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2017/06/10

「性と「人間」という論理の彼岸」(小馬徹)

 小馬はトーテミズムについて、書いている。

 トーテミズムという思考は、原体系としての動(植)物の全体的な相互関係をまず想定して、それに重ね合わせて人間集団の関係全体を分類し、両体系が照応しつつ統合されている全体として世界を理解しようとするものである。だから、動(植)物は人間の始祖であり、一方では同氏族員や結婚相手でもあり得ることになる。トーテミズムとはまさに、人間観にこうしたほとんど際限のない自由さを与える思考法なのである。

 ふつう、人間と動植物との結婚は、過去になればなるほどあり得たと思えるかもしれない。しかし果してそうだろうか。それがなくても、人間と自然は交感、交流しあっていた。その力が弱くなって、「結婚」という媒介は必要になってきたのではないだろうか。むしろ、人間と動植物との結婚は、交感、交流の力が弱まったことの現れなのではないか。

 そして、こうなるためには、人間と自然の関係が、「食べる-食べられる」から、「養う―養われる」ものとして、性が主題に上がってこなければならないと思える。

 トーテミズムの分節水準では、

動物と人間の結婚も論理的に可能になる。こうして日本を初め、世界各地で無数の異類婚姻譚が育まれてきた。

 小馬の言い方をならっても、トーテミズムが生まれたものであるように、異類婚姻譚も発生した段階があることを追認できる気がする。


 ところで、 「インセストとしての婚姻」で、インセスト・タブーと「時間」の関わりについて書いた出口顯は、こう注釈している。

 インセストという交換の命令により、近親者が他の集団へ配偶者として与えられてから、一方よその集団から自らの集団に配偶者が婚入するまで、当然ながら時間的隔たりがあることを考えれば、インセスト・タブーが時間の生成をもたらすものであることはたやすく理解できるだろう。

 ぼくたちはもっと根源的に、「死の発見」による衝撃と世代の発生が、親子婚の禁止に関わっていると考えているから、時間こそがインセスト・タブーに深く関与していると言うことになる。そして禁止は、時間観念を進展させていくのだ。

 

『近親性交とそのタブー―文化人類学と自然人類学のあらたな地平』

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