琉球刺青、各島の類縁
この縮尺じゃ、見にくいだろうけど、ある程度、島の位置との関連を持たせながら、刺青デザインを分布させてみた。
このデザイン分布は、ある確からしさで歴史の反映を見ることができる。沖永良部島と与論島の類縁は、北山勢力圏にあった15世紀的と言えるかもしれない。また、沖縄島と石垣、与那国島の類縁は琉球王朝支配以降の16世紀的なものを感じさせる。同様に、宮古島は、自ら服属を図ることで八重山に見られる影響を被っていないのは、刺青についても言えることになる。そういう意味では15世紀以前的だ。
しかし、目を見張るのは、「ウマレバン」と「後生の門」でつながる宮古島と与論島の類縁で、こういう歴史時代に入ってからの反映をみるだけでは経緯を読み取ることはできない例を示している。それはなんといっても、多良間島と沖永良部島が、線と面の区分を超えて類縁を感じさせることに象徴的だ。
伊波普猷は、『李朝実録』の朝鮮人漂流の記録に刺青の記述がないことから、15世紀以降の刺青発生の可能性について言及している。宮古-与論、多良間-沖永良部の類縁は、それでは説明がつかないことも示している。
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