかたであろう」と、後藤は書いている。

 出産の方法を知らず、子を産むと母が死ぬのは、出産が脱皮とみなされているということだ。つまり、不死の段階の思考である。トカゲは死をもたらす。だから、トカゲ(竜)の腹のなかからは、財宝ではなく死骸が出てくるのだ。

 
『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/22

「オキナワトカゲの系統地理学および集団遺伝学」(栗田和紀)

 南琉球のトカゲ・トーテムがキシノウエ・トカゲなら、北琉球では、オキナワトカゲではないか。という当たりをつけてみる。

オキナワトカゲは琉球列島に固有で,島嶼に生息するトカゲであり,沖縄諸島のほとんどの島と奄美諸島とトカラ列島の一部の島に分布している.本種の特徴は,とても小さな島にまで生息していることが挙げられ,植生に覆われた実質的な生息面積がわずかサッカーコートの半分しかないようなコマカ島(0.02 km2)やエージナ島(0.01 km2)でも生息が確認されている。(「オキナワトカゲの系統地理学および集団遺伝学」(栗田和紀、2014) )

 DNAの分析は、このトカゲが島の形成時から生息してることを明らかにしている。

多くの島のオキナワトカゲ集団は現在の島々が形成されて以降,孤立した集団として維持されてきたと思われる.琉球列島は大規模な津波や台風に時折襲われてきており,小さな島のトカゲ集団でさえ長期間存続してきたのは驚くべきことである。

 琉球弧で普遍的な存在であるということは、トーテムを満たす条件ではありうると思う。遊動する島人がどこへ行っても出会うわけだから。

Photo_6


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/21

トーテム編年

 貝塚時代の「前1期」「後1期」などという呼称の「前」「後」は、もともと本土の「縄文」「弥生以降」への対応をつけるためにつけたものだ。だから、内在的に見たら、何の前で何の後か、分からない。

 しかも、「物質文化」は別だとして、南琉球は、「下田原期」「無土器期」と呼ばれている。かつ、編年は定まっていない。

 これではとても障害が大きい。島でサンゴ礁環境が形成された時間を共有している二地域として、共通の眼差しを持てるようにしたい。そもそも現在の、まったく別の扱いはとても不思議にも見える。

 ふつうの人にも身近に感じられるとしたら、トーテム編年はどうだろう。トーテムにした身近な動植物で、編年を組むのだ。 

Photo_5

 そうすると、北琉球と南琉球で、蛇、トカゲ、貝、蟹、ヤドカリという大きくは5つの段階で語ることができる(はずだ)。

 サンゴ礁形成期の琉球弧は、

 蛇期
 トカゲ期
 貝期
 蟹期
 ヤドカリ期

 琉球弧っぽくいえば、

 蛇世
 トカゲ世
 貝世
 蟹世
 ヤドカリ世

 この呼称で、両者の差異を表すこともできるかもしれない。

 蛇世:ハブ世
 トカゲ世:北琉球?、南琉球・バギラ世(石垣島)
 貝世:ギラ世
 蟹世:カン世
 ヤドカリ世:アマン世

 両者で明らかに異なると思えるのは、南琉球のキシノウエトカゲに対して、北琉球のトカゲの主は何かということだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/20

「鹿児島県大島郡伊仙町面縄 面縄貝塚総括報告書」

 面縄貝塚でも、前3期にフォーカスしてみる。

洞穴内Ⅶ層からは貝塚時代前3期の面縄前庭式土器と鎌状に加工された刻画貝製品が出土し、少なからず人骨片の出土も見られたため、Ⅶ層中には埋葬跡が包蔵されている可能性がある。

 前3期を含む第4貝塚で、優勢なのは、イソハマグリ、シラナミ類、パイプウニ、チョウセンサザエだ。

少なくとも魚類については貝塚時代前3期~後2期を通じて類似の様相が継続していた可能性が強い。すなわち、ハタ科、フエフキダイ科、ブダイ科、ニザダイ科、ベラ科、アイゴ属、ウツボ科などのサンゴ礁域やその周辺に生息する種類が圧倒的多数を占めており、また組成の多様性が強く突出した優占種がない。こうした特徴は、トマチン遺跡をはじめ、奄美諸島の貝塚時代の特徴と合致しており、ブダイ科またはフエフキダイ科・ベラ科など、特定の種類が卓越する沖縄諸島とは傾向が明確に異なる。このことは、奄美諸島南部において、貝塚時代前3期~後2期を通じて沖縄諸島とは異なった漁労文化圏が継続していた可能性を強く示すものといえる。

 このことは、沖縄に比して奄美は、トーテム系譜の魚の優先度が低かったか、多様に捉えていたということになるだろうか。

貝塚時代前2期はサンゴ礁岸側潮間帯の貝類が多く、淡水産貝類も一定量占め、貝塚時代前3期から4期にかけて徐々にイノー内の貝類の比重が高まる傾向が捉えられた。また、イノーにおける大形種と干瀬、礁斜面の貝類の積極的獲得が沖縄諸島よりも古い貝塚時代前4期に遡り、こうした状況が貝塚時代後1期まで継続することは本遺跡の大きな特徴で、こうした推移を明らかにできたのは大きな成果であったと言える。

 「イノーにおける大形種と干瀬、礁斜面の貝類の積極的獲得が沖縄諸島よりも古い貝塚時代前4期に遡」るのは、サンゴ礁=貝の思考がはやいことを意味するように思える。これはイノーの規模の差を反映しているのではないだろうか。

Photo_4

 前3期の貝塚は、洞穴部を軸に展開されている。

 前3期から離れるが、貝について。

貝塚時代後2期においては、以前の時代と大きく異なりリュウキュウヒバリ、ミドリアオリが優占する状況が確認された。このような傾向は同時代の奄美大島や沖縄諸島の遺跡でも認められている。

 リュウキュウヒバリ、ミドリアオリは、潮間帯下部の岩礁や岩礫にいる。「岩」は「蟹」の化身体だから、これはつまり、ヤドカリ「貝」ということではないだろうか。

 リュウキュウヒバリは、「ペンガントゥレー節」でも歌われている(参照:「南島歌謡に謡われたサンゴ礁の地形と海洋生物」(渡久地健)」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/19

「沖縄県伊是名村 具志川島遺跡群発掘調査概要報告書」

 具志川島遺跡では、前3期のものとして、「重層的な炉跡・焼石遺構・サザエの蓋集中遺構・貝塚」が確認されている。

 多数の炉跡や焼石遺構・サザエの蓋集中遺構。

Photo_3

Photo_2

Photo

 この岩陰は、「短期的に繰り返し利用されていた」。「このような状況は隣の岩立遺跡でも確認されており、複数の集団が同時に利用したのか、同じ集団が時期を変えて利用したのか、両者の関係についてはさらなる検討が必要である」。

前Ⅲ期は面縄前庭様式に代表され、島北側の4箇所で確認されている。この内、岩立遺跡と岩立遺跡西区では岩陰から煮炊きをおこなったと考えられる炉跡や石蒸料理を行ったと考えられる焼石遺構、チョウセンサザエの蓋集中遺構、小規模な貝塚等が確認されており、岩陰で生活を行っていたことが明確である。チョウセンサザエの蓋のみが集められた遺構は例がなく、類似したものとしては、渡嘉敷島の阿波連浦貝塚で確認されたヤコウガイの蓋集積遺構のみである。

 前3期以降は「定着期」と呼ばれているが、前3期に相当するところで、岩陰は「短期的な利用」であるということだ。「岩陰」という立地は、「貝」に住むことを意味したと思える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/18

