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2017/08/12

「境界紀行(五)宮古島・後編 たましいの行方をさがして」(谷川ゆに)

 旅人は二度、島に出会う。一度目は、まれびととして経験したことのない歓待を受けて感激し、喜んで二度目の訪問を果すも、まれびとではなくなった旅人に島の歓待は薄れ、旅人は失望する。これは出会いの定型だと言ってもいい。

 しかし、谷川ゆにの島との出会いはこれとは全く違っている。予備知識なしで島に飛び込んだ宮古島での滞在早々に、谷川は、「本当の意味で「島に入る」のは、そう容易ではない」と実感するのだ。

 真剣であれば、それは自然な反応だった。サンゴ礁でできた亜熱帯の島は、本土の風土とはちがうのだから。けれどぼくたちがここで目を止めるのは、定型からいえば、この感慨は、旅人が二度目以降に、しかもよほど島を気に入った人でなければその実感にたどり着くことのないものだということだ。

 来訪一度目よろしく、「出会う島人はみな親切」という歓待に近いものを谷川は受け取っている。しかし、谷川はうかれるでもなく、むしろ「なんともいえぬ疎外感」を抱えてしまう。これは特異な態度ではないだろうか。いや、特異というより、見たことがないと言うべきだ。

 琉球弧の自然や習俗は本土の研究者には格好の素材を提供してきた。島人は彼らをもてなすことを忘れないが、心のどこかでは寂しさを隠している。いずれ去って行くのを知っているから。そのうえ、島の外で開陳される成果が島人にフィードバックされるのは稀で、しかも島人の眼からみれば、不用意に解剖される割には浅く切り取られがちなのだから、寂しさは島人の視野の外にも広がっている。

 谷川の態度は、これとはちがっている。

 しかし、この島の死者と神々の世界に届くためには、私はまず、この自然の中に入れてもらわねばならない。この世ならぬ世界は、草木や海や空、そしてそこに繋がって生きる人々と共にあるからだ。だが、一体どうすれば島の懐に入れてもらうことができるのであろうか。

 「死者と神々の世界」を素材にする研究者もいる。いやむしろ琉球弧に惹きつけられるのはそれがあるからだと言ってもいい。しかし、そこで、「この自然の中に入れて」もらうのを前提にするなんて、聞いたことがない。

 「逃げ出したいような息苦しさ」を抱えた谷川は、縁のあるユタを訪ねる。「死者と神々の世界」に接近するのに、専門家を頼ったということだ。それは、この人の態度からしてとても自然な成りゆきだ。そして、ユタが死を感知したり、死者と交流する姿を見ながら、谷川はそれを偶然の合致や恣意的な解釈とはみなさない。

私はやはりここから、個人の個我といった近代的な意識が希薄だった時代の人間同士のつながりや、自己や他者の区別があいまいな状態でこそ持ちうる、人間の自然性のようなものを受け取らずにはいられないのである。

 ぼくたちはここで、谷川が「死者と神々の世界に届く」ということが何を意味しているのか、一端に触れることになる。谷川は、死者との交流が自然だった野生の心の段階に触れようとしているのだ。それがこの人の態度を稀有なものにしている。いまでは島人にすら見かけなくなったもので、島人より島人らしい。

 ところが、とある家の、ユタを介した死者との交流に同席した谷川は、その家の主人にこう言われる。

 「あなたは、私たちの先祖供養を本土に持ち帰って、それを文化として扱うの? それとも宗教として?」

 この問いかけには、数多の来訪者を眺めてきた島人の寂しさが滲んでいる、と思う。しかし、これは問いとして本格的でたいしたものだと思わせる。

 谷川は直接には答えない。心でこうつぶやく。「そうだ、私はこれを、文化や宗教などと外側から掴むことはすまい。私たちの身体に深く連なる『神と人間と自然の交渉』として捉えるのだ」。

 身体を張るという言葉があるけど、谷川の場合は、身体性を張っているのだ。たいした問いかけは、たいした態度が招いたものかもしれない。

 こう心に思った谷川は、そのとき、近くの「ソテツやバナナの葉が、一斉にザワリとこちらを向いたような気が」する。文章もここで終わる。声にはならなかったけれど、この応答で、谷川は「自然の中に入れてもら」う端緒についたのではないだろうか。


「波 2017年8月号」

Nami8_2


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