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2017/10/23

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣)

 この論考、「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」(山極海嗣、2016.03)を読むに当たって、宮古、八重山の編年を組み込んでおく。勘所をつかめるようにしたい。

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□火山島(陸島・洋島)
・鉱物資源が豊富(陸島>洋島)
・土壌が肥沃=植物資源が豊富
・水資源が豊富(降水多・河川・湖)
・災害のリスクが低い(津浪・高波・旱魃)
・サンゴ礁の有無が重要

□サンゴ島(環礁・隆起)
・鉱物資源が乏しい(土器・石器製作不可)
・土壌が貧弱=植物資源が限られる
・水資源が乏しい(降水少・河川なし)
・災害のリスクが高い(津浪・高波・旱魃)
・サンゴ礁が発達=海洋資源が豊富

 火山島の性格を持つのは「石垣島の大部分」と、「小浜島の北部(嘉弥真島含む)」、「西表島の東北部のみ」であり、他の島は全て「隆起サンゴ島」に分類される。

 ここでは、「物質文化」という言葉が繰り返される。山極によれば、それは「文化とは、考古学的資料の纏まりと、そこから復元できる生活様式の総体を指すもの」とされている。


 下田原期の古段階(継続的な先史文化の開始期)

・下田原期の人々は八重山列島から多良間島までの間で島々を移動しながら生活を営んでいた。
・石垣島・西表島では河川の近くが、多良間島や波照間島では海岸線の湧水水源に比較的近い立地が選択されており、どの島でも水資源の確保の重要性が伺える。
・土器と石器の製作に関して、下田原期の人々はその素材に関して、石垣島との定期的なアクセスが必要不可欠となっていた。
・遺跡周辺での食糧資源などの季節性や、獲り尽くしによる枯渇リスクなどの問題から頻繁に移動する必要があったものと考えられる。
・石垣島は地質的には火山島(陸島)の性質を有しており、下田原期は火山島(陸島)に依存した資源利用と移動を行っていたものと考えられる。
:土器の粘土や石材の獲得と利用、動物遺存体から見た食糧利用に反映されており、貝類や魚類に関しては基本的にはラグーン周辺に生息するものが採捕されるなど、ラグーンを越えた外洋での活動の痕跡は希薄である。・動物遺存体にはジュゴンなどの海獣類も見られるが、全体的な出土数に対する比率は僅かで、海獣狩猟に特化した道具や解体工具も確認できないことから、ラグーンへ迷い込んだ個体、或いは漂着した個体を利用したものと考えられる。

 下田原期の古段階から新段階へ

・BP3,700—3,600 年頃になると、波照間島のようなサンゴ島に遺跡が形成されるようになる。
・波照間島や多良間島では、貝殻やサンゴ・サンゴ石灰岩を石器に利用しており、一部の石器器種において地元で獲得できる材質への転換が行われるなど、サンゴ島環境に適応した資源利用を確認することができる。
・基本的な生業や資源利用とそれに基づく島嶼間移動に関しては、それまでの下田原期の様式を踏襲しており大きな変化は見られない。これは、この段階でも周辺地域との間で恒常的な人や物の行き来が展開しなかったことを示している。

 下田原期の文化形成

・下田原期の物質文化は、基本的には周辺地域との間では恒常的な人や物の行き来を伴うネットワークが存在しない状況下で形成されたものと捉えることができる。
・当時の人々は火山島(陸島)とサンゴ島で構成された地域で生存するため、宮古・八重山諸島の島々の中で短期居住と移動を繰り返し、土器や石器製作の為に火山島(陸島)とアクセスするというセトルメント・パターンを構築していた。