長墓遺跡の他界

 宮古島の長墓遺跡の雰囲気はここでなんとなく分かる。(参照:「3a. 恐怖!謎の白骨洞穴発見!!宮古島の密林に古代人の墓は実在した!!」)。

 マーク・ハドソンによると、ここから「人骨」も出土している。年代は、Cal BP年代で、3350-3175 のものがある。この段階では、他界が発生していても不思議ではない。まだ、未出土のものもあるはずだ(「先島諸島における先史時代のヒトと生態史-宮古島長墓遺跡を中心に」)。

 他界発生以降、長墓の島人がみた「あの世」は大神島ということになる。

Photo_7


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』

 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/17

「放射性炭素年代から見た琉球列島における考古学的時期区分の現状と課題」(名島弥生)

 手づくりしなくても、良質な論考があった「放射性炭素年代から見た琉球列島における考古学的時期区分の現状と課題」(名島弥生)。

Photo_6

 やはり無土器期は、宮古から八重山への流れを見ることができる。

 この段階の宮古の遺跡は、「海岸砂丘に立地するのが一般的であるのに対し、本遺跡は丘陵上に位置しており、極めて異例である」と、名島は書いている。

 この遺跡は、長墓遺跡のことだ。

 この立地は、北琉球において、前3期の貝塚が、台地上や崖下に位置するのと同位相だと思える。つまり、サンゴ礁=貝の意味を持つ前段の、「貝」トーテムの位相にあると思える。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/16

キシノウエトカゲと土器

 山極海嗣は、下田原貝塚の土器について、書いている。(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原式土器における装飾や紋様は台湾や沖縄諸島に比べると施文面積は僅かで、有紋の個体自体が少ない。更に、器表面の痕跡から見て煮沸用途に繰り返し利用されたとは考え難い。現時点の出土資料からは、下田原式土器の明確な使用用途は判然としないが、少なくとも交易交換材や威信材、煮炊きの為の調理器具としての機能や、副葬品としての用途は読み取れない。

 下田原貝塚の土器は、ふつうぼくたちが考えるような"土器"ではなかったわけだ。

Photo_5
(「古我地原貝塚・下田原貝塚出土品展」)

 ぼくにはこれはキシノウエトカゲに見える。というより、当時の島人は、トーテム像としてこれを造形しているのではないだろうか。このページの画像をみると、どういうシーンを捉えているか、分かると思う(参照:「沖縄こどもの国公式ブログ」)。

 台湾などの似た土器を見る機会のあった島人は、トーテムであるキシノウエトカゲに似ていると思う。これは、バカギサだ、と。そこで、一種のトーテムセンターである名蔵湾沿いの土を使った、トーテム像を拵えたのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/15

先島の螺旋運動 4

 先島の螺旋運動について、別の表現の仕方をしてみる。

2

 トーテムの動きとしてみれば、「トカゲ」は、「貝」になり、戻って「蟹」になったのだ。

 北琉球でも、トーテムの追加による居住域の変化は起きている。南琉球で、それは島間で起こった。ただ、北と異なるのは、その間、南では遊動が続いたということだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/14

無土器期の貝塚分布例

 雑だが、勘所をつかむためにグラフにしてみる(『石垣島市史考古ビジュアル版』のデータから作成)。

 数値は放射性炭素年代から得られたもの。各貝塚のうち、値の古いものを取り上げている。


Photo_4

 こうみると、多良間・宮古に始まり、石垣、西表に分布が移っているのが分かる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/13

「石垣島で観察された鳥類2種とヘビ類1種によるキシノウエトカゲ(有鱗目:トカゲ科)の捕食」

 キシノウエトカゲは、宮古、八重山の固有種。

本種は平地の比較的開けた環境に多く生息し、海岸近くの砂地、二次林から耕作地、または集落周辺の石垣や草むらなど、1980年代の初めの頃までは、概してごく普通に見られるトカゲと認識されてきた。(「石垣島で観察された鳥類2種とヘビ類1種によるキシノウエトカゲ(有鱗目:トカゲ科)の捕食」木寺法子、下瀬環、新盛基史、「沖縄生物学会誌」2016.3)。

 ここのところ、生息域をもう少し詳しくいりたい。とくに赤土層との相性。

 この論考では、サキシママダラ、ムラサキサギ、カンムリワシによる捕食が観察されている。蛇はトカゲを捕食する。

 「キシノウエトカゲは俊敏かつ力の強いトカゲ」。「冬季の活動性が春季-秋季のそれよりも低いものの、冬季でも天気の良い日には活動しているものと見られる」。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/12

北琉球のトーテムの時間

 こんどは北琉球の編年から、各トーテムの時間を見てみる。

Photo_3

 前1期:1000年
 これ以前もあると想定すれば、「蛇」の時代は1000年以上。

 前2期:1500年
 ぼくたちは、「トカゲ」を「不死の綻び」という以上に掘り下げられていない。あるいは、人間が手と脚を意識化した段階だとはいえる。不死の綻びの1500年とみなすと憂鬱な感じがしてくるので、後者の理解を採るのがいいのかもしれない。

 前3期:1000年
 「貝」の段階。死を受容し、他界は未発生。死者との共存は長かったということだ。

 前4期:500年
 引き続き「貝」の段階。ただし、他界、霊魂の発生と画期が集中する。

 前5期:500年
 ここでも、大きくみれば「貝」の段階。ただし、サンゴ礁=貝という同定が生まれる。地母神的な考えもここで生まれた。貝の時代は2000年、続いたことになる。

 後1期:1200年
 「蟹」の段階。1200年も長い。母系社会の持続性。

 後2期:300年
 「アマン」の段階。300年。これは、「アマン」が短かったということではなく、性交と出産の認識を得ることは先史時代の終わりの幕開けであることを示唆するように思える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/11

北琉球と南琉球の照応 4

 先島で得られた編年に北琉球の編年と画期を対応させてみる。

Photo_2

 こうしてみると、トーテム変化の時間差は1000年を越えないように見える。違いといえば、前3期には定着に入った北琉球に対して、南ではそれがみられないということだ。あるいは、南琉球では、宮古、八重山の範囲に定着したという言い方になる。

 南琉球での遊動は、死者の発生を含むと想定することができるが、ここにトーテムの変化も加えることができる。トーテムの変化によっても島人は居住域を変えた。ここからは、それを島間でも行っているのが南琉球だと想定することができる。

 そう考えれば、下田原期の波照間島、多良間島、与那国島の遺跡には、貝トーテムの段階のものが含まれる可能性があることになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/10

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣) 7

 山極海嗣は、トゥグル浜遺跡を媒介に考えている(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原期は、少なくとも BP3,600 年以降まで継続した可能性が高い。

 この時期、石器・貝製品・イノシシ骨牙製品にそれまでの遺跡には見られない特異な器種が確認できる。これらと非常に類似しているのが、与那国島のトゥグル浜遺跡だ。トゥグル浜遺跡は土器が一切出土していないが、人工遺物の属性は下田原貝塚と類似している点が多いことが指摘されている。無土器期の遺跡と比較すると、八重山列島の無土器期遺跡の属性とは異なる点が多く、反対に宮古島の浦底遺跡と共通する属性が見られる。

 トゥグル浜遺跡では遺物包含層から出土した貝類から下田原期よりも古い年代が示されているが、貝類は海水のリザーバー効果1や、資料となる貝類自体が土中に埋没する時点で化石化している可能性など、土層本来の年代よりも古い値を示している可能性が高い。リザーバー効果の年代的な誤差も踏まえて考えると、トゥグル浜遺跡は下田原期から無土器期の最初期までに属する可能性を有している。

 安里嗣淳は、トゥグル浜遺跡を下田原期と無土器期の繋ぐ架け橋のような存在と位置づけているが、トゥグル浜遺跡はまさに下田原期の新段階と、宮古島における無土器期の最初期の間に位置づけることができる。

