「先史時代における沖縄県宮古島を中心としたシャコガイ製貝斧の展開」(山極海嗣、久貝弥嗣)
山極海嗣、久貝弥嗣による宮古島のシャコ貝製貝斧をめぐる論考(「先史時代における沖縄県宮古島を中心としたシャコガイ製貝斧の展開 浦底遺跡出土貝斧の分析を基にした時空間的変異の検証」「物質文化 考古学民俗学研究」2017.5)。
宮古、八重山における人類の痕跡は、約3万~2万年前から確認されている。しかし、居住や物質文化については、約4300年前以降で、宮古はそれより遅く約2800年前以降になっている。下田原の文化も多良間どまりで宮古島に至っていない。
約2800年前以降、複数の遺跡で「集合炉」と考えられる痕跡が検出されており、土器を用いない蒸し焼き料理が行われていた。
浦底遺跡では、ビーチロックが発達している。ビーチロックは、海浜堆積物が海水、陸水、海水と陸水の混合水に含まれるおもに炭酸カルシウムが膠結して形成されたもの。これは、隣接するアラフ遺跡でも同じ。
浦底遺跡の場所は、約2800年前には、海水準と同様で、礁嶺の発達した穏やかな海域を前面にした砂丘地が形成されていた。
さて、その浦底での貝斧だが、出土時には200本ものシャコガイ製貝斧が報告されている。200本!関連遺物としては、スイジガイ製利器、ホラ貝友孔製品、イモガイ製品、イノシシ犬歯有孔製品、サメ歯有孔製品、クジラ骨加工製品。
石斧のなかには、石垣島から搬入されたと考えられる2点がある。
貝斧は、ある程度風化・化石化した貝殻が素材として用いられたのではないかと考えられる。貝斧は、小型の刀部正面形タイプ3が多数を占め、上層へ向かうにつれタイプ1やタイプ2の大型の貝斧の比率が増加していく。
タイプ3は、貝殻の外面を丹念に磨いて平坦にし、外面から刀部中央部の入念な研磨によって弧状の刀部を形成する。タイプ1、タイプ2は、研磨をほぼ刀部に限定して、貝殻の外面へ弧状を描く刀縁、あるいは直線状の刀縁を形成したもの。
この変遷を著者たちは、「手抜き」と「行程の合理化」という方向性と捉えている。「研磨作業を刀部に限定することによって製作効率は大幅に改善されるものと考えられるだろう」。
宮古島における比較的最初期の貝斧に関しては、製作に手間がかけられ、サイズや形態に一定の規格性を持った貝斧が製作・利用されており、それは次第に刃部に限定して磨製する大型で比較的粗雑な貝斧の利用へと移り変わっていったと考えられる。
この製作の「粗雑化」と考えられている過程は、同時にシャコ貝に対するトーテム意識の濃度に相関しているはずだ。
著者たちは、貝斧の技術が、宮古、八重山で出土する石斧の技術から生み出された可能性にも言及している。つまり、貝斧が宮古島で発生した可能性である。
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