「C.ギアツの解釈人類学と沖縄・奄美-<中心>と<周縁>を読み解くために-」(稲村務)
稲村務は、琉球弧の墓制について書いている(「C.ギアツの解釈人類学と沖縄・奄美-<中心>と<周縁>を読み解くために-」(稲村務「人間科学」2009.3))。
奄美諸島から沖縄諸島までは、檀家制度がなく、過去帳などの記録制度のなかった地域であり、祖先は琉球王府を中心とする「系持ち」と呼ばれた士族層にのみ記録されている。大半の農民層にはそうした記録はなかった。
祖先の記録がないことと祖先崇拝との矛盾を解決するのは、「奄美諸島の葬墓制には、沖縄的な「門中化」があり、また本土的な「祖霊化」がある。前者は父系制を志向し、後者は祖先を集合的な抽象的存在とする」こと。
・「奄美諸島において、家系図を薩摩の役人によって焼かれたり持ち去られてしまったという伝承は多く、広く信じられている」。これは厳密にいえば、奄美の北である。
・「昭和40年代に火葬場が出来て以来、洗骨(大和村ではカイソウという)は人々の記憶からは遠く、トゥール墓(掘り込み墓)はほとんど記憶にない」。
・大和村。「湯湾釜のある話者は、小学校を建設した際にたくさんの人骨が出てきたとき、それをトルコ人の墓だといっていた。これはトウール墓という発音の「トフル」が記憶のなかにあったものの、具体的なイメージにはすでになく、言葉だけが「トルコ」という発音と結びついたものと解釈できる」。
・(徳之島)「目手久集落においてもこの風葬地の伝承は現在ほとんど残っておらず、大規模な耕地整理の際に考古学的な遺跡として知られることになった。名を失った祖先の遺骨は社会的に忘却され、徐々にオトロシドー(恐ろしいところ)であるとか、過去の「遺跡」として忌避され、歴史化されていくことが看守され」る。
・「沖永良部島でもトウール墓は島の各所でみることができるが、内城のチュラドウールのようにある家系の者が入るということになっているものを除き、村落単位での墓であったと思われる。しかし、現在あるトウール墓のほとんどが近隣の村落のものではなく別の遠い村落のものであると伝承されている」。
・「与論島では現在でも自分の家系の掘り込み墓は使ってはいなくともそこに祖先が入っていることは意識されている」。
・「与論島出身の種子島への移民たちが洗骨をしているのを種子島住民がみて、骨を掘り起こすとは犬のようだといったという。逆に与論島の人々は親を埋めっぱなしにするとは何たる親不孝だといったという。このエピソードは洗骨のものであるが、洗骨が風葬と同じく地面の下に親を埋めるのは不燗だと考える発想によっていることを示している」。
ここにもグラデーションは見られる。稲村はこう書いている。
大和村の「トルコ人」説や徳之島の「ナハチブル」(1609年の島津侵攻の際の沖縄人の頭骨)、沖永良部の「遠くの集落の人々」説などである。徳之島の酒井報告では20年ほど前にはあった記憶が現在は失われて考古学的遺跡のように扱われていることがわかる。また、沖縄においてもこうした洞穴墓や掘り込み墓が姥捨て山や「大和人」(ヤマトンチュー)伝説と結びつきやすいことが報告されている[名嘉真1999:65]。
墓制の議論とは別にユウナについて触れられていた。
徳之島の伊仙のような洗骨地帯では、「洗骨の仕方としてはユナガシヤー(ユウナの葉)のように葉の裏がざらざらした植物か、石鹸を使って頭骨を真水で洗うといい、海水は用いない」。
ユウナの葉で頭骨を洗う。備忘メモ。
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