 宮古島の浦底遺跡Ⅳ層や、アラフ遺跡Ⅳ層では、磨製刃を有する石斧や研磨面を有する変成岩石器が出土する。これは、無土器期の比較的古い段階で「宮古島以外の島の石材利用」と「変成岩を石斧に利用する」という資源利用が宮古島の人々にも認識されていたことを示している。

 浦底遺跡Ⅳ層で出土した石斧は扁平で平坦面を有し、基端は磨滅し、刃部は平面形が蛤刃、刃部断面形が弧状を呈する。同じⅣ層では石斧に共通するような胴部を研磨して平坦面を作り出し、基端が磨滅する貝斧が出土していることから、石斧と貝斧が無関係ではないと考えられる。

 また、多良間島の西高嶺遺跡で出土した火成岩も、比較的古い時期に宮古島の近くまで石材を運ぶ人の動きが存在したことを示している。そして、この様な石材を利用した道具製作は、アラフ遺跡の上層や長墓遺跡、友利元島遺跡のような比較的新しい段階では確認することができない。

 浦底遺跡では多量の貝斧と、研磨面を有した石皿の出土が他の遺跡に比べて目立っている。これは宮古島における無土器期の初期から、研磨して刃を付ける製品の製作が非常に重視されていたことを示すが、与那国島のトゥグル浜遺跡でも同様の状況を確認することができる。

 トゥグル浜遺跡では下田原期・無土器期を通じても最多の石斧が出土しており、磨面を有した石皿の出土も見られる。その反面、二つの遺跡ではサンゴ島という環境が類似しているものの資源利用が異なっている。浦底遺跡では、宮古島で獲得できる貝殻を主な道具材料として利用していたのに対し、トゥグル浜遺跡では与那国島では獲得できない緑色片岩を利用しており、二つの島の遺跡では環境に対する資源利用の戦略が異なっていたことが読み取れる。

 トゥグル浜遺跡は、下田原期の新階と無土器期の最初期の間に位置づけられる可能性が高い。しかし、無土器期の古い年代の遺跡は宮古島に位置していることから与那国島とは距離が離れており、同じサンゴ島環境でありながら資源利用の戦略が異なっている。このことから、トゥグル浜遺跡から宮古島の浦底遺跡へと単純に変遷するのではなく、むしろ無土器期の最初期に、宮古島と与那国島の両地域で無土器の遺跡が形成された可能性を考えることができる。

 山極の整理に対して、ここでようやく口をはさむことになるが、サンゴ島への適応により、土器を焼失したのではなく、トカゲに代わって貝がトーテムの主になったことで、自分たちを土に由来させる動機が消失したと考えることができる。

 山極の整理を引き続き、追ってみる。

 下田原期の波照間島や多良間島の遺跡では、敲石などの石器においてサンゴ島で獲得できる材料への材質置換が行われており、サンゴ島環境への技術適応が見られる。無土器期になると、トゥグル浜遺跡では斧状製品には石材を利用するものの敲打用途には貝類を用い、宮古島の遺跡では斧状製品自体をサンゴ島で獲得できる貝で製作するようになるなど、サンゴ島環境への技術適応を読み取ることができる。

 土器を利用しなくなることは、火山島地質の粘土への資源的依存度を必然的に低下させることにも繋がる。土器利用の消失はサンゴ島環境への進出と継続的な生活という点ではメリットでもあり、材質置換を行いながら活動域を拡大させていった先史時代の人々に有利に働く現象でったとも捉えることができる。

 無土器期の文化集団は下田原期の文化集団をベースとしつつ、サンゴ島環境を含む宮古・八重山諸島への技術的適応の一つとして土器を消失し、無土器期へ移行したと解釈する方が妥当性を有しているものと筆者(山極)は結論する。そして、土器を持たない文化として成立した無土器期の文化集団は、その後約 2000 年の時間の中で宮古島と八重山列島という地域差を形成し、11 世紀後半頃まで継続することとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/09

