「万葉集に蝶はないが、鳥の歌はたくさん現われる」理由(今井彰)
『蝶の民俗学』で今井彰は書いている。
鳥は鶏が家畜として身近な存在であったことから、次第に霊性を失っていったことに対して、蝶はその変態の故に、いっそう不思議なものとして存続し、古代人は鳥よりも強く長く霊性を意識したのではなかろうか。このように解釈しなければ、万葉集に蝶はないが、鳥の歌はたくさん現われることが理解できない。
琉球弧を参照すると、「蝶」はかつてトーテムである段階を持った。しかし、「蝶」はトーテムから離脱して死者の化身のみの意味を残す。ぼくたちの考えでは、それは母系社会の成立とともに、である。しかも、それはトーテミズムの思考が生きているときのことだった。
なぜ、トーテミズムは生きているのに、「蝶」はそこから離脱することになったのか。それは、「蝶」トーテムが兄妹婚の段階と同期していたからだ。それゆえ、これから生まれる未生の霊としての意味は忌避されるようになり、死者の化身の意味のみを残した。
鳥は、ぼくたちの考えでは他界の遠隔化にかかわる。琉球弧では、「鳥」は「蛇」の変換形だ。「鳥」にはインセスト・タブーにまつわる忌避感は生じない。そして、「蝶」よりも残存しやすくなる。琉球弧のことをそのまま当てはめるわけにはいかないだろうが、当たりをつけると、それが「万葉集に蝶はないが、鳥の歌はたくさん現われる」理由になる。
折口信夫は、「沖縄採訪記」で「蝶」は「神の使ひ」と言われているのを書き留めている。
蝶(ハベル)は神の使ひである。その他の昆虫にもいふ様だ。鴉(ガラシ)も、神のぶなぢ(女使ひ)である。
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