柳田國男の「宝貝」と「稲籾」
『海上の道』における柳田國男の「日本人」は、人種的な構成要素ではありえても、それだけでは「民族」の区政要素とは見なしにくい。しかし、それでも、「「宝貝」や「稲」についての柳田の記述は、いちばん円熟した時期に、いちばんたいせつな民俗学の主題をめぐって、いちばん精髄をあらわしている個所だった」。だから、吉本は「この主題から立ち去るのが惜しい感じを与えるゆえんだ」としている。
「宝貝」や「稲籾」は、物欲や食欲を介して原「日本人」の交易品や食糧として生活と生存に不可欠だった。この不可欠な要素がなければ、海を渡り島にといつぐ本能的な趨向性を持ちえない。柳田の記述はそう暗示する。しかし、不可欠な必要性にとどまるなら、ふたたび大陸沿岸にもどって採取のためだけに南西の島々を訪れればよかったはずだ。島々を求め移動してゆくためには別の動機がなければならない。
柳田は、そこで「占いや夢の告げ」、「鳥や獣の導き」は、「無意識の安住と安楽が横たわっていることを信じて、家族や器什をたずさえて」いった。そして、稲の人にとって、「稲は自己表出にほかならなかった」。そう考えた。
「宝貝」の採取も「稲」の耕作も、柳田のいう「日本人」にとっては他者の囲いのなかにある生産物だった。だがそれにもかかわらず(それとともに)ふたつとも魂の自己表現にあたっていた。このこそが〈稲の人〉たちをヤポネシア列島の南西の島々に定住させ、耕作地をもとめて島々を北東にむけて移住させはしたが、ふたたび家郷の華南沿海の地へ帰郷させなかった理由だった。
まず、琉球弧の縄文相当期に島々を渡ってきた人々にとって、海を渡るのは「あの世」へ行くことと同じことを意味しただろう。あの世を発生させている段階であれば。南から渡ってきたとすれば、琉球弧のサンゴ礁を見た場合、それより北へ赴く理由は、さらに豊かな生命の源泉(地母神)を持つ地があるに違いないということではなかただろうか。
ここで、「宝貝」と「稲籾」に切断を持ちこんでみる。ぼくたちが関心を惹かれている「ユナ」という言葉を持つ人々は縄文相当期の世界観を持っており、そうであれば「稲籾」の技術は持っていないことになる。
そして「宝貝」も「貨幣」ではなくなる。それ以前の、貝が生命の源泉であり、地母神の位置にあり、トーテムだった。この生命の源泉を介して、琉球弧では、胞衣を「イヤ」と呼ぶ。それは、ユナがメタモルフォースされて生まれた言葉だった。
ユナ(地母神)-イヤ(胞衣) 琉球弧
この地母神としてのユナは、五母音化したヨナとして列島を東北まで北上する。この過程で、胞衣は、イヤよりもユナに近い、イナ、エナと発音されるようになる。
ヨナ(地母神)-イナ(胞衣) 中部・関東・東北
それ以前の過程も興味深い。九州では、琉球弧での呼称はそのまま引き継がれている。ところが、中四国・関西ではヨナ-イヤの関係が逆転する。
ヨナ(地母神)-イヤ(胞衣) 九州
イヤ(地母神)-ヨナ(胞衣) 中四国・関西
中四国、関西での逆転の理由は分からないが、ヨナ-イヤの転訛のしやすさから考えれば不思議ではない。
こうして、地名であり地母神の名でるヨナは、列島を東北まで北上することになった。
ここに稲の技術が列島を北上し多いかぶさる。そこで、ヨナの意味は地母神から稲へと更新される。それは、稲籾自体が胞衣とみなされ、稲がその子とする視線に依っている。しかし、地母神の意味は背後に隠されて見えにくくなってしまう。自然からの恵みは、自然それ自身がもたらすものではなく、人間が作ることによって得られるという意味になるからだ。
あるいは、現在残るヨナ・ヨネ地名は、稲作以降の呼称を含むかもしれない。しかし、地名の古さを考えれば、現在のヨナ地名を母集団に考えてよいはずだ。
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