「歌の発生」(吉本隆明) 1
吉本隆明の「歌の発生」の書き出しは唸らされてしまう。
神話の物語や歌謡には、物語ること歌うことが、実際の行為と区別できなかった時代が埋もれている。
もちろんぼくたちは、「物語ること歌うことが、実際の行為と区別できなかった時代」を、実際の行為と同じであった時代と言い換えることができる。
吉本は記紀の他界についてこう書いている。
〈死〉を媒介にしてゆける〈地下〉の概念は、これに対して南方大陸系のものとみなされる。また、〈海の底〉と〈海の彼方〉という概念は、南島の神話のものとみなすことができよう。
これを普遍性に引き寄せれば、どちらも南島系のものと見なすことができる。さらに普遍化すれば、地域発のものと見なす必要のないことだ。ただ、〈天〉は南島では内発的には発生しなかったと言える。
記紀の「緊迫した律文」は、「自然を神とみた時代の人々の発語ではないのか」として、吉本は書いている。
そこでは歌謡と地の文とは地続きではなかったのか。もちろん、それよりももっと以前に、わたしたちが現在、推し測ることができない歌と散文の時代があったかもしれない。真の歌の生誕期は、そこにおくべきかもしれない。だが、少なくとも『記』、『紀』、『風土記』などの歌謡と地の文をもとにするかぎり、このふたつが地続きであった時期を、歌の発生の時とみなすほかない。
『記』、『紀』、『風土記』を元にするわけにはいかない琉球弧ではどう言えるだろうか。言語自体がメタモルフォースする。それに従って名称もメタモルフォースをする。この言語思想そのものは、歌の発生とは言えないだろう。歌には、呼応する対象が必要であるとすれば、他界の発生の段階で歌も発生したと考えることはできる。この場合も、「真の歌の生誕期」かは分からないにしても。
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