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2017/11/10

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣) 7

 山極海嗣は、トゥグル浜遺跡を媒介に考えている(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原期は、少なくとも BP3,600 年以降まで継続した可能性が高い。

 この時期、石器・貝製品・イノシシ骨牙製品にそれまでの遺跡には見られない特異な器種が確認できる。これらと非常に類似しているのが、与那国島のトゥグル浜遺跡だ。トゥグル浜遺跡は土器が一切出土していないが、人工遺物の属性は下田原貝塚と類似している点が多いことが指摘されている。無土器期の遺跡と比較すると、八重山列島の無土器期遺跡の属性とは異なる点が多く、反対に宮古島の浦底遺跡と共通する属性が見られる。

 トゥグル浜遺跡では遺物包含層から出土した貝類から下田原期よりも古い年代が示されているが、貝類は海水のリザーバー効果1や、資料となる貝類自体が土中に埋没する時点で化石化している可能性など、土層本来の年代よりも古い値を示している可能性が高い。リザーバー効果の年代的な誤差も踏まえて考えると、トゥグル浜遺跡は下田原期から無土器期の最初期までに属する可能性を有している。

 安里嗣淳は、トゥグル浜遺跡を下田原期と無土器期の繋ぐ架け橋のような存在と位置づけているが、トゥグル浜遺跡はまさに下田原期の新段階と、宮古島における無土器期の最初期の間に位置づけることができる。

 宮古島の浦底遺跡Ⅳ層や、アラフ遺跡Ⅳ層では、磨製刃を有する石斧や研磨面を有する変成岩石器が出土する。これは、無土器期の比較的古い段階で「宮古島以外の島の石材利用」と「変成岩を石斧に利用する」という資源利用が宮古島の人々にも認識されていたことを示している。

 浦底遺跡Ⅳ層で出土した石斧は扁平で平坦面を有し、基端は磨滅し、刃部は平面形が蛤刃、刃部断面形が弧状を呈する。同じⅣ層では石斧に共通するような胴部を研磨して平坦面を作り出し、基端が磨滅する貝斧が出土していることから、石斧と貝斧が無関係ではないと考えられる。

 また、多良間島の西高嶺遺跡で出土した火成岩も、比較的古い時期に宮古島の近くまで石材を運ぶ人の動きが存在したことを示している。そして、この様な石材を利用した道具製作は、アラフ遺跡の上層や長墓遺跡、友利元島遺跡のような比較的新しい段階では確認することができない。

 浦底遺跡では多量の貝斧と、研磨面を有した石皿の出土が他の遺跡に比べて目立っている。これは宮古島における無土器期の初期から、研磨して刃を付ける製品の製作が非常に重視されていたことを示すが、与那国島のトゥグル浜遺跡でも同様の状況を確認することができる。

 トゥグル浜遺跡では下田原期・無土器期を通じても最多の石斧が出土しており、磨面を有した石皿の出土も見られる。その反面、二つの遺跡ではサンゴ島という環境が類似しているものの資源利用が異なっている。浦底遺跡では、宮古島で獲得できる貝殻を主な道具材料として利用していたのに対し、トゥグル浜遺跡では与那国島では獲得できない緑色片岩を利用しており、二つの島の遺跡では環境に対する資源利用の戦略が異なっていたことが読み取れる。

 トゥグル浜遺跡は、下田原期の新階と無土器期の最初期の間に位置づけられる可能性が高い。しかし、無土器期の古い年代の遺跡は宮古島に位置していることから与那国島とは距離が離れており、同じサンゴ島環境でありながら資源利用の戦略が異なっている。このことから、トゥグル浜遺跡から宮古島の浦底遺跡へと単純に変遷するのではなく、むしろ無土器期の最初期に、宮古島と与那国島の両地域で無土器の遺跡が形成された可能性を考えることができる。

 山極の整理に対して、ここでようやく口をはさむことになるが、サンゴ島への適応により、土器を焼失したのではなく、トカゲに代わって貝がトーテムの主になったことで、自分たちを土に由来させる動機が消失したと考えることができる。

 山極の整理を引き続き、追ってみる。

 下田原期の波照間島や多良間島の遺跡では、敲石などの石器においてサンゴ島で獲得できる材料への材質置換が行われており、サンゴ島環境への技術適応が見られる。無土器期になると、トゥグル浜遺跡では斧状製品には石材を利用するものの敲打用途には貝類を用い、宮古島の遺跡では斧状製品自体をサンゴ島で獲得できる貝で製作するようになるなど、サンゴ島環境への技術適応を読み取ることができる。

 土器を利用しなくなることは、火山島地質の粘土への資源的依存度を必然的に低下させることにも繋がる。土器利用の消失はサンゴ島環境への進出と継続的な生活という点ではメリットでもあり、材質置換を行いながら活動域を拡大させていった先史時代の人々に有利に働く現象でったとも捉えることができる。

 無土器期の文化集団は下田原期の文化集団をベースとしつつ、サンゴ島環境を含む宮古・八重山諸島への技術的適応の一つとして土器を消失し、無土器期へ移行したと解釈する方が妥当性を有しているものと筆者(山極)は結論する。そして、土器を持たない文化として成立した無土器期の文化集団は、その後約 2000 年の時間の中で宮古島と八重山列島という地域差を形成し、11 世紀後半頃まで継続することとなる。

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