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2017/06/13

『民俗学の愉楽―神と人間と自然の交渉の学、谷川民俗学の真髄』

 FOR BEGINNERSと銘打っているものの、中身は民俗学の入口に導ているのではなく、この時点での谷川健一の問題意識のフロントラインを開陳していて本格的だ。ただ、入門者にこそ本格的なものを投げかけなくなるのは分かる。

 いくつか対話を試みておきたい。

 まず、「うぶ神とうぶすなの神」。うまれたばかりの子供を守るのは、「うぶ神」。

 赤ん坊が一人で寝ているとき、にこっと笑う、あるいはむにゃむにゃとしゃべっていることがある。土佐ではそのような情景を、うぶ神があやしているという。

 「うぶ神」は「一人ひとりの守護神としての役割を果たし、その子の魂の守り神である。この場合は、土地に結びついた神ではない」。

 これに対して、「うぶすなの神」は「産屋の砂を神格化したものである」、うぶすなは、「産土、生土、本居という字があてられてきたが、これは産屋の砂が人間出生の原点であることを示しているとみてよい」。

 ぼくたちの理解では、「うぶ神」も「うぶすな神」も、「胞衣」にかかわってる。赤ん坊をあやしている「うぶ神」は、もう一人の赤ん坊である胞衣が神格化されたものだ。これに対して「うぶすな神」は、海(サンゴ礁)という胞衣が「砂」を通じて神格化されたものだ。だから、象徴的な思考のなかでは両者は、似ているものとして同じと見なされている。

 「砂」は、胞衣それ自他を象徴するというよりは、胞衣から生まれし者を含意する。だから、「うぶ神」が、子供と胞衣であるのに対して、「うぶすな神」は、子供と海(サンゴ礁)の子という微妙な位相差がここにはあることになる。

 続いて「山の神」。

 山の神を女性とみる向きもある。後世ではずいぶんと人間臭くなり、嫉妬深い女性と見立てられている、しかし、時間をさかのぼれば、山の神はもともとは狼や熊だったのである。

 人間と自然との関係が性を捉えるようになると、山(森)の産出力を介して、山には女性性が与えられるようになる。谷川が言う通り、その前から狼や熊は相応の存在だった。ここで、「山の神」という表現を補っておけば、狼や熊は、山の主ともいうべき精霊的な存在だということになる。

 折口信夫を援用したマレビトについてはこうだ。琉球弧のアカマタ・クロマタ、マユンガナシや秋田のナマハゲは完全なマレビトで、「他界身」と「人界身」を持つ。不完全なマレビトは、「人間の姿」になることはない。例としては「白鳥やイルカ、ジュゴン」などがある。

 これはどう解きほぐせばいいだろうか。対象に自分の他界の姿を見るという意味では、「完全なマレビト」も「不完全なマレビト」も本質的な変わりはない。ただ、「完全なマレビト」の場合は、人間の元の要素として複雑な姿を採ることができる。たとえば、アカマタ・クロマタは少なくとも蛇と植物をまとっている。一方、「不完全なマレビト」は、ジュゴンならジュゴンは他界のひとつの姿を採るにすぎない。「完全」と「不完全」は、そういう違いではないだろうか。

 谷川は、自身を柳田や折口の「忠実な弟子」として、「古代日本人の世界観や死生観を解明しようとしてきた」として、民俗学を「タマシイの科学」と位置づけている。

さまざまな手がかりを求め、そこから後代に付与された属性をはぎとっていくと、日本という国の枠を超えた、普遍的な人間のありのままの姿が現れる。

 ぼくはとても弟子と言える筋合いではないが、ここにいう「普遍的な人間のありのままの姿」を志向するということについては、引き継げると思う者だ。

 

『民俗学の愉楽―神と人間と自然の交渉の学、谷川民俗学の真髄 (FOR BEGINNERSシリーズ)』

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