通り雨と一緒に歩いた沖縄島
近所のコンビニに行くような恰好で出かけて、空港に着いたらその足で当たり前みたいに県立図書館へ。国会図書館に無い書籍は、ここに頼る。お目当ての御嶽の空間構造を研究した書も見つかり、ゆっくり複写。この日はそれだけで任務完了。夜は、イラブチャーを食べたかった。食べ慣れているけれど、蛇の精霊に由来を持つ魚と思って食べたことはなかったので、そうしたかった。酢に浸したいなと思いつつ、島人が何千年も好んできた魚の主に敬意を払う。
翌朝はまず、那覇からバスで北上して木綿原遺跡へ。途中、「勢理客」というバス停がある。「ジッチャク」と読む。これは与論では、「立長(リッチョウ)」に変わっている。「立長」の古名は「勢理客」と知らなければ同じ地名だとはとても思えないが、Z音はR音に変わりうるのを確められる。
大湾で降りて海岸へ向かい、ひたすら歩く。ススキの原が見え始め、土や牛小屋の匂いがして潮風が感じられてくると、やっと島に帰った気になってくる。
木綿原遺跡に何もないのは分かっているけれど、頭部にシャコ貝を載せた遺骨が見つかった重要な場所だ。その遺体の霊が送られたのは、木綿原沖の干瀬に見た他界だと当たりをつけているので、それを体感したかった。
潮は引いてないので、干瀬は見えない。けれど与論とも変わりないユナの浜でひと息。死者はあの世へ行くといっても、すぐそこだったのだ。
遺跡横のカフェのコーヒーを当てにしていたが、今日は休みです月曜ですから、とあっさり断られる。ドルドルドン、ドルドルドン、日本復帰やドルドルドン。これからあたなも私も冷たい人になっていくのさ♪
それならバスを一便を早めようと歩きはじめるが、間に合いそうにない。で、道端のお弁当屋さんでお茶。味噌とポークのおにぎりでちょっと腹ごしらえしてバス停へ。お店の名前、メモしておくんだった。
このころまでは陽射しもあって汗ばむくらいだったのに、通り雨がやってきた。濡れるのはお構いなしだが、急に気温も下がってきた。やばいと思い、仮停留所と書かれた立て看板の横にしゃがんで避けようとするも効果はない。バスに乗り込むと、猫の身震いみたいに雨を落として、身体をさすって体温が落ちないようにがんばってみる。
大謝名に着くころには通り雨を追い越して小雨程度にはなっていた。ふたたび歩く。こんどは安座原第一遺跡へ。ずっと住宅街。たしかめていたポイントについても、ここが遺跡場所とは確かめられなかった。石碑も見つけられない。もう海岸も埋め立てが進んでいて、かつては海辺近くだった気配も感じられない。
ここからは、頭部をシャコ貝ですっぽり包んだ遺骨が見つかっている。シャコ貝であるサンゴ礁へ送った場所だ。おまけに、発掘されているなかでは最もナチュラルな姿形の蝶形骨器も出土している。とても大事な場所だ。
そこからまた大謝名を目指すが、雨脚がまた強くなってきたので、宜野湾のベイサイド情報センターのカフェへ駆け込む。スマホしか持参してなかったので電源ありの場所を調べておいて助かった。ここはPCも借りられるし、いいい場所だった。また来たい。
次は、琉球大学の附属図書館なのだが、雨はまだ続いている。バスを駆使してひたすら歩こうと思い決めていただけに、本意ではなかったが、やむなくタクシーを使って大学へ。大きなキャンパスと見通しのよい施設空間で驚いた。恵まれたところだ。とても恵まれているのを、この子たちは気づくことはあるだろうかと思ったり。
お目当てのアール・ブールのハジチ写真も見ることができた。ネットでも見ることはできるけど、本物ではないから。もっとも本物のガラス板は、学外の方にはちょっとと断られたのだが、写真を大判で見ることができたし、複写もできた。
「戦後資料に見る奄美群島の風景」という展示もやっていて、偶然に感謝。米軍統治が始まったばかりの名瀬が、貧民街さながらで、奄美のなかでの特異な佇まいを改めてみるようだった。
図書館の門も階段も似たデザインが施されている。結局、海に背を向けて暮らしていても、島人はそこここにサンゴ礁をつくろうとするのではないだろうか。
まだ一月、気温も下がるし雨は振り続けるしで困ったが、屋根付きのバス停に助けられて、牧志へ。流求茶館での待ち合わせに間に合う。仲程さん、松島さんと打ち合わせ。与論ゆかりのウチナーンチュにして点描画家の大城清太さんとは初顔合わせ。サンゴ礁の神話空間と、与論出身の、清太さんのお祖母さんが孫に語った話があまりに符合するのに盛り上がった。与論にそんな知識を持つ人がいたのを不思議に思う。
夜は雑誌モモトの新年会に混ぜてもらう。ありがたし。
翌朝は、県立博物館へ。9時に入館するも、お目当ての地図展は開館していない。さすが島と思いかけたが、日にちを一日間違っていたのに気づく。うっかりさんはぼくでした。がっかりしかけたが、常設展が素晴らしかった(名前、つければいいのに)。
名前だけはよく見る曽畑式土器や市来式土器。口縁部のデザインに意味を感じさせる荻堂式土器など間近に見ることができた。そして何といっても蝶形骨器を一覧することができたのは望外だった。撮影禁止だったので、お見せできないのが残念だが、食い入るように見ると、胴部だけではなく、下翅の下部にも孔が穿たれているのを確認できる。紐状の飾りを通したのだ。レプリカが、赤に塗ってあるのもよかった。室川遺跡のものだ。濃い赤にしてあった。
大島のイモガイ集積、宮古島の貝斧、ゴホウラの貝輪、わくわくである。古我地原遺跡、座喜味城、下田原遺跡、知念グスクなどが張りぼてで造られているのもよかった。こうしてミニチュアにしてみると、人為的に作られた城(グスク)が陸上のサンゴ礁であることがよくわかる。
民具のコーナーの復元家屋では、竈のあるトーグラを思い出して泣きそうになる。背中の方で、先生がサバニに顔を向けさせながら、「これが沖縄の海ですよ、しっかり見てくださいね」と小学生に説明している。「沖縄の海、行きますか?」とも聞いている。「行かなーい」と答える子供たち。本土の修学旅行なのかな思いきや、「そうなんだよね、沖縄の子はこんなに近くにあるのに海に行かないんだよねえ」と先生。島人? そんなことになっているのか。それはいけない。海に行きましょうね、ワラビンチャー、と心でつぶやいた。
琉球王朝以降の展示物が多く人もそこに集まるのは仕方がないにしても、先史時代の展示物も結構、充実していて、ありがたかった。そこに精神史も書き込めるようになるともっといいと思う。
モモトの新年会では、仕事で独自の表現をしていくにはというマーケティングっぽい問いに出会った。お返事をまだしてないのだが、それはメタファー力ではないかと思う。
女は貝。というのは人類的な広がりのある比喩として知られている。けれど、サンゴ礁の思考からみれば、両者を等価とみなし、同じものの別の形というまで重ねてみていたことまで分かる。その重ね合わせの視線は、意識的に取り出して使う価値があるのではないだろうか。
メタファー力をもっと島人好みの音に近づければ、「喩(ゆ)力」と言ってもいい。都市はサンゴ礁。たとえばそんなコンセプトを生み出すのは、島人は得意なはずだ。と、その問いかけには答えようと思っている。
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コメント
めんそうれ、うちなーんかい!
与論の「立長」は、もともと沖永良部と同じ「瀬利覚(ジッキョ)」と表記されてたようですね。
この「セリカク/ゼリカコ」の起源は沖永良部だと思いますね。
『続日本紀』に現れる「信覚(シンカク?)」は石垣島との説がありますがどうなんでしょう。僕は沖永良部、与論、伊是名などに勢力を持っていた集団ではないかと疑っています。
「勢理客(ジッチョウ)」は今帰仁村にもあって、概ね国頭語圏のものかもしれません。ちなみに伊是名島では「勢理客(ジッチョ)」に近い発音ですね。
投稿: 琉球松 | 2017/02/08 09:33
琉球松さん
過密スケジュールで、お会いしたいと言う時間もなく。
沖永良部のおもろ名称「せりよさ」は、「セリカク/ゼリカコ」と関係あると思われますか?
投稿: 喜山 | 2017/02/10 06:06
「セリカク」が「セリ」と「カク」に分解できるとすれば「セリヨサ(セリユサ)とも言う」も同じように分解できるかもしれませんね。
「セリ」の語義は想像もつきませんが、「カク」は「カコ(水夫)」との解釈も可能でしょうか。
そうすると、航海術にたけた集団に関わるの地名とも言えそうです。
「ヨサ」と「カコ」が対語になっている神歌は見あたらないので何とも言いないのですが、「良さ」だとすると、たんに沖永良部の高級ノロの神名かもしれません。「セ」は霊力をも表しますしね。
投稿: 琉球松 | 2017/02/11 10:29
琉球松さん
セリはセジ系の言葉かなと想像したりします。
そうか、神女名というのはありえますね。
投稿: 喜山 | 2017/02/12 07:21
ずばり。。。「セリ=セジ」かもしれませんよ。
投稿: 琉球松 | 2017/02/12 21:57
琉球松さん
はい。そうすると、「せりよさ」はセジを寄せるとも見えてくるんですよ。ちょっと安直なんですが。
投稿: 喜山 | 2017/02/13 11:21