先島の螺旋運動 3

 先島の螺旋運動に編年を加えてみる。

Photo

Photo_5

(山極海嗣「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」、小林竜太、山口徹、 山野博哉「リモートセンシングによる石垣島サンゴ礁形成史の地域差推定 先史資源利用研究に向けて」)

 このなかに編年の定まらない与那国島のトゥグル浜遺跡は含まれていないと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/08

立地とトーテム

 粗雑な整理だが、下田原期、無土器期の立地を確かめてみる。

Photo_2

 ここでやってみようとしているのは、キャンプ地・集落(シマ)立地は、トーテム生息地に似せる、ということだ。

 目安として、

 赤土台地:トカゲ
 台地に囲まれた砂丘:貝
 砂丘:蟹

 に対応させている。貝は台地上にもありえるはずである。他に、貝については、より詳細に見ていく必要がある。

 これによれば、下田原期はトカゲ、無土器期は、宮古で貝、八重山で蟹トーテムが展開されたと見なせる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/07

先島の螺旋運動 2

 いまのところ、これが何を意味するのか問われても困るのだが、「先島の螺旋運動」を更新しておく。

Photo

 ここでイメージしようとしているのは、宮古、八重山の思考の段階は、螺旋を描くような地理的分布によって示されるのではないかということだ。可能性としては、ここに、トカゲ、貝、蟹、アマンまでのトーテム変遷が内包される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/06

北琉球と南琉球の照応 3

 時間的に下田原期に呼応するのは、前3期。無土器期は、宮古で前5期、八重山で後1期になる。

 これをトーテムの思考としてみれば、下田原期は前2期に呼応する。無土器期は、宮古は前3期に呼応し、八重山は後1期に呼応する。

3

 ただ、宮古のトーテム思考は、前5期のサンゴ礁=貝の段階と照応させるのがいいのかもしれない。八重山の無土器期の時期を考慮すると、すでに蟹トーテムである可能性もある。すると、貝斧がつくられなかったこととの関係も示唆することが可能になる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/05

「リモートセンシングによる石垣島サンゴ礁形成史の地域差推定」(小林竜太、山口徹、 山野博哉)

 下田原期の前半(4800-4200年前)は、川平の北側、太平洋沿岸の一部に礁嶺が形成された。下田原期の後半に(4200-3600年前)は、側方成長によって分帯構造を形成。「現在と比べて礁嶺の幅は狭く、礁池の深いサンゴ礁だったと考えられる」(「リモートセンシングによる石垣島サンゴ礁形成史の地域差推定 先史資源利用研究に向けて」「考古学研究」2013、小林竜太、山口徹、 山野博哉)。他の造礁サンゴは上方成長の途上。

 1.サンゴ礁が形成されていた。:白保竿根田原洞穴
 2.部分的に形成されていた。:ピュウツタ遺跡
 3.礁地形が認められない名蔵沿岸:大田原遺跡、平地原遺跡、フーネ遺跡

 無土器期(1900~900年前)の遺跡は、神田貝塚と崎枝赤崎貝塚。いずれの地形も礁池形がない浅海。

 名蔵には「サンゴ礁のかわりにマングローズ湿地や干潟、そしてハマサンゴやキクメイシが点在する浅海の豊かな漁場があっただろう」と、小林は書いている。


 Photo_3

Photo_4


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/04

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣) 6

 山極は、下田原期の古段階と新段階をこう位置づけている(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原期における古段階と新段階という時間差は、ピュウツタ遺跡や大田原遺跡などを中心とした回遊的な動き(古段階)と、下田原貝塚を中心とした回遊的な動き(新段階)の時間差として捉えることができる。

 古段階
 ピュウツタ遺跡・大田原遺跡(全地点)・白保竿根田原洞穴遺跡、フーネ第一遺跡、多良間島の多良間添道遺跡、おそらく西表島

 新段階
 波照間島の下田原貝塚

 そうすると、回遊的な動きはこうなる。

 下田原期
 1.石垣島を起点に、島内や他島へ回遊
 2.他島を起点に石垣島、他への回遊

 無土器期
 3.島内を軸に、他の場所へ回遊

 これは、集落(シマ)ではなく、島への定着の推移として見ることができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/03