 無土器化(土器文化の消失)が起こりえた可能性

・八重山列島の下田原期における土器は、土器粘土の獲得を火山島(陸島)である石垣島に依存しており、リモート・オセアニアにおける生態環境と土器の関係に共通している。波照間島・多良間島のようなサンゴ島の遺跡における土器も石垣島の粘土を利用しており、サンゴ島で土器文化を維持するには多くの労力が投下されることとなる。
・土器を作らなくて済むという点は、石垣島から遠いサンゴ島での生存に有利に働いたことは間違いない。
・器表面の痕跡から見て煮沸用途に繰り返し利用されたとは考え難い。現時点の出土資料からは、下田原式土器の明確な使用用途は判然としないが、少なくとも交易交換材や威信材、煮炊きの為の調理器具としての機能や、副葬品としての用途は読み取れない。
・下田原期の波照間島や多良間島の遺跡では、敲石などの石器においてサンゴ島で獲得できる材料への材質置換が行われており、サンゴ島環境への技術適応が見られる。
・無土器期になると、トゥグル浜遺跡では斧状製品には石材を利用するものの敲打用途には貝類を用い、宮古島の遺跡では斧状製品自体をサンゴ島で獲得できる貝で製作するようになるなど、サンゴ島環境への技術適応を読み取ることができる。
・土器を利用しなくなることは、火山島地質の粘土への資源的依存度を必然的に低下させることにも繋がる。土器利用の消失はサンゴ島環境への進出と継続的な生活という点ではメリットでもあり、材質置換を行いながら活動域を拡大させていった先史時代の人々に有利に働く現象でったとも捉えることができる。

 下田原期文化集団をベースとした無土器期文化の展開

・このように、宮古・八重山諸島の無土器化(土器文化の消失)は、土器の装飾や調理機能の欠落、地炉(集石遺構)の登場、サンゴ島環境における資源利用の技術適応といった点で、リモート・オセアニア地域の無土器化プロセスと類似する点が確認できる。
・無土器期遺跡と、下田原期・無土器期に見られるサンゴ島環境への技術適応は、宮古・八重山諸島の環境へ人々が文化的に適応していく過程で土器利用を失う可能性が十分に存在することを示している。
・無土器期の文化集団は下田原期の文化集団をベースとしつつ、サンゴ島環境を含む宮古・八重山諸島への技術的適応の一つとして土器を消失し、無土器期へ移行したと解釈する方が妥当性を有しているものと筆者は結論する。
・土器を持たない文化として成立した無土器期の文化集団は、その後約 2000 年の時間の中で宮古島と八重山列島という地域差を形成し、11 世紀後半頃まで継続することとなる。

 宮古島における無土器期の展開

・無土器期の遺跡は、年代的には宮古島で確認できる BP2,400—2,300 年頃が最も早い。更に、宮古島のアラフ遺跡Ⅶ層や多良間島の西高嶺遺跡 10 層を考慮すれば、BP3,000 年頃まで遡る可能性が存在する。BP2,400—2,300 年の宮古島では、浦底遺跡Ⅳ層に見られるようなシャコガイを用いた貝斧生産が顕著で、貝斧全体を研磨し、刃部形態も比較的共通した、丁寧な作りの貝斧が多い。
・(宮古島の貝斧は、石斧との共通点が多い)これは石斧との機能面での類似性を示すだけではなく、貝斧製作において、石斧製作と同じ技術やノウハウが適用されていたことを示している。
・貝斧が定着した背景には石斧の製作・利用と言う文化的な下地が存在したものと考えられる。
・宮古島における無土器期の人々は、食糧獲得をベースとした社会と考えられる点は下田原期と比べて大きな変化はない。動物遺存体からみる生物資源利用も、新たにマイマイやヤマタニシなどの陸産貝類が見られるものの、基本的にはラグーン(礁湖)内の貝類魚類、イノシシを主体に採捕している。
・この時期も食糧資源の季節性、獲り尽くしによる枯渇リスクなどから移動を繰り返していたと考えられる。
・宮古島における無土器期遺跡は、殆どが東海岸部に集中している。宮古島の東海岸部は切り立った急峻な地形を示すが、その麓の海岸部は砂丘が堆積しており、西風を避けられるのと同時に湧水にも恵まれている。
・研磨に利用されたと考えられる砂岩などの堆積岩は、東海岸部付近にしか産出しない。宮古島における無土器期の人々は、下田原期と異なり土器の粘土を必要とせず、変成岩の石器に代わり貝殻を用いた斧を利用した。・これはサンゴ島環境である宮古島での生存に有利に働いていると考えられるが、一方で、貝斧を研磨する為に堆積岩を必要としており、その上で、水資源や鉱物資源を獲得できる宮古島東海岸部が主たる活動エリアになったものと考えられる。
・このような東海岸部を行ったり来たりする生活様式の中で、浦底遺跡は何度も戻りながら貝斧を製作する場所であったことが読み取れる。

 八重山列島における無土器期の展開

・八重山列島の無土器期遺跡は、筆者が無土器期の初期に位置付けたトゥグル浜遺跡を除くと BP1,600-1,500 年頃まで確認されていない。しかし、波照間島の大泊浜貝塚は BP1,500 年頃を示す 6 層の更に下層(10・11・12・17 層)で人工遺物が確認されていることから、八重山列島における無土器期の人類活動は更に年代を遡る可能性が高い。
・八重山列島における無土器期の人々も、食糧獲得をベースとした社会と考えられる点や、生物資源利用に関しては宮古島と大きな違いは見られない。
・八重山列島の遺跡では石斧を主体に利用しており、貝斧の利用は殆ど見られない。
・石材に関しては石斧の多くが変成岩を利用して製作されており、石材と器種の関係や利用方法は下田原期における石材利用とほぼ共通している。
・貝類を利用した人工遺物は八重山列島では少なく、これは八重山列島と宮古島の間に道具に対する素材利用の地域差が存在していたことを示している。
・八重山列島では(中略)石斧が出土する層位よりも更に上層の、かつ年代的にも新しい層位6で貝斧が出土しており、比較的新しい時期に八重山列島でも貝斧の遺跡からの出土が確認できるが、それらは石材が産出せずシャコガイが豊富な波照間島の遺跡においても、石斧に取って代わるようなことはなかった。
・同じように、宮古島の無土器期遺跡も、石斧が貝斧に取って代わるような状況は確認できず、無土器期の終末まで宮古島と八重山列島はこのような地域差を継続したと考えられる。
・宮古島と八重山列島の間には、遺構に関しても竪穴遺構と方形配列柱穴遺構と言う違いが存在しており、集石遺構も宮古島の遺跡に顕著である。
・生業や資源利用に基づくセトルメントや無土器文化であるという点、斧状の製品を普遍的に利用するという点で宮古列島と八重山列島は共通点を有しており、周辺地域を含んだマクロな視点で見れば、宮古・八重山諸島で一つの物質文化の纏まりを示している。
・浦底遺跡やアラフ遺跡における変成岩製石器の存在は、宮古島の人々が八重山列島の存在と、石材の利用を認識していたことを示している。
・八重山列島では比較的新しい層位で貝斧が確認されているが、宮古島の遺跡で貝斧利用の物質文化が展開したことから、これらは宮古島との人の行き来でもたらされたと解釈することができる。
・しかし、現時点の八重山列島における遺跡からは、いずれの時期においても貝斧利用が拡大することはなかったものと考えることができる。
・宮古・八重山諸島の先史時代は、下田原期・無土器期を通して、周辺地域との間では人や物の行き来を生み出す恒常的な海上ネットワークが展開しなかったものと考えられる。これは、沖縄諸島からの人や物の移動に伴う文化的な影響を受ける11世紀後半以降の状況とは大きく異なっており、宮古・八重山諸島の先史時代は、周辺地域からは比較的孤立した状況にある中で、文化形成が展開したと理解することができる。


 ぼくたちはこれらの記述から、「物質文化」ではなく、「精神文化」を追うことになる。先史時代の八重山は「石」の象徴させることができる。そして、無土器期以降の宮古を象徴するのが「貝」だ。山極が示唆するように、「貝斧」の技術が「石斧」をベースに作られているように見える。

 ここで、無土器期に宮古で「石斧」ではなく「貝斧」が作られるということは、単にサンゴ礁島に不足する石ではなく、豊富な貝に素材を求めたというだけではなく、ともすればそれ以上に、貝トーテムの段階に入ったことを示唆するように見える。

 つまり、死を受容し、死と再生の段階に入ったことを、宮古島の遺跡は物語るのではないだろうか。貝から生まれ、貝に帰る。そうした精神の位相を持ったとき、宮古島が生きるべき世界になったということだ。

 逆に、「石」は不死を示唆するように思える。

 下田原期は、北琉球でいえば、前3期に当たり、すでに死と再生の段階に入っている。南琉球がこの段階に入るのは、北琉球の前5期辺りということになる。ここに精神の位相の差が存在している。


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