「正倉院伝来の貝製品と貝殻―ヤコウガイを中心に」(木下尚子)
ぼくが知りたいのは、ヤコウガイ交易の際、大和側から琉球弧の方へ、何という依頼があったのかということだ。それというのも、ヤコウガイの前段階のゴホウラやイモガイの際には、弥生期に入った大和側からの依頼があり、それに対して、琉球弧側は神話的な思考で見事に応えていると考えられるからだ。
「正倉院伝来の貝製品と貝殻―ヤコウガイを中心に」のなかで、木下尚子は書いている。
先学の研究を整理すると、日本の螺鈿工芸は唐に由来する螺鈿加工技術を土壌として成長し、9世紀以降はヤコウガイ産地を琉球列島に得て独り立ちしたということができる。つまり螺鈿技術を習得した古代日本にとって、琉球列島において自前の産地を確保できたのはきわめて重要な出来事だったのである。
ここで問題にしたいのは、大和の人々がどのように南島のヤコウガイを見いだしたかである。
これはぼくたちの問題意識に近いのかもしれない。一気に飛ぶが、木下はこう結論づけている。
・8世紀前半の最高級の帯であった斑貝御帯の帯飾りは、輸入素材であるヤコウガイと、その仲間の貝であるチョウセンサザエ亜属の貝で製作された可能性が高い。ヤコウガイが使われたのはそれが唐で貴重な素材だったからで、これを使用すること自体に意義があったのであろう。帯は中国の白玉帯を模倣したとみられ、貝殻の真珠層以外の部分を故意に選んで制作された。同じ時期、ヤコウガイや見事な真珠層をもつクロチョウガイを用いて複数種の装飾品が作られたが、いずれも貝殻の真珠層を強調した製品ではなかった。・8世紀後半、東大寺大仏開眼会を契機に唐の厚貝螺鈿技術が本格的に習得され、国産の螺鈿製品が生まれた。螺鈿技術と組み合うことでヤコウガイの真珠層は初めてその特徴を発揮することができたといえる。またこれによってヤコウガイを消費する主体的な動機が国内に生まれた。
・8世紀後半日本の宮都で消費されたヤコウガイ貝殻は、その価値観や螺鈿技術と一体になって唐から輸入された可能性が高い。この時期、琉球列島からヤコウガイが輸入された可能性は低く、それが実現するのは9世紀とみられる。
・古代の宮都に輸入されたヤコウガイは、8世紀のものと9世紀以降(注43)のものに分けて考えられる。前者は唐からの輸入品である可能性が高く、後者は琉球列島からもたらされた可能性が高い。このようにみると正倉院南倉に1点のみ伝来するヤコウガイ貝殻は、これがとくに貴重であった前者に属する可能性が高いだろう。
木下は、最初唐から直接仕入れていたものを、王権内での技術が高まったところで、琉球弧から仕入れたというシナリオになる。自然な考え方だと思う。っそしてこうであれば、すでにヤコウガイには装飾の価値のみがあったということになる。琉球弧への依頼もヤコウガイを、という指定になる。
ただ、応える琉球弧側はどうだったろうか。ヤコウガイは礁斜面に生息し、イモガイと同様、男性の捕る女性動物という特異な位相を持つ。これは島人にとって意味を持ったはずだった。
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