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2017/06/21

『日本人は死んだらどこへ行くのか』(鎌田東二)

 著者は「この世」と「あの世」の関係をこう書いている。

(前略)「あの世」と「この世」はけっして隔絶していません。ある種の入れ子構造のようになっていて、相互作用を起こしています。二つあるけれど、二極化はしていない。あの世はこの世の中に入り込んでいて、この世もあの世も一体となって往来しているのです。

 これは難しい。言い換えれば、これをほぐすことができれば、この本を読んだということになるのだと思う。

 ヒントになるのは、「久高オデッセイ」の大重監督の言葉だ。鎌田によれば、大重は東の海の向こうにニライカナイがあると言われているが、「この島こそがニライカナイではないかと思えてくる」と語る。これを受けて鎌田は、

 いま、ここにいる久高島こそがニライカナイで、いわば死生一如である。「死」と「生」という二元論ではなく、死後の世界は久高島の中にある。そんな融合的な命の世界を、大重監督は最期に語って亡くなりました。

 (「あの世」へ行くといった-引用者)ベクトルではない。「あの世」とは、そうした「彼方」にあるものではなく、「いま、ここ」にあるものである-。

 さらに続いて、「「あの世」と「この世」とを二元論的に考えず、むしろ一元論的に考えてきた日本人の伝統的な感性」と続けているので、大重監督の言葉は鎌田にとっても橋頭保になっていると思える。

 大重の言葉は、野生の思考の他界観に照らせばふたつの層に分けて考えることができる。ニライカナイが海の彼方ではなく、久高島こそ、と言うのは、

 ・沖縄島の南部東海岸の島人にとって久高島がニラカナイであった段階
 ・久高島の島人にとって、久高島がこの世でもあればあの世でもあった段階

 というふたつの段階で捉えられるものだ。時間の層は、後者から前者へ推移する。大重の言葉はこのふたつが混交したものと見なせば理解しやすい。大重の言葉は理解しやすいが、鎌田の言い方を難しく感じるのは、ぼくが大重の言葉を野生の思考が露呈したものだとみなすのに対して、鎌田が大重の言葉を、現在的なものとして、そのまま受け取っていることに依ると思える。

 久高島にいる人を想定すれば、久高島こそがニライカナイと言う場合、いまの人の頭で「この世」は久高島だけではなく、少なくとも地球大には拡大するのだから、大きな「この世」のなかに久高島という小さな「あの世」が含まれることになる。これが「入れ子」という構造を導く端緒になっている。

 けれど、ことは単純で、単に、「この世」と「あの世」は同在している、あるいは「あの世」は身近だったと言えば済む。だから、一元論的は、伝統的な感性にとって部分的なのだ。「二つあるけれど、二極化はしていない」のではなく、一極の層と二極の層はこころの層としてふたつともあるのだ。

 冒頭に引いた言葉の前には、キリスト教では「この世」と「あの世」が隔絶した世界であることを指摘して書かれている。日本ではそうではない、というわけだ。だが、これは二極化という点では両者は同じだが、「この世」と「あの世」の非対称性が際立っていない、というべきではないだろうか。

 鎌田は「命の故郷である自然があってはじめて人間の営みがあり、人間はまた自然の中に帰っていく」、そのような世界観を発信する「聖地や霊場が求められているのではないでしょうか」と書いている。宇宙大に視野を拡大して、「グーグル存在」ともいうべきものに「アクセスできれば」、「本当の故郷が何かがわかるでしょう」、と。

 「聖地や霊場」は簡単にできるものではないだろう。むしろ、連綿とした「聖地や霊場」を媒介、手がかりにしながら、古層の関係の場を未来に向けて構想することのなかで「本当の故郷」といったものへの接近は試みることができるのではないだろうか。このぼくの言い方も分かりやすくないが、ここまで。
 

『日本人は死んだらどこへ行くのか』

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