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2017/04/19

「自然の構築」(フィリップ・デスコラ)

 咀嚼しきれないのだが、なんとなくヨーロッパ人は大変だなと思う。デスコラは相対主義は採りたくない。「自らの自然の定義を他のすべての文化をはかる暗黙の物差しとする唯一の文化であるという特権的な立場から逃れる道は絶たれる」からだ。

 デスコラは、「非人間の社会的な客体化を組織する精神モデルを、文化を跨いで存在する有限の組み合わせとして扱うことができる」と信じる。

 デスコラにそれはどのように捉えられているのか。

 自他を区別する様式には、「トーテミズム的なシステム」と「アニミズム的なシステム」がある。

トーテミズム的な分類が、自然種の間にある経験的に観察可能な非連続性を用いて、社会的単位の境界を定める分類秩序を概念的に組織するのに対して、アニミズムは自然の存在物に人間的な性向と社会的な属性を授ける。アニミズム的なシステムはそのためトーテミズム的な分類の対称的な反転なのである。

 だから、非人間は、「トーテミズム的なシステム」では「記号」として扱われ、「アニミズム的なシステム」では「関係の項」として扱われる。

 アニミズムでは、「ナチュラリズムが隠喩的にしかつくりだせないような人間と非人間の連続性を、儀礼によって生みだされる象徴的なメタモルフォーゼにおいて概念化する」。

 これをサンゴ礁の思考に引き寄せて言い直してみると、人間と非人間の連続性は、儀礼だけではなく習慣的な行動のなかで思考されるメタモルフォーゼにおいて身体化される。それは、現代人には隠喩的にしかつくれないものである。

 関係の様式には、「互酬性」、「捕食」、「保護」がある。

 互酬性において、

内的な交換は、エネルギーの一部が非人間に返礼されるように組織されなければならない。他にも様々な方法があるが、「動物たちの主」への人間の魂の返還と、その帰結として起こる被狩猟動物への転身によって、エネルギーのフィードバックは確実に行われるものになっている。人間と非人間は一方が他方の代わりとなるものであり、両者は共に、互酬的交換によって、宇宙の一般的均衡に貢献している。

 これはサンゴ礁の思考にも見られる。人間は貝を食べるけれど、死では人間は貝に食べられる。そう言ってもいい。
 
 捕食では、人間は栽培植物と血族的な、森の動物たちとは姻族的な紐帯でつながっている。しかし非人間は、人間との交換のネットワークに入っておらず、非人間は、植物の場合、女性や子供の血を吸うことで、被狩猟動物は、過剰な狩猟者たちを蛇が咬むことを、「動物たちの主」に委託することで報復しようとする。

 この互酬的な捕食は、人間同士の関係も統制する。ここで挙げられているのは、首狩りと不断の争いだ。ぼくはこのところは、霊力思考に霊魂思考が混融したときに起きる一態様として理解してきた。

 保護は相互に利益をもたらすだけでなく、しばしば非対称的な関係の反復によって異なる存在論的なレベルを繋ぐ、増幅する依存の連鎖である。
カミは、時にローカルな経済で特に重要な動植物の化身となり、人間が利用し保護する非人間の究極的提供者として-時には直接の生みの親として-捉えられているだけではなく、人間の始祖や守護者として捉えられている。

 つづいてカテゴリーの様式。

 動植物の民俗分類は、多くの場合に類似性の原理、つまり隠喩的な図式に従って組織されるが、命名の意味論的な側面では、亜属の分類群のレベルでは、名づけを決定するのはしばしば換喩的な図式だ。

 これもサンゴ礁の思考に引き寄せてみると、サンゴ礁と胞衣の命名は隠喩的だが、サンゴ礁内の自然物の命名は換喩的だ。ただ、どちらもメタモルフォーゼを基底において、同じものの別の形という同一性を保持している。

 トーテムである非人間との関係は、互酬でも捕食でもない。

トーテム種は社会の分節の単なるシニフィエである以上、人間との互酬的な関係に参入することができないからである。

 しかし、オーストラリア外では、「純粋なトーテミズムのシステムは例外的」であり、アニミズム的なシステムと組み合わさっていて、それによって互酬的な関係を表すことが可能になっている。

 この文脈に添えば、琉球弧も「トーテミズム的なシステム」と「アニミズム的なシステム」の組み合わせだと言える。

 こうした理解が人類学に一般的なら、サンゴ礁の思考は、「トーテム」という言葉を使いこそすれ、「トーテミズム」とは言えないことになる。しかし、トーテミズムを「記号」として扱うのは、「人間の性向や行動の原因が植物や動物に由来する」という「人類学の最も古い難題」を、難題にし続けるのに寄与してしまうのではないだろうか。

 むしろ、オーストラリアのトーテミズムを、トーテミズムのアニミズムとの組み合せによる一態様として位置づけるのがいいのではないだろうか。これは、レヴィ・ストロースの後遺症のようにも見える。

 デスコラは「多次元的人類学」の地平を念頭に置いている。

そこでは、石斧やクォーク、栽培植物やゲノムマップ、狩猟儀礼や石油産業を、人間だけでなく非人間をも含みこむ諸関係の単一セット内の多様なヴァリエーションとして理解することが可能になるだろう。

 ここは共感すると言っていいのかもしれない。ぼくに見えているのは、それを可能にするのは、比喩の力であり、その基底にはメタモルフォーゼがあるということになる。そこまでの射程を持つかは分からないけれど。デスコラの「自然の構築」に対置させれば、「自然の編集」になるだろうか。 
 


『現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集=人類学の時代』

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