「日本列島の古代貝文化試論」(木下尚子)
「日本列島の古代貝文化試論」で木下尚子は、
本土地域のものが遠隔地の貝を多く使用しているのに対し、 琉球列島ではほとんどがその近海の貝でまかなわれていることに気づく。 また前者では時代による貝文化の傾向が明らかなのに対し、 後者ではそれほど顕著ではない。
として、次の表を挙げている。
弥生時代には大陸渡来の文化の影響下、このような装身観念は急速に衰退し、農耕社会の観念に適合する装身具が新たに選択されていく。琉球列島産の大型巻貝類(ゴホウラ、いもがい、 オオツタノハ) はこの過程で九州に登場し、 弥生時代の初期には、 大陸的な正円形腕輪を模倣する素材として漁労民の一部に用いられていた (レベルⅡ)。間もなく弥生社会独自の祭祀が成立すると、 これに適合する貝素材が改めて選択され、 うずまきデザインを意識した、 いわゆる南海産貝輪が成立する (レベルⅣ)。この時期、 特定観念の表出手段(農耕祭祀) の素材獲得のために、適材(南海産貝類) の入手路を遠方(琉球列島) に開拓して取り寄せるという行為が日常化する。 これは縄文時代にはなかった現象である。素材を遠方に求める傾向は、続く古墳時代、古代においても認められ、 イメージの表出手段として、 また工芸素材として南海産の貝がしばしば使われる。 こうした傾向の中で、 輸入法具であったインド産シャンクガイの法螺は、 その代替素材を国産のボウシュウポラ類、ホラガイに求めながら(レベルⅡ)、適材を琉球列島産ホラガイに絞り込んでいく(レベルⅢ)。
このように、 本土地域における貝文化は、農耕社会成立を機に古代に至るまで、 近海の貝から南島の貝へと需要の重心を大きく移動させてきた。 貝文化のレベルはⅠ~Ⅴに及び、 南海産の貝類もレベ ルⅢ・Ⅳを充足するなど文化的にも重要な位置を占めている。 しかし琉球列島の貝を大量に長時間にわたって採用してきたにもかかわらず、 本土地域の人々はついにこれらをもとに独自の観念を創出する (レベルⅤ) に至らず、 これをイメージの表出手段や形而下の素材として用いる (レベルⅡ~Ⅳ) に留まった。
「本土地域の人々はついにこれらをもとに独自の観念を創出する (レベルⅤ) に至らず、 これをイメージの表出手段や形而下の素材として用いる (レベルⅡ~Ⅳ) に留まった」のは、言い方が逆で、「独自の観念」を不要とする段階の「貝」を見ているからそうなるということのように思える。
いっぼう琉球列島では先史時代以来、 形而上一下両レベルにおいて近海のサンゴ礁の貝がふんだんに使用され、その一部は琉球王朝期、さらには現代にまで継続している。 縄文時代併行期から現代に至る呪具としてのしやこがい (レベルⅤ) の息の長さは、 この地域の貝文化最大の特徴である。 弥生時代から古墳時代併行期にかけて、 一時期貝符や竜佩が登場するのは、異文化接触によっておこった貝による玉製品の代替現象とみられる (レベルⅡ)。琉球列島に多い貝輪は、 おそらく何らかの装身観念に結びついていたと考えられるが、 知られる着装例が稀少なため、 具体的研究は進んでいない。 主体的意味をもっていたとすれば、 おそらくⅣないしⅤレベルにおさまるであろう。総じて琉球列島の貝文化は、 発想・素材ともに在地のものに拠っている。本土地域のように素材を外に求め、 次々に新たな文化現象の表現手段とすることはほとんどなく、 在地的貝文化の各レベル が長く継続する。 この傾向は、琉球列島に階級社会が成立するグスク時代におしても基本的に変わらない。
「貝符や竜佩」は、「異文化接触によっておこった貝による玉製品の代替現象」ではなく、またおよそ先史時代において、「形而上」の意味を持たないものはない。
ここでもヤコウガイの本土側の依頼内容を知りたかったのだが、やはり「最適素材」という意味が優勢なのだろうか。
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