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣) 5

 下田原期でも貝類の出土は多い(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

 「全体的な出土状況からは、いずれの島の遺跡でも、主に貝類・魚類・イノシシが利用されており、それを補う形でウミガメや爬虫類・鳥類が利用されていたことが確認できる」。

魚類に関してはいずれの遺跡でもブダイ科やフエフキダイ科が大半を占め、その他もベラ科やハリセンボン科などラグーンに生息する魚が大半を占める点は変わらない。


 多良間添道遺跡
 潮間帯に生息するイソハマグリが 88%と多数を占める。

 石垣島の大田原遺跡
 リュウキュウサルボウやアラスジケマンガイなどの内湾生息の貝類が 76%

多良間添道遺跡は砂丘地にある遺跡で、大田原遺跡も内湾地形の名蔵湾が眼前に広がっていることから、遺跡で出土する貝種も遺跡の立地環境を反映していると言える。

 仲間第二貝塚
 ヒメジャコ、イシカケガイ、ヒルギシジミの出土が目立つことが報告されている。

仲間第二貝塚は仲間川と海の境目に立地しており、サンゴ礁に生息するヒメジャコ、砂地に生息するイシカケガイ、汽水域 25に生息するヒルギシジミは、やはり遺跡の立地環境を反映していると言える。

 下田原貝塚
 ヒレジャコが 24%、リュウキュウバカガイが 15%、サラサバテイが 10%。その他もヒメジャコやオニノツノガイなどサンゴ礁に生息する貝類が多い。特筆すべきはシャコガイやヤコウガイなどの大型の貝類が多い点(40%)である。ヒルギシジミが 36%、20%を占めるなど、汽水域の貝類の割合も多い。「イノシシの遺存体も多く、比較的陸寄りの食糧資源獲得も読み取ることができる」。

 「波照間島はラグーンが比較的小規模で、リーフエッジの外側は急に深くなる地形を示す。リーフエッジに生息するシャコガイ科(ヒレジャコ・ヒメジャコ・シラナミ等)や、その外側の斜面に生息するヤコウガイが多い点は、このような海岸環境を示していると考えられる」。

 下田原期にも貝への依存は始まっている。貝トーテムも始まった貝塚もあっただろう。潮間帯の小さな貝もトーテムになりえた。その貝たちの主がシャコガイ科の貝だったと考えられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/02

北琉球と南琉球の照応 2

 「サンゴ礁研究からみる琉球弧の地史と完新世景観史研究の射程」には、こうある(『石垣島の景観史研究 : 名蔵地区の浅層ボーリングと低地発掘調査1』山口徹、小林竜太 編)。

 放射性炭素年代には制約が多く、それぞれの時間幅を確定するのは難しいが、「信頼性の高い炭化物・植物遺存体試料に由来する限られた年代値を採用すると、下田原期は4850-3640cal.yBP、無土器期は1880-930cal.yBPとなる」。

 とくに、無土器期の開始については、放射性炭素年代測定との開きが大きいようだ。そこで、「北琉球と南琉球の照応 1」を更新する。

2

 島人の思考にとって何が問題になるかといえば、無土器期の島人が貝をトーテムとしていたとして、それが、サンゴ礁=貝という認識、あるいは蟹トーテムまで及んでいたかどうかということだ。

 考古学やサンゴ礁学のあいだで、これだけの幅があるとなると、貝塚の立地からアプローチするのが有効なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/01

北琉球と南琉球の照応

 北琉球と南琉球では、時間的な段階は、前3期と下田原期、前5期と無土器期が近接している。これは、サンゴ礁の発達を根拠にしているとみなせる。

 しかし、これを島人のトーテムの段階とみなせば、下田原期は前2期と、無土器期は前3期に似ていると言える。トカゲと貝、だ。

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »