ふたつの産島(『不知火海と琉球弧』)
天草の産島は、「海岸近くに産島八幡宮が鎮座し、天草の近郷の女性たちから安産の神様として今も尊崇を受けている」。
その八幡宮の由来譚には、神功皇后が半島に出兵した際、産気づきここで出産したことにちなむとされている。
ぼくたちはこれをもともとの島人の信仰に戻さななければならない。それをほぐすのは、産島八幡宮の祭礼だ。
いま、海を渡る祭礼として知られる青島と比較してみる。
青島の場合、青島神社から神は神輿に乗り、対岸で巡幸し、ふたたび青島神社に戻る。単純化していえば、行路はそうなる。この祭礼の特徴は若者によって行われることだ。これはかつて、男子結社による青島というあの世を介した成人儀礼だったと考えられる。
産島の海をわたる祭礼は、複雑になる。
まず、人が産島へ向かい神を迎える(御下り)。そして神を担ぎ、対岸へで過ごし、御上りを行なうが、これは神のみの行為になる。しかしにもかかわらず、人は神を担ぎ、産島へ神を送る。
産島の場合、神の迎えと送る行為を人が担うのだ。これは、縄文期のあの世の段階での生者と死者の交流の記憶を留めたものだと考えられる。そう見なすのがよいのではないだろうか。
不知火海には、もうひとつの産島がある。八代の産島だ。江口司は書いている。
そこは『肥後国誌』に記される「亀島、産島とも云う・八代より二里余・周廻一里余り」とはとても思えない光景を呈している。
江口が「とても思えない」としているのは、いまはこんもり茂った樹木しか見えないので、「周廻一里余り」とは思えないことを指しているのだろう。ここはウガヤフキアエズノミコト誕生の伝承が残されている。
江口はこう書いている。
あえて乱暴な私の考えを言えば、その海亀の子孫が不知火人であり、海亀をトーテムとして『肥後国誌』の云う「亀島・産島」と呼び、語り継いできたとも思えるのである。
この推理は当たっていると思える。もうひとつ加えれば、ここはあの世の島でもあったのだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント