『吉本隆明 『言語にとって美とはなにか』の読み方』(宇田亮一)
この本を読んで、『言語にとって美とはなにか』とぼくたちの問題意識の接点は何かを考えることになる。「文字」以降の表現を主に扱っているこの本に対して、ぼくたちは文字以前の思考を対象にしているのだから、接点を見つけること自体がテーマになる。
サンゴ礁の思考を辿ると、「貝は女性器」という思考に出会う。これはふつう暗喩と呼ばれているものだ。しかし、サンゴ礁の夢の時間のなかにあってそれは、メタファーではなく、貝と女性器を等価なものとして見ていたのだ。それを同一視と言っては語弊があるなら、吉本の使ったように同致と言うべきなのかもしれない。
これは順番からいえば、現在、メタファーと呼ばれているものは、この等価と見なす同致から始まってると考えられる。このことがひとつ。
それからサンゴ礁の思考を辿ると、もうひとつ気になることが見えてくる。
ユナ(砂洲)を起点におくと、これを元に、ユウナ(オオハマボウ)、イノー(礁池)、スニ、ウル(サンゴ)、イヤ(胞衣)などの言葉が生み出されたのが見えてくる。あるいはぼくはそう仮説した。
この場合、ユナとユウナ、イノー、スニ、ウルはサンゴ礁内の自然物であり、胞衣は女性器である。サンゴ礁は貝ともみなされているから、貝は胞衣というのは、貝は女性器と同じと見なした視線と同等のものだ。
そして、ユナとユウナ、イノー、スニ、ウルというサンゴ礁内にある自然物は、ひとつの言葉の変態によって生み出されている。ユナが変態することで、ユウナ、イノー、スニ、ウルは生まれていった。これは、ユナからイヤ(胞衣)が生まれたように、ユナとユウナも、ユナーとイノーも等価と見なされたことを示唆している。比喩の言い方をすれば、ユナ(砂洲)はユウナ(オオハマボウ)であり、ユナ(砂洲)はウル(サンゴ)なのだ。
これを現在的に比喩と言わずに言語の発生の場所からみれば、ユウナ(オオハマボウ)はユナ(砂洲)の別の形と見なしたことになる。
こういう言葉の変態(メタモルフォーゼ)による名づけという方法を、ありえたと考えさせるのは、サンゴ礁において、動植物が変態して別の動植物に化身するという思考に、すでに出会ってきているからだ。
キシノウエトカゲはカタカスになり、ヤモリは鮫になる。この変態は、すべてサンゴ礁で起きる。これが妥当だと思えるのは、サンゴ礁は胞衣と見なされているからだ。
ぼくたちはこうしたことを知るに至っている。しかし、それが何を意味するのか、よく分かっていない。
ただ、比喩を使うと、ものごとがよく分かるというとき、その根底には、かつて等価として同致した思考の累積が、比喩によって得られる納得感には流れているのではないかということだ。
宇田は吉本の考えを辿りながら、「喩はリズム(つなぐ、ながれる)の象徴的な表現」と書いている。ぼくたちが見ているものに引き寄せれば、リズムとは変態(メタモルフォーゼ)であり、そこに喩の原型があった、ということになる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント