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2017/04/09

「胞衣笑いの深層-霊魂の交通」(飯島吉晴)3

 ぼくはまだ、笹森儀助の「昔は沖縄の妊婦は、出産の時には必ず胞衣を喰い、火で温めて汗を出した」(『南島探検』)という記述を見つけられていない(参照:「胞衣笑いの深層」(飯島吉晴))。

 しかし中国の歴史書にも日本の文書にも「胞衣を食らう」記述は出てくる。これは、台湾タイヤル族の「死の起源」に言う「糞まみれ」の別表現ではないだろうか。(参照:「脱皮と糞まみれ」

 本土の雪隠参りでも赤子に糞を食べさせる真似をする(参照:「「雪隠参りと橋参り」(小野重朗)」)。これは、脱皮の仕草なのだ。

 赤ちゃんは、母親の身体から脱皮した新しい身体である。脱皮した抜け殻はふつう抜け殻に留まる。しかし人間の場合、抜け殻に相当する母親の身体が脱皮を自分のものにするためには、「食べる-食べられる」が人間と自然の関係であった段階では、母親が赤ちゃんに食べられるか、母親が赤ちゃんを食べるかして、脱皮を自分のものにしなければならない。

 この段階では、子供と糞は産むことにおいて等価と見なされる。それが、タイヤル族の神話で、「糞まみれ」になることが不死の条件である意味だ。

 ところで、赤ちゃんの場合、赤ちゃんに食べられるわけにも、食べるわけにもいかない。そこで、もうひとりの赤ちゃんである胞衣を食べた。だから、胞衣を食べるということは脱皮の表現なのだ。

 飯島は書いていた。

沖縄ではなぜ産婦が胞衣をたべたのか、はっきりとした理由はわからない。葬式で、長寿の死者を儀礼的に食う風習と関係があるのかもしれない。

 この視点からみれば、この段階での食人も死者の脱皮の表現だったことになる。

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コメント

誕生と脱皮はまったく別の現象でしょう。誕生は新たな個体ができることであり、脱皮はその新たに生まれた個体が成長する過程で起きるものであり、それを同じプロセスとして同軸上で捉えることはできないと思います。

投稿: 与那嶺 | 2017/04/10 12:27

与那嶺さま

ご指摘ありがとうございます。誕生は未生の霊の脱皮による出現であるように見える民俗事例から、こう捉えてきましたが、改めて考えてみます。

投稿: 喜山 | 2017/04/11 09:02

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