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2017/07/31

「山神と平地の田神との巡回と反復」(吉本隆明)

 吉本隆明は、「思ふに古今は直立する一の棒では無くて、山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまである(『後狩詞記』)」という柳田國男を受けて、山人と平地農耕民のあいだでは「時間」は斜めに走ると書いている。

ここで柳田が認識している山人(猟師、木樵)と平地人(農耕民)との差異は、たんに居住領域の空間的な違いでもなく、またたんに山人を先住民とし、平地人を後住民とする違いでもなく、このふたつがきり離せない合力の成分要素として表象されていることをさしている。この斜めにはしる「時間」という柳田の概念は、ひとつには「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終りには又田から上って、山に還って山の神となる」という山神と平地の田神との巡回と反復の根拠をなしていた。

 この「山神と平地の田神との巡回と反復」について、「このふたつがきり離せない合力の成分要素」であるということの意味を、山人が平地にくだって平地人となった経緯としてみなす視点を出しておきたい。

 それは農の段階以前に挿入することができる。縄文遺跡の分布をみると、山間部で遊動していた縄文人は、平地に下りてゆく。なかには定着する人々も現れた。海への接近だ。稲作伝来以前に平地住民がいたということは、この普及に大いに預かったにちがいない。

 平地に下りた縄文人は、定着によって他界を発生させる。このとき、他界の指定先には山も選ばれる。山からは異形の祖先が時を定めて姿を表わすことになるだろう。それが零落の過程で、妖怪に変形されていくが、一方で、祖先の表象は山の神となり、稲の生育期間、田の神として集落を守護することになる。

 

『柳田国男論・丸山真男論』

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