「歌の発生」(吉本隆明) 2
吉本は和語の本性に近づくために、として「和語のいいまわしを純粋に保存しているわが南島の歌謡」を参照している。
南七ヌ島カラ パイナーラの島から
水本ヌ島カラ 水本の島から
石雨戸ユ 石の戸を
ハネアケ はね開け
金雨戸ユ 鉄の戸を
キリアケ 切りあけ
黒ミヤガリ 黒き雲
給ボウラレ 給われ
白ミヤガリ 白き雲
給ボウラレ 給われ
海ナラシ 海鳴らし
給ボウラレ 給われ
山ナラシ 山鳴らし
給ボウラレ 給われ
バガ島ヌ 和が島の
上ナカ すべて
親島ヌ 親島の
チイジガナカ 頭のうえ
(『八重山古謡』)
そして、書いている。
ここでの助詞のつかい方、切りつめ方は詩的な省略の限度をこえている。これは構文の本性に根ざしているように推定される。たぶん和語は基層のところでは、名詞と名詞の重ねとおなじように主語と述意の言葉があれば、助詞が存在しなくても文脈にのっとって適切な意味をたどれるものであった。そのためには主語の接尾形にある異いがあった。そういう時間を想像することができるかもしれない。
助詞がなくても、というところは琉球語の語感からしてもそう言いうる気がする。ただ、違いと言っている「主語の接尾形」については分からない。
ただ、神話的な読み解きでは言えることがある。
灌漑水は、東南アジアから南中国のどこかにある想像上のパイナーラの島に水元があり、天にかかった石の戸をあけ鉄の戸をあけると雨が天から降ってくると、八重山の村落人たちは信仰していた。
パイナーラは遠隔化された他界を示してゐる。パイナーラは「南のナーラ」だが、このナーラはニーラスク・カネーラスクのニーラスクと同じだ。つまり、「南」は方角を示すとしても、ナーラは他界を表している。
そこでこの歌謡に見られる思考を巻き戻せば、ナーラはサンゴ礁の向こうのことであり、「石の戸、鉄の戸」は貝としてのサンゴ礁を指している。そこに、「水の元」、言い換えれば、シジの元、霊力の元があった。そういう意味になる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント