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2017/10/22

「宮古・八重山諸島無土器期における地域間変異と生態資源利用」(山極海嗣)

 「無土器期」は、BC1002~AD668(これは約3000年前から2千数百年前ということになる)。この間について、山極海嗣は八重山では「石材産地としての移動を伴う石材利用」、宮古島では「貝類利用」となると書いている(「宮古・八重山諸島無土器期における地域間変異と生態資源利用」「物質文化」95、2015.3)。

 無土器期の遺跡は、一般的に海岸砂丘立地。石器は多良間島を除いたすべての遺跡から出土。しかし多良間でも、島で産出しない未加工の火成岩は出土している。

 宮古島では海や海岸部で利用する貝類を用い、八重山諸島では海を渡って運搬しながら石材を用いる。人工遺物では、石器(とくに石斧)・鉄製品・銭貨が目立つ八重山諸島と、貝製品(とくに貝斧)とサメ歯製品の目立つ宮古島。八重山諸島では、貝斧の材料に恵まれる島でも、宮古島のような資源利用は確認できない。

 魚類はブダイ科やフエフキダイ科など、礁湖や内湾に生息する魚類が大半。外洋魚類は確認できない。

 無土器期は、比較的短期的な居住と資源獲得のための移動を繰り返していたと考えられる。

 ということは、無土器期は、定着していないということになる(引用者)。

 八重山の無土器期が「石」の文化だったということは、野生の思考の古層をよく保存していることとかかわりがあるように見える。

 

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2017/10/21

土器とサンゴ礁形成

 これまでの土器理解に、サンゴ礁地形の形成を改めて重ねてみる(菅浩伸「琉球列島のサンゴ礁形成過程)。

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 約8000年前、遊動期にサンゴ礁の形成が始まる。条痕文土器がつくられていた頃の約5500年前に、サンゴ礁が海面に到達する。

 そして定着期に入る約4500年前、サンゴ礁は礁原を拡大し、防波構造を強化させていく。これは、順番は逆でサンゴ礁の発達が定着を促したというべきだろう。

 興味深いのは、沈線文に始まる前4期に、サンゴ礁の方は、「サンゴ礁起源の堆積物による海浜地形の形成」が起きていることだ。つまり砂洲が発達するということである。

 前3期の「礁原の拡大と防波構造の強化」は、干瀬を発達させる。それは、前5期の「肥厚口縁土器」のデザインを準備するものだ。また、前4期の「サンゴ礁起源の堆積物による海浜地形の形成」は、後1期における蟹トーテムの思考を準備するものだ。かつ、前4期から前5期にかけて、イノーを胞衣とする思考が育まれたと考えられる。思考は自然に対応している。

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2017/10/20

「縄文文化の南の境界」(伊藤慎二)

 伊藤慎二は「琉球縄文文化」の領域を書いている。(『東アジア世界における日本基層文化の考古学的解明 : 國學院大學21世紀COEプログラム国際シンポジウム予稿集』 2006.9)。

 沖縄諸島を中心とする中核領域A
 奄美諸島とトカラ諸島を中心とする中核領域B

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 北限はトカラ諸島。「熊毛諸島」は琉球縄文文化と「本土」縄文・弥生文化との遷移領域あるいは「ボカシの地帯」。

 こういう言い方は相対化になる。「奄美」だけがボカシの地帯ではない。それは歴史的なものだ。

 琉球縄文文化の独自性は、「縄文施文」を欠く一方で、「口縁部突起」の出現と消滅は縄文文化の範囲。ただ、出現の時期は遅く、定着も不安定。このことは、「縄文文化とは異質の起源をもつ先史文化がその展開過程で「縄文化」したことに結びつく可能性も考慮できる」。

 南琉球新石器時代前期と後期。

 前期は下田原系土器。4250BP~3290BP
 後期はシャコガイ製貝斧の無土器文化。2200BP~940BP。約1000年の空白期。

 北琉球と南琉球の直接的な相互交渉を示す証拠が乏しい。しかし、盛本勲の挙げた(参照:「南北琉球圏に共通・類似する遺物」(盛本勲))、スイジガイ製利器、二枚貝製漁網錘、螺蓋製敲打器、貝製玉類などからは、「両地域間に一定の文化的接触が潜在した可能性を想定できる」。

 それがあったから、グスク時代に入り、速やかに「文化的一体化が進展したのではないかとも考えられる」と伊藤は指摘している。

 精神的な位相の類似を共有していた、ということだ。


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2017/10/19

「南北琉球圏に共通・類似する遺物」(盛本勲)

 盛本勲は、先史時代の南北琉球に共通あるいは類似する文物について書いている(「考古学ジャーナル352」1992)。

 1.スイジガイ製利器
 環太平洋諸島では、南北琉球圏にのみ限定されるようである。両者において突起の箇所がほぼ決まっている。その先端を砥磨(しま?)し刃先を作り出している。「漁具的機能が考えられる」。前4期、南北に共通するのは前5期。

 2.二枚貝製漁網錘
 殻頂部やその周辺に孔を穿ち、漁網錘として使用。前2期、前4期に増加。南では新石器時時代前期に登場。

 3.螺蓋(らがい)製敲打器(こうだき)
 ヤコウガイの蓋の薄い縁辺部に剥離痕。付刀という説と叩いた結果という説。盛本は敲打器と理解。北では前期、南では新石器時代前期。

 4.貝製玉類
 イモガイやマガキガイの螺頭部を利用。

 5.開元通貨
 7世紀のもの。両者で出土。

 この他にも、ジュゴン骨やサメ歯を利用した製品もある。盛本は特にスイジガイ製利器を強調している。

 「スイジガイ製利器は素材となっている貝そのもの天然分布は奄美以南の亜熱帯~熱帯の海域に棲息しているものの、環太平洋諸島では両圏のみに限定されるようである」。「当該製品のみは異なる文化的系譜をもつ両圏における初の共通の文物といえるとともに、同一突起における加工の類似性という点は、単なる類似性以外の社会的背景があったものと推する」。

 細かくみれば、いろいろあるわけだ。

 
 

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2017/10/18

「先史奄美のヤコウガイ消費 ヤコウガイ大量出土遺跡の理解にむけて」(木下尚子)

 木下尚子はヤコウガイ交易について整理している(「先史奄美のヤコウガイ消費 ヤコウガイ大量出土遺跡の理解にむけて」)。

奄美大島北部において、 先史時代人は大型ヤコウガイ (殻径17.1~19.0㎝) を捕獲対象にしていた。

兼久式期 (6~7世紀) になると、 人々のヤコウガイ消費に共通した変化がおこる。 小型ヤコウガイと超大型ヤコウガイの捕獲が始まり、 ヤコウガイにたいする無差別の捕獲と、 大量の殻の集積が始まる (第一の画期)。 この背景に島外における貝殻消費が想定されるが、 遺跡にのこされた大量の貝殻はその供給の効率の悪さを示唆する。

兼久式期の後半 (8世紀頃) にヤコウガイは小型のもの (殻径7.1~9.0㎝) が捕獲されるようになり、 資源の委縮した状況が認められる (第二の画期)。

兼久式期の終末期 (9~10世紀) にはヤコウガイ資源が回復し、 通常の捕獲が行われる。 当期は大和で南島のヤコウガイが消費される時期にあたっており、 遺跡もこれに対応していた可能性が高い (第三の画期)。 この時期の長浜金久Ⅰ遺跡に大型ヤコウガイの殻がほとんど残されていないのは、 こうした交易品として搬出されたと解釈できるかもしれないが、 蓋も遺っていない事実については今後の検討が必要である。

長浜金久Ⅰ遺跡で認められた11世紀、 13世紀とみられる文化層にはヤコウガイがほとんど検出されなかった。 おりしもこの時期は大和と南島のヤコウガイ交易の最盛期である。 古代・中世のヤコウガイ交易の実態を、 生産地において改めて検討する必要があるだろう。

 「無差別の捕獲」は、過剰な贈与と言ってもいい。これは返礼の過剰さを意味するだろうか。

 ヤコウガイの「大量消費」は、貝塚時代後期後半の話題だが、ヤコウガイ自体は、「爪形文土器期」の野国貝塚群からも「一定量」出土している、という指摘が面白い。長いながい付き合いなのだ。

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2017/10/17

「面縄第2貝塚の貝類遺体(予察)」(黒住耐二)

 面縄第2貝塚は、貝塚時代前4期に相当する(「面縄貝塚群Ⅱ-面縄小学校改築に伴う面縄第2貝塚の緊急調査」)。

 出土した貝類遺体は、サンゴ礁域の貝類がほとんどを占め、河口域や淡水域・陸域のものは極めて少ない。「ただ、徳之島でも僅かに生息が知られているマングローブ林に生息するシレナシジミは、この種が生息しない島の貝塚時代の遺跡からも出土しており、同様に本遺跡でも持ち込まれたものと考えられる」。

 巻貝類が大半で、シャコガイ類とイソハマグリ以外の二枚貝類は少数。全体として、中大形種が多く、その中でも、マガキガイ・チョウセンサザエ・ヤコウガイ・オキニシ・シャコガイ類等の割合が高い。

 面縄第2貝塚の前にはサンゴ礁、イノー(礁池)があるが、よく発達しているわけではない。として、黒住耐二は書いている。

イノー内に生息するマガキガイが極めて多いということは、当時のイノーの状況に起因する可能性もあるが、本種に対するかなり強い選択性が存在したことも想定される。
干瀬(礁嶺 / リーフ)で見られるオキニシは、徳之島のトマチン遺跡や沖永良部島の住吉貝塚でも多く出土しており、本地域で好まれていた可能性も考えられる。貝製品のの素材となるゴホウラも少数ながら確認されている。
ミミガイが集中する場所がり、奄美大島では同じ科に属するイボアナゴの集中する土坑が知られており(用安良川遺跡)、「もしかすると、特異な利用に起因するものかも知れない」。

 これらのことは、前4期の徳之島では、貝のなかでも巻貝がトーテムになってることを示していると思える。

貝類の種組成からは、沖縄諸島の貝塚時代後期と類似している。ただ、沖縄に多いサラサバテイラはそれほど多くはないようである。このことから、この地域では前4期の段階で、ある程度のイノーが発達したサンゴ礁の存在が確認できる。

 島人は、目の前のイノーの貝類の組成を軸に、自分たちのトーテムを思考したということではないだろうか。


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2017/10/16

「先史時代における沖縄県宮古島を中心としたシャコガイ製貝斧の展開」(山極海嗣、久貝弥嗣)

 山極海嗣、久貝弥嗣による宮古島のシャコ貝製貝斧をめぐる論考(「先史時代における沖縄県宮古島を中心としたシャコガイ製貝斧の展開 浦底遺跡出土貝斧の分析を基にした時空間的変異の検証」「物質文化 考古学民俗学研究」2017.5)。

 宮古、八重山における人類の痕跡は、約3万~2万年前から確認されている。しかし、居住や物質文化については、約4300年前以降で、宮古はそれより遅く約2800年前以降になっている。下田原の文化も多良間どまりで宮古島に至っていない。

 約2800年前以降、複数の遺跡で「集合炉」と考えられる痕跡が検出されており、土器を用いない蒸し焼き料理が行われていた。

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 浦底遺跡では、ビーチロックが発達している。ビーチロックは、海浜堆積物が海水、陸水、海水と陸水の混合水に含まれるおもに炭酸カルシウムが膠結して形成されたもの。これは、隣接するアラフ遺跡でも同じ。

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 浦底遺跡の場所は、約2800年前には、海水準と同様で、礁嶺の発達した穏やかな海域を前面にした砂丘地が形成されていた。

 さて、その浦底での貝斧だが、出土時には200本ものシャコガイ製貝斧が報告されている。200本!関連遺物としては、スイジガイ製利器、ホラ貝友孔製品、イモガイ製品、イノシシ犬歯有孔製品、サメ歯有孔製品、クジラ骨加工製品。

 石斧のなかには、石垣島から搬入されたと考えられる2点がある。

 貝斧は、ある程度風化・化石化した貝殻が素材として用いられたのではないかと考えられる。貝斧は、小型の刀部正面形タイプ3が多数を占め、上層へ向かうにつれタイプ1やタイプ2の大型の貝斧の比率が増加していく。

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 タイプ3は、貝殻の外面を丹念に磨いて平坦にし、外面から刀部中央部の入念な研磨によって弧状の刀部を形成する。タイプ1、タイプ2は、研磨をほぼ刀部に限定して、貝殻の外面へ弧状を描く刀縁、あるいは直線状の刀縁を形成したもの。

 この変遷を著者たちは、「手抜き」と「行程の合理化」という方向性と捉えている。「研磨作業を刀部に限定することによって製作効率は大幅に改善されるものと考えられるだろう」。

宮古島における比較的最初期の貝斧に関しては、製作に手間がかけられ、サイズや形態に一定の規格性を持った貝斧が製作・利用されており、それは次第に刃部に限定して磨製する大型で比較的粗雑な貝斧の利用へと移り変わっていったと考えられる。

 この製作の「粗雑化」と考えられている過程は、同時にシャコ貝に対するトーテム意識の濃度に相関しているはずだ。

 著者たちは、貝斧の技術が、宮古、八重山で出土する石斧の技術から生み出された可能性にも言及している。つまり、貝斧が宮古島で発生した可能性である。

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2017/10/15

「日本列島の古代貝文化試論」(木下尚子)

 「日本列島の古代貝文化試論」で木下尚子は、

本土地域のものが遠隔地の貝を多く使用しているのに対し、 琉球列島ではほとんどがその近海の貝でまかなわれていることに気づく。 また前者では時代による貝文化の傾向が明らかなのに対し、 後者ではそれほど顕著ではない。

 として、次の表を挙げている。

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弥生時代には大陸渡来の文化の影響下、このような装身観念は急速に衰退し、農耕社会の観念に適合する装身具が新たに選択されていく。琉球列島産の大型巻貝類(ゴホウラ、いもがい、 オオツタノハ) はこの過程で九州に登場し、 弥生時代の初期には、 大陸的な正円形腕輪を模倣する素材として漁労民の一部に用いられていた (レベルⅡ)。間もなく弥生社会独自の祭祀が成立すると、 これに適合する貝素材が改めて選択され、 うずまきデザインを意識した、 いわゆる南海産貝輪が成立する (レベルⅣ)。

 この時期、 特定観念の表出手段(農耕祭祀) の素材獲得のために、適材(南海産貝類) の入手路を遠方(琉球列島) に開拓して取り寄せるという行為が日常化する。 これは縄文時代にはなかった現象である。素材を遠方に求める傾向は、続く古墳時代、古代においても認められ、 イメージの表出手段として、 また工芸素材として南海産の貝がしばしば使われる。 こうした傾向の中で、 輸入法具であったインド産シャンクガイの法螺は、 その代替素材を国産のボウシュウポラ類、ホラガイに求めながら(レベルⅡ)、適材を琉球列島産ホラガイに絞り込んでいく(レベルⅢ)。

 このように、 本土地域における貝文化は、農耕社会成立を機に古代に至るまで、 近海の貝から南島の貝へと需要の重心を大きく移動させてきた。 貝文化のレベルはⅠ~Ⅴに及び、 南海産の貝類もレベ ルⅢ・Ⅳを充足するなど文化的にも重要な位置を占めている。 しかし琉球列島の貝を大量に長時間にわたって採用してきたにもかかわらず、 本土地域の人々はついにこれらをもとに独自の観念を創出する (レベルⅤ) に至らず、 これをイメージの表出手段や形而下の素材として用いる (レベルⅡ~Ⅳ) に留まった。

 「本土地域の人々はついにこれらをもとに独自の観念を創出する (レベルⅤ) に至らず、 これをイメージの表出手段や形而下の素材として用いる (レベルⅡ~Ⅳ) に留まった」のは、言い方が逆で、「独自の観念」を不要とする段階の「貝」を見ているからそうなるということのように思える。

いっぼう琉球列島では先史時代以来、 形而上一下両レベルにおいて近海のサンゴ礁の貝がふんだんに使用され、その一部は琉球王朝期、さらには現代にまで継続している。 縄文時代併行期から現代に至る呪具としてのしやこがい (レベルⅤ) の息の長さは、 この地域の貝文化最大の特徴である。 弥生時代から古墳時代併行期にかけて、 一時期貝符や竜佩が登場するのは、異文化接触によっておこった貝による玉製品の代替現象とみられる (レベルⅡ)。琉球列島に多い貝輪は、 おそらく何らかの装身観念に結びついていたと考えられるが、 知られる着装例が稀少なため、 具体的研究は進んでいない。 主体的意味をもっていたとすれば、 おそらくⅣないしⅤレベルにおさまるであろう。

 総じて琉球列島の貝文化は、 発想・素材ともに在地のものに拠っている。本土地域のように素材を外に求め、 次々に新たな文化現象の表現手段とすることはほとんどなく、 在地的貝文化の各レベル が長く継続する。 この傾向は、琉球列島に階級社会が成立するグスク時代におしても基本的に変わらない。

 「貝符や竜佩」は、「異文化接触によっておこった貝による玉製品の代替現象」ではなく、またおよそ先史時代において、「形而上」の意味を持たないものはない。

 ここでもヤコウガイの本土側の依頼内容を知りたかったのだが、やはり「最適素材」という意味が優勢なのだろうか。

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2017/10/14

 「正倉院伝来の貝製品と貝殻―ヤコウガイを中心に」(木下尚子)

 ぼくが知りたいのは、ヤコウガイ交易の際、大和側から琉球弧の方へ、何という依頼があったのかということだ。それというのも、ヤコウガイの前段階のゴホウラやイモガイの際には、弥生期に入った大和側からの依頼があり、それに対して、琉球弧側は神話的な思考で見事に応えていると考えられるからだ。

 「正倉院伝来の貝製品と貝殻―ヤコウガイを中心に」のなかで、木下尚子は書いている。

先学の研究を整理すると、日本の螺鈿工芸は唐に由来する螺鈿加工技術を土壌として成長し、9世紀以降はヤコウガイ産地を琉球列島に得て独り立ちしたということができる。つまり螺鈿技術を習得した古代日本にとって、琉球列島において自前の産地を確保できたのはきわめて重要な出来事だったのである。
 ここで問題にしたいのは、大和の人々がどのように南島のヤコウガイを見いだしたかである。

 これはぼくたちの問題意識に近いのかもしれない。一気に飛ぶが、木下はこう結論づけている。

・8世紀前半の最高級の帯であった斑貝御帯の帯飾りは、輸入素材であるヤコウガイと、その仲間の貝であるチョウセンサザエ亜属の貝で製作された可能性が高い。ヤコウガイが使われたのはそれが唐で貴重な素材だったからで、これを使用すること自体に意義があったのであろう。帯は中国の白玉帯を模倣したとみられ、貝殻の真珠層以外の部分を故意に選んで制作された。同じ時期、ヤコウガイや見事な真珠層をもつクロチョウガイを用いて複数種の装飾品が作られたが、いずれも貝殻の真珠層を強調した製品ではなかった。

・8世紀後半、東大寺大仏開眼会を契機に唐の厚貝螺鈿技術が本格的に習得され、国産の螺鈿製品が生まれた。螺鈿技術と組み合うことでヤコウガイの真珠層は初めてその特徴を発揮することができたといえる。またこれによってヤコウガイを消費する主体的な動機が国内に生まれた。

・8世紀後半日本の宮都で消費されたヤコウガイ貝殻は、その価値観や螺鈿技術と一体になって唐から輸入された可能性が高い。この時期、琉球列島からヤコウガイが輸入された可能性は低く、それが実現するのは9世紀とみられる。

・古代の宮都に輸入されたヤコウガイは、8世紀のものと9世紀以降(注43)のものに分けて考えられる。前者は唐からの輸入品である可能性が高く、後者は琉球列島からもたらされた可能性が高い。このようにみると正倉院南倉に1点のみ伝来するヤコウガイ貝殻は、これがとくに貴重であった前者に属する可能性が高いだろう。

 木下は、最初唐から直接仕入れていたものを、王権内での技術が高まったところで、琉球弧から仕入れたというシナリオになる。自然な考え方だと思う。っそしてこうであれば、すでにヤコウガイには装飾の価値のみがあったということになる。琉球弧への依頼もヤコウガイを、という指定になる。

 ただ、応える琉球弧側はどうだったろうか。ヤコウガイは礁斜面に生息し、イモガイと同様、男性の捕る女性動物という特異な位相を持つ。これは島人にとって意味を持ったはずだった。

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2017/10/13

「西日本の縄文社会の特色とその背景」(瀬口眞司)

 同じ縄文時代でも、東日本に比べて西日本はいかにも「小粒」と、瀬口眞司は指摘している。その特徴は以下の通りだ。

 1.人口密度は低く、集団規模も小さく、集約的・求心的な構造を持たない。
 2.打製石斧や磨製石斧を一定量持つが、土地や森林の改変を伴うような資源利用には一貫して消極的。
 3.縄文後期に世帯当たりの貯蔵量は拡大し、堅果類の資源利用を強化したが、その程度は東日本に比べれば低い水準。

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 この背景にあるものは何か。瀬口は、資源利用に見ている。出土する堅果類は、東日本が落葉樹三種類なのに対して、西日本は落葉樹三種類に加えて照葉樹四種類(以上?)も出土している。

四ヵ月をかけて必要量を収穫すればよい西日本に対し、東日本ではその半分の二ヵ月の間に急いで必要量を確保する必要があります。結果として、集約的な労働がより必要となり、集団規模を拡大させたり、求心的な構造を生み出したりする必要性も高まることになるでしょう。

 ぼくたちにとって面白いのは、この西日本のさまをより「緩く」したのが琉球弧だということだ。琉球弧から列島を北上した一群が、大きな島(本土)をどのように辿って行ったのか、想像を刺激される。ともあれ、この視点からは、琉球弧から西日本、東日本がグラデーションとして見えてくる。


『縄文時代: その枠組・文化・社会をどう捉えるか?』


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2017/10/12

「貝符に類似する土器文様の検討」(中村直子)

 中村直子は、種子島広田遺跡上層タイプに似た文様が「奄美に分布する兼久式土器に施されている」と指摘している(「貝符に類似する土器文様の検討」「東南アジア考古学会研究報告」2004.11)。

 その似方だが、土器に施された文様は、貝符と全く同じではない。

それ以前の土器の型式学的変化からは系譜の引けない文様が施され、その雰囲気が貝符文様と似ているのである。

 上層タイプの貝符は遺構ごとに貝符の雰囲気が似ていて、「限定された製作者が作成したもの」と考えられる。

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 1~5:突帯を持たない甕に沈線文を施すタイプ。
 6~15:外面に1条の刻目突帯を施し、その上または上下に沈線文で文様を施すタイプ。

 土器文様はきっちりと定式化はしておらず、様々なバリエーションがある。

 a:直線的な文様。土器には曲線も施されるが、「直線的な文様モチーフは貝符文様に似た雰囲気」を持つ。
 b:60度もしくは120度前後の角度を持つ。直線文の「屈曲部が直角になるものがほとんどない」。
 c:ほとんど横方向に展開するが、13~15のように縦長文様を横に連続するものがある。
 d:幅の狭い二重平行沈線文を多用する傾向。

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 A類文様と貝符は強い結びつきがある。G類は貝符の地理的分布の拡大とともに、類似する文様が土器にも施される。これは貝符出土量が群を抜いて多い種子島の土器には見られない。

 ぼくたちは貝符文様を、蝶形骨器にひとつの達成をみる「蝶」モチーフのデザインが展開されたひとつだとみなしている。それは、兼久式以前、口縁部に突起を持つ土器にもみられるが、兼久式にまでそれは継続されていると見なすことができる。


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2017/10/11

「縄文文化における南の範囲」(伊藤慎二)

 縄文土器様式の特徴は、縄文施文と口縁部突起の発達。

 石垣島で、約4000年前の深鉢のような形をした土器が確認された。下田原式系土器は三段階に区別できる。深鉢のような形もあるが、鍋のような土器のみに変わっていく。

 北琉球の貝塚時代の土器変化は、少なくとも7つの土器様式があって連続的に入れ替わる。

 爪形文は、「指先・爪先のような道具で土器の表面に文様をくまなく」つける。

 ・貝塚時代の土器様式は、「縄文文様をいっさい使わないことで終始一貫」している。
 ・前3期の隆帯文系土器の段階から壺形土器が出現して、その後も継続的に作られる。
 ・口縁部突起も隆帯文系土器から一般的になるが、出現時期が遅れているうえ、不安定。
 ・「土偶や石棒」がまったく見られない。
 ・「蝶形製品」と「線刻石板」。

 こうした特徴を整理して、伊藤は述べている。

 このことは、縄文文化の精神的世界観に関連する土偶や石棒を貝塚文化はまったく受容していないことと、物事の両面として関わっている可能性があります。そうすると、縄文文化の南西側の範囲は熊毛諸島までで、北琉球の貝塚文化は、縄文文化に隣接する独自の主体性を備えた別の文化として捉えるべきなのではないかと考えられます。


『縄文時代: その枠組・文化・社会をどう捉えるか?』

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2017/10/10

トーテムの系譜と島人の思考11

 もう少し詳細に書いておく。島という環境はコンパクトに人類史を辿る。そうであるかのように見えてくる。

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2017/10/09

トーテムの系譜と島人の思考10

 こうしてぼくたちは、土器の変遷を加えることで、「貝」の位相を変更し、「トーテムの系譜と島人の思考」について、年代を加えて更新することになる。

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2017/10/08

くびれ平底系土器とヤドカリ

 ゴホウラがヤドカリ・トーテムの発生を促しているとしたら、くびれ平底系土器にはもうひとつ考えられることがあることになる(参照:「ヤドカリ・トーテムの発生とゴホウラ」)。

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(伊藤慎二『琉球縄文文化の基礎的研究』2000/12)

 底部の「くびれ」が礁斜面を示しているとしたら、口縁部のでっぱりは陸側を示しているということだ。オカヤドカリは、浜辺から500m以内を生息圏としているからだ。そうだとしたら、「くびれ平底系」は、ヤドカリ・トーテムの発生を意味していることになる。

 仮にそうだとしたら驚くことに、琉球弧の土器の様式変遷は、そのままトーテムの変遷に重ねて考えることができる。

 しかし驚く前に、ここで性交と出産の認識も受容した。つまり、母系社会の終わりを意味したことになる。このことは、「くびれ平底」系のすみやかな終焉とグスク時代の幕開けという顛末と矛盾していない。

 

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2017/10/07

「境界紀行(六・七)水俣 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 その土地をまるごと損なってしまうような災厄に見舞われると、語られること考えられることは、その問題に集約されてしまい、それ以前の美しさや豊かさは、回復されるべきこととして言挙げされるものの、それが深められることは無くなってしまう。ぼくたちはそういう光景をそこかしこで見てきているのではないだろうか。

 今回の「境界紀行」は、「水俣病の水俣」ではなく、「水俣病より大きい水俣」という叔父谷川健一の言葉を実際に感じるべく書かれている。

 谷川ゆにがそこで出会うのは、いまも生き生きと語り継がれる河童の伝承であり、その河童を支える「水」の存在だ。河童は川をつたい、川のもとにある水源はこの世ならぬ「水の空間」だった。

 谷川は琉球弧で、水が「人の生と死に大きく関わる霊的なもの」として捉えられていることを思い出し、書いている。

天から降り注ぎ、地からも湧出する水は、めにみえない(この世ならぬ)場所から、こちら側に生まれ出てくる。そしてまた空へと上がり、地下へ染み込み、あちら側(あの世)へと向かう。その循環が、人間の魂の、生と死の往来と重なって感覚されることがあるのではないでしょうか。

 この感覚は、都会育ちの谷川が生まれて初めて「ふるさと」の意味を伝えた水俣から感じゆされるものの奥に控えているものかもしれなかった。

 谷川の視線は山だけでなく海にも向けられる。すると、すぐ近くに恋路島が見える。

 伯父の谷川健一は、身近な小さな島がかつては「あの世」だったことを幻視した人だった。そのことを引きながら、姪は恋路島に、不知火海に浮かぶ小さな島々に「目に見える身近なあの世」を幻視するのだ。

やはり人は、茫漠とした「死後の世界」ではなく、懐かしい「ふるさと」であるところの「あの世」に還って行きたいのではないでしょうか。母のような温かい存在に、自分の魂を優しく受け止めてほしい。小さい島の一つ一つが、どこか感情をもった生命体のような雰囲気を醸し出しているのも、人間にとっての「あの世」たりうる条件を備えているということなのかもしれません。

 谷川は、水俣あるいは不知火海に「湧き出す豊かな自然な力と、人間の生自体が有機的につながる風景」を見ている。それは、「水俣病より大きい水俣」の姿のひとつにちがいない。

 しかし、谷川はそれを幻視しても苦しい立場に立とうとしている。「水俣病」を脇に置くことはできない。

つまり、人間が生きることにともなって必然化され続ける破壊や均質化と、その一方で繊細に自然と結ばれなければ生きられない人間本来のありよう、その矛盾の中に、自分をどう立たせてゆくのかということです。それはとてもハードな問題で、正解への糸口など簡単には見つからないように思える。

 それでも、ここで踏みとどまっている。

時代が進むにつれて本来あったはずのものが消えてゆく喪失感はあるのですが、それと同じくらい、私の身体にひっそりと宿る古代が、思いがけず賦活されていくような感覚がある。失われ続ける荒野に生きる自分の中にこそ、青葉が芽吹いてくる。

 著者は苦しんでこれを書いている。ものごとにはくぐり抜け方がある。さっと通り過ぎることもできるだろう。けれど谷川はそうしない。そこに生まれざるをえない抵抗を一身に浴びて発生する熱量を引き受けようとしている。そこに「水俣病より大きい水俣」が貌を出す。いつもそうだが、今回はとくに「はじまりのはじまり」というべき胎動を送って寄越すようだった。


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2017/10/06

ヤドカリ・トーテムの発生とゴホウラ

 「琉球先史時代人とサンゴ礁資源」の貝、そのなかでゴホウラについて、 黒住耐二は書いている。

 ゴホウラは礁斜面の下部に生息していて、採集には十メートル程度潜水しなければならない。しかし、貝塚時代には干瀬の外での魚類捕獲はほとんど行われていない(極めて少ない)。海面下でゴホウラやヤコウガイを発見した場合、数メートルの潜水は頻繁に行われていただろう。

 遺跡から出土するゴホウラは死殻状態だ。そして、ゴホウラの死殻はコモンヤドカリ等の大型ヤドカリ類に利用されている。

推進10m程度の礁斜面から、ヤドカリによって、ゴホウラ死殻は浅場まで運ばれてきたと考えられる。ヤドカリ入りゴホウラ死殻は、イノー内で見られることはほとんどなく、通常、干瀬の縁溝と呼ばれる溝状構造部やさらに幅の広い水道部(方言でクチ)で得られる。

 これはとても面白い。

 ぼくたちは、多良間島の習俗から、ヤシガニと貝の結合としてのヤドカリ・トーテムの発生を考えてきた(参照:「南島歌謡に謡われたサンゴ礁の地形と海洋生物」(渡久地健)」)。だが、ゴホウラ採集の実態が黒住の言うようであったとしたら、多良間の系譜とは別に、ヤドカリ・トーテムの発生の現場に立ち会うことになる。むしろ、こちらがあってヤドカリ・トーテムが発生、多良間の習俗も生まれたとみなすほうが自然だということになる。
 


『先史・原史時代の琉球列島―ヒトと景観』

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2017/10/05

くびれ平底系土器とゴホウラ、ヤコウガイ

 くびれ平底系とされるアカジャンガー式は、奄美の兼久式と「明確に一線を画して区別することが困難である」(伊藤慎二『琉球縄文文化の基礎的研究』2000/12)。そこで、くびれ平底系の土器として共通に考えたい。

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 「肥厚口縁系」の「肥厚口縁」を、ぼくたちは干瀬と陸側の岩場とみなした。続く「無文尖底系」のなだからな曲線は、サンゴ礁の形態そのものとみなした。そして「尖底」から「平底」への変遷は連続的であるとみなされている。

 そうなら、そこへ流れる思考も連続的であるはずだ。

 そう考えるなら、底部の「くびれ」は、イノー(礁池)、干瀬、礁斜面の形そのものを表現したものではないだろうか。貝塚時代後期は、大和との貝交易で知られる。その際、重宝されたゴホウラ、イモガイ、ヤコウガイのうち、ゴホウラ、ヤコウガイは礁斜面に生息している。かつこれらは、男性が捕る女性動物という特異な位相を持った貝たちだ。ゴホウラの、男性が捕る女性動物の意味は、大和との「交易」でも双方にとって重要な意味を持った。ヤコウガイはどうかわからないが、少なくとも琉球弧の島人にとっては意味があったとみなせる。

 貝交易の特に後半で、意味を強めたサンゴ礁の「礁斜面」を、この土器の形態は示しているのではないだろうか。それはある意味で、他界とのあいだにねじれが生じ、遠ざかったいくこと、あるいは地下の他界の発生を物語るものであるのかもしれない。

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2017/10/04

無文尖底系土器と蟹

 貝塚時代後1期からは「交易期」とよばれ、考古学的には大きな世替わりが示されている。野生の思考でもそのことは示せる。ぼくたちはここで母系社会化したと考えている。兄妹婚が禁止され、「をなり神」が現在言われている意味に変容したのだ。

 この段階の土器は、「無文尖底系」と呼ばれる。その名の通り、無文を特徴としている。奄美の「沈線文脚台系」は九州弥生の影響が認められるので、ここでは「無文尖底系」に絞って、ひとまず見ておく。

 安座間充は「貝塚時代後1期・沖縄諸島の土器形態」のなかで、器形のプロポーションとして、「器高」と「口径」に着目している。

 そして全体の傾向として、(器高)>(口径)だったものが、(器高)<(口径)へと変わってゆくと指摘している。つまり、高さに対して大きく開口していくということだ。安座間は、「形式区別の基準に器形プロポーションを重視すべき」だとしている。

 この興味深い視点を共有すると、考えられることはある。前段階の肥厚口縁系の土器は、干瀬や海辺の岩場を強調したものだと捉えた。その続きでいえば、この変遷は、実際の貝からサンゴ礁としての貝への関心の移行を示すのではないだろうか。

 無文尖底系の段階は、トーテムの中心が「貝」から「蟹」へと変わる。土器にはトーテムが反映されてきたことを踏まえると、ここで貝に代わって蟹が表現されておかしくないはずだ。しかし、土器は、「貝」の意味を変えられない。あの世とつながる場だからというだけでなく、後代にも壺や鍋は「貝」という意味を失わずに来ているからだ。

 そして「蟹」は、寒くなると海辺の岩に化身するというように、干瀬や岩場(サンゴ礁)の子という位相を持っている。そこで、「蟹」を包含するものとして「貝」もしくは「サンゴ礁」を表現するとしたら、「岩場」か「砂浜」になるはずである。それが、「無文」の意味ではないだろうか。

 あるいは、母系社会化により兄妹婚は禁止される。そのショックは「無文」のなかにも反映されているのかもしれない。

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』

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2017/10/03

肥厚口縁系土器と干瀬

 前5期の肥厚口縁系土器は、干瀬と陸側の岩場である辺端(へた)を強調したものに見える。

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(伊藤慎二『琉球縄文文化の基礎的研究』2000/12)

 あの世から、つまり土器の底から、この世への贈り物は、大潮の干瀬と辺端にもっとも表現される。それを口縁部を肥厚させるとで表現したのが、肥厚口縁系土器ではないだろうか。

 犬田布Ⅱ類の一群と考えられる「方形肥厚口縁土器」は、「茶褐色を呈し、焼成は良好で、胎土にサンゴ砂・花崗岩を含む」とされている(森田大樹「奄美諸島における前5期の土器について」)。これなど、素材からしてサンゴ礁なのだ。

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』

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2017/10/02

籠目文系統と植物トーテム

 前4期の奄美土器について、新里亮人は整理している(「貝塚時代前4期奄美諸島の土器様相」「鹿児島考古」2017.7)。

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 たとえば新里は、嘉徳Ⅱ式は、考えられていたより古い段階から出現しているから、嘉徳Ⅰ式Aから成立したものではない可能性が高いと指摘しているように、奄美の土器については整理しきれていないことも多いようだ。

 また、崎原恒寿は、「点刻線文系土器について」で、こう整理している。

・嘉徳Ⅰ式 → 伊波式(後続)
・嘉徳Ⅰ式 → 嘉徳Ⅰ式B(派生)
・嘉徳Ⅰ式Bは主に奄美

 直観的には、沖縄の荻堂式と奄美の嘉徳Ⅰ式Bを対照して捉えればいいのかもしれない。これらはどれも、「貝と蝶」の表現とみなせる。

 ぼくが気になるのは、凹線文土器(4)や嘉徳Ⅱ式(5)の「籠目文」だ。ここに表現される「超えと潜り」はあるいは、苧麻等の植物トーテムなのではないだろうか。

 ぼくたちのこれまでの考えでは、北琉球弧の植物トーテムは、貝と蟹のあいだのどこかで発生していると捉えてきた。土器にもそれは表現されてよいとするなら、籠目文様がそうなのではないだろうか。

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2017/10/01

点刻線文系土器と「貝と蝶」

 貝塚時代前4期の土器は、特徴的で出土量も多いためか、考古学者たちも饒舌だ。前4期では、奄美と沖縄の様式が異なり、二つの土器様式圏に分離する唯一の時期だとされている。

 分離期の沖縄の土器は、伊波式、荻堂式、大山式と呼ばれている。

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 約4500年前に「貝」トーテムの段階に入る(前3期)。約4000年前には蝶形骨器が出現している。約3500年前の前4期は、他界の発生の段階だ。

 この段階で、土器に「蝶」が込められる。特に荻堂式に特徴的な山形の突起だ。土器の表現は「貝と蝶」をメインにしている。これは、奄美、沖縄の刺青表現が、「貝と蝶」を基本にしているのと同期している。つまり、現在まで伝えられた刺青のデザインは、前4期の点刻線文系の土器デザインと同期している。

 ただし、沖縄の刺青に典型的な「丸星」や「五つ星」と類似はあっても同一文様ではない。思考は同期しているが、刺青のデザインも土器デザインと同様、変遷することがあったと想定すべきなのかもしれない。

 注目するのは、伊波式でみられるように、土器の口が方形であることだ。これは、「貝」トーテムがサンゴ礁へと拡張されたことを示すのかもしれない。この形態は、琉球弧の竪穴式住居が方形であるのに対応すると思える。


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