琉球語の音韻グラフ
試行の域を出ないけれど、「濁音の同一と等価」を更新してみる。これは、もともと吉本隆明の「表音転位論」や「起源論」で行っていた訛音と必然的な転位の区別のモチーフを引き継いだものだ。
ここで吉本が「濁音等価」のなかに挙げなかったのは、「タ行-ラ行」と「マ行-ナ行」になる。前者は、柳田國男も通音を指摘していたものだが、与論語でも頻繁に聞かれる。後者は、「ミルヤカナヤ」と「ニライカナイ」の例から、そう見なした。というより、こう見なすとひとつながりになるのに背中を押されて線を結んだと言ったほうがいい。
「清音転訛」で結んだ点線は、他にももっと引ける。しかしそれらを全部、引くことはしないで他の音に行くための最小限の線でとどめようとしている。
こう線で結ぶと結局、ある音にはどの音からも到達できて、任意の海に解体してしまうように見えるが、実際には、ある語は、線で結ばれた両隣りの音か、二音先に限定される例にしか出会っていないので、余分な線は描く必要はないことになる。
しかし、濁音等価ですべての音を結ぼうとしているわけだから、ここで「清音転訛」と呼ぶものは本当は無意味かもしれない。不思議なのは、清音転訛で結んだ両音は、少なくとも、「タ行-カ行」、「ハ行-カ行」に象徴させると、もっとも知られた転訛の例であることだ。濁音等価のラインからは越境してショートカットされたものが「清音転訛」ということになる。けれどそれは何を意味するのだろうか。ほんとうは濁音等価しかないということだろうか。
もともと吉本は、通音に転訛を濁音等価に必然的な転移を見出そうとしていた。ここではその問題意識はいったん解いている。まだ手に余るからだ。吉本は途中、「ほんとうは、わたしたちはここで表音の空間的な転移(方言のナマリ)と時間的な転移(音韻の歴史的な変化)とは等価だということにぶつかっているのではないか?」と書いていた。ここで試みているのもそういうことかもしれない。
必然的な転移があるとすれば、上記の等価線に沿った例のうち、転移のベクトルが分かるものたちが一方向を持つ場合のみ、それは必然的だということになる。そしてキシノウエトカゲはカタカスに化身してもその逆はないように、それはあり得ると仮定することはできそうに思える。(参照:「「井戸ヌパタヌ子蛙誦言」の化身の法則」)
ともかく、この図はすべては濁音等価と言っているようでもあるが、ある語が別の行の音に転移するのは2音の選択肢しかないことを踏まえると、清音転訛の系列はまったく別のものだということになる。
ここで清音転訛と濁音等価のちがいを言ってみれば、ユウナの花が日中の黄色から夕方にはオレンジ色になるのが可視的であるのに対して、その花びらが海に散ると美しい熱帯魚になるのは幻視であることに似ているのかもしれない。
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