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2017/08/13

胞衣としてのティラ山(徳之島徳和瀬)

 子が母親に、「赤子はどこから生まれてくるの?」と聞けば、徳之島の徳和瀬ではこう答えたと、松山光秀は書いている。

「それはね、朝早くティラ山のそばを通って水汲み(泉へ)に行きよったら、ティラ山の大きな松の木の二股のところに何か変なものがかかっているので近よっていって取り上げて見たら赤子だったのさ。早速水も汲まないで赤子を抱いて帰って来たんだよ。」

 ティラ山は、「木の小枝一本を切ってとっても神の祟りにふれるといわれる。近寄り難い畏しい神山であった」。松山は、お産が不浄視されていれば生まれてこない話ではないかと書いている。

 ティラ山の南側中腹は、チンシ山と呼ばれ、その麓の南側の端にイビガナシという聖地がある。

 この子供の話は、ティラ山の中腹が、サンゴ礁と同じく「胞衣」だったことを意味すると思える。


『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』

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