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2017/02/20

宮古島の霊魂観

 岡本恵昭の助けを借りて宮古島の霊魂観に接近してみたい。

 初源の霊魂はふたつが基本の数だ。ひとつは霊力であり、もうひとつがいわゆる霊魂である。霊力は「呼気」に象徴されるように内臓感覚をもとにしている。霊魂は、「影」に端を発するように目が捉えた知覚から始まり、「人間の内部の人間」(フレイザー)へと霊魂らしさを持つようになる。目の知覚からスタートしているので、人間のなかにいる小さな人間や、蝶への化身など、輪郭を持ちやすいのだと思える。

 このふたつの霊魂が、何の編集も受けずにいけば、やがて霊力としての霊魂は「その人が死ぬと無くなり」、他方の霊魂は「不滅」と言われることになる。

 この基本形を踏まると、宮古島の霊魂はどのように見えることになるのか。

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(岡本恵昭による図解「宮古郷土史研究会」No.28」1979)

 霊魂である「タマス」が、固有の輪郭を持つというより流動的に、つまり霊力的に捉えられているのは、幸地哲の「呪術と霊魂観」によっても捉えられていた。タマスウカビでカンカカリヤーが「同じ年生まれの大きな魂よ、大きな身体について下さい」と唱えることにもそれは表れている。「入る」ではなく「つける」というのは、霊力的な表現なのだ。

 岡本の解説のポイントを列記してみる(「宮古郷土史研究会」No.58」1989)。

・タマシは頭のツツ(ツムジ)から出入りする。
・タマシを動かす原動力は、その人の本有する、生まれスジ(系統)のツヅの神に依る。
・これをフーの主と呼ぶ。
・フーは運気でフーの主は運気を司る守護神と考えてよい。共同体の神々。
・生まれてのちダキマスを受けるころ、生まれ根であるウタキの神と、父方、母方のいずれかの守護神(マウヌカン)をうける。
・タマスの上にあるツヅの神が、人を再生させてくれるものである。

 また別のところでは、「頭上に存在するマウ神と身体(胴の部分)の守護するイキタマス、タマスーと運営を司るフーの主神がある」(「宮古郷土史研究会」No.27」)としている。

 あんまり単純化するのはよくないけれど、岡本の図解をアレンジしてみる。

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 まず、マウ神の「マウ」は、頭上に存在すること、守護神と呼ばれていることからもマブイ由来と考えてよいと思える(mabui>mauui>mau)。

 次に、ツヅの神は、セジ系(sezi-tidi-tudu)の言葉であり、「フー」と「呼気」に通じる言葉であることからも霊力を指している。タマスの動きを左右する運気もフーであり、タマスは霊力的に捉えられていることが、それを包むものによっても示されている。

 マウ神という守護神は、その人固有に、その一生にのみつくものだとも言われている。その意味では、呼称の由来はマブイ(霊魂)だとしても、その命運は霊力的である。

 しかし、この「マウ神」のあり方は、宮古島における再生の断念の歴史を背景に持っているのかもしれない。「マウ神」を、神化したマウ(マブイ、霊魂)と見なすのだ。そう捉えれば、マウ神は、かつではマウ(霊魂)として、死後はあの世へ帰ったあと、ふたたび生誕する運動を担っていたのではないだろうか。それは、マウ神が「御嶽、父方、母方のいずれか」に帰属を持つことからも考えられることだ。この運動性が、マウ(マブイ)という言葉には宿っているのかもしれない。

 宮古島の霊魂観には、霊魂初期のふたつの霊魂が変形されて保存されたと仮説してみる。マウ神は、マウとして霊魂としての霊魂であり、それは再生を担う運動性を持っていた。タマスは霊力としての霊魂を指す。タマスが身体(胴)、つまり内臓に宿ることも、それが霊力であることを示している。

 この霊魂観が豊かなのは、フー(運気)とフーの主という存在によって、霊力はもともと人間という境界を越えて自然とつながりあっていたという記憶を保存していることにあると思う。それが、「ツヅの神が、人を再生させてくれる」という思考を消していない力になっているようみえる。

 >>> 続き 「宮古島の霊魂観 2」

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