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2017/02/28

「日本最古の浦嶼子伝説」(水野祐)

 水野祐によれば、浦島伝説の最古のものは、八世紀に成立したとされる『丹後国風土記逸文』に見られる(『古代社会と浦島伝説』)。

 丹後の筒川の浦の嶼子が、不漁に会うが亀を得る。船のなかに置いて寝ると、婦人(おとめ)になっていた。誰かと問うと神女であると知る。誘われて海中の大きな島に着く。「目にみざりし所、耳に聞かざりし所なり」。神女は「亀ヒメ」で、浦嶼子は、「亀ヒメの夫」と言われる。夫婦の契りを結び三年が経つ。

 嶼子は、ふと「二親を拝みまつらむことを」願う。女娘、「玉匣(たまくしげ)」を渡し、再び会うために決して開けないように、という。嶼子は、眠りから覚めるとたちまち筒川に着く。村を眺めると人と物もうつろって知るものがなかった。尋ねると、三百年が経っている。

 嶼子は約束を忘れて玉匣を開いたので、再び神女と会うこともできなくなった。嶼子は、神女とのあいだで歌の贈答を行なった。

 常世べに 雲たちわたる
 水の江の 浦嶋の子が
 言持ちわたる

 大和辺に 風吹き上げて
 雲放れ 退き居りともよ
 吾を忘らすな

 分かることを備忘しておく。

 ・浦嶼子の伝承では、捕獲した亀が神女に化身する。
 ・誘われて海中の島に行く。
 ・島の描写は華美に彩られているが、特に竜宮を思わせる描写はない。
 ・海中の島にいた期間と帰ってみたら経っていた歳月は三年と三百年と記されている。
 ・玉匣を開いた浦嶼子は、年を取るのではなく、海中の島との回路が経たれる。
 ・ただ、神女とのあいだでは歌のやりとりがなされる。
 ・「常世」という言葉が使われている。

 水野はこの伝説についてコメントしている。

この伝説はわが国の海岸地帯の漁撈民の間に伝承されていた、海部の人びとの伝説であったと解される。

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2017/02/27

蛇と鷲

 アドミラルティ諸島の神話。指を切った女が、血を貝殻に貯めた。血は二つの卵となり、一つから鷲が、一つから蛇が生まれた。鷲は空を飛び、蛇は血を這った。鷲は魚を捉え母に持っていくが、蛇は捉えたものを自分だけで食べて母に何もあげなかった。

 鷲は母に二人で住もうといい、母を木の上に連れていく。それを見つけた蛇が木を登ると、鷲は石斧で蛇の頭を切り落とす。さらに蛇の体を真っ二つにした。その切れ端の一つは海に落ちて魚(あるいは鰻)になり、もうひとつは森に落ちて蛇になった。

 この神話では、天界を象徴する善なる鷲に対し、蛇は地界を象徴するネガティブな存在である。

 アドミラルティ諸島のトーテムは蛇と貝だったと考えられる。この神話は蛇の零落を示している。ニューギニアのモイ族にも似たものがある。

 竜が人々を食べてしまう。一人の妊婦が鷲に助けられる。生まれた子供は竜退治を決心する。鷲は三階建ての家をつくるよう助言。なかに魚や熱湯を置くと、竜が魚のにおいにつられてやってくる。魚を食べようとして焼石と熱湯を飲み込んだ。上で待ち構えていた息子が槍で竜にとどめを刺した。

 竜は死ぬ間際に、四日後に俺は爆発して煙があがる。母と子が見に行くと、竜の身体から、戸棚、皿、貝輪、布など、いろいろな財宝が生まれていた。村の人々は、鷲は自分たちの祖先を助けた鳥だと語り継いでいる。

 蟹が鰻・蛇の天敵となるように、天空界の生き物である鷲が蛇の対立物になるというのは、インド神話をはじめ世界各地に見られる思想である。

 空と大地と地底の精霊の主だった蛇は、三次元的な「天」の概念が生まれると、鷲に退治される。それはトーテミズムの終わりも示している。

 琉球弧で、鷹(サシバ)は、蛇に置き換えられているが、しかし蛇退治の伝承として鷹が出てくる事例にはまだ出会っていない。

 

後藤明 『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

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2017/02/26

神扇の位相

 祝女が手にかざす神扇について、下野敏見は書いている。

 神扇はテロギ(テルコ扇)ともミガキともいわれる。テルコは太陽。ミガキとは扇のホネに磨きをかけた末広がりの意味。神扇はノロ祭りのとき、開いた扇をノロが両手で持っている。扇の表面の日輪は『おもろさうし』にティダ(太陽)と謡われた琉球王を表し、それを守る二匹の鳳凰、それを喜びめでる瑞雲。表面に描かれた世界は琉球王の統治する琉球王国と国王の政治的権力を示す。月と瑞雲の裏面はティダに相対する王妃の世界を表し、牡丹の花が咲き、蝶が飛び交う楽土を描いている。

 本の画像は小さくてよく分からないが、瀬戸内町の文化財紹介の下方に、嘉入のミガキ(神扇)が載っている。

 ここではすでに「太陽」は「王」と結び付けられているが、もともとの意味はそうではなかった。というか、そうではなかった時代のデザインを保存しているように見える。

 鳳凰と瑞雲を蛇に、牡丹の花を貝に置き換えて祖型を辿れば、その意味はどうなるか。

 表 太陽と蛇(女性と男性)
 裏 月と貝(男性と女性)

 となって、をなり神の世界、言い換えれば、宗教をつかさどる祝女と政治に任じる兄弟の世界を表したものとして見えてくる。 

 

『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』

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2017/02/25

牛と他界

 来間島の島建てには、牛が出てくる。

来間豊年祭を毎年やっていたが、止めたとこと、オガビシという干瀬のある東の埼から恐ろしげな大きな赤牛の牝牛が飛ぶようにやってきて、来間の人間をば、全部ひっかけて、ナガピシへ連れて行って一人もいなくなってしまったということであった。

 牛は他界からやってきた動物として認識されている。この牛が、牝で赤というところには、女色の記憶が継承されている。また、干瀬が他界の入り口であることも分かる。この伝承では、赤は既に死と関連づけられているが、他界は遠隔化されていない。

 奄美大島蘇刈の伝承でも、牛は人を他界へ導いていた。

 

『奄美説話の研究』

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2017/02/24

「貝-太陽-女性」と「蛇-月-男性」

 いまのところの仮説だが、サンゴ礁期の象徴のトライアングルを図示しておく。

Photo

 図の意味は、「貝-太陽-女性」と「蛇-月-男性」ということ。ただ、貝は月も生み、もうひとつの太陽ともみなされている。「貝-太陽-女性」ははっきりしているが、「蛇ー月-男性」については、アカナーという蛇と貝の童子が月に住むという伝承や、死の起源ではアカリヤザガマが月に置かれることになるが、彼も男性であることから推理したものだ。

 このふたつのトライアングルは、「貝」の出現によってもたらされた。

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2017/02/23

「沖縄における原始漁法」(西村朝日太郎)

 「沖縄における原始漁法」(西村朝日太郎、『文化人類学』1967)から。

 大神島では、鮑(あわび)は手で捕らえる。宮古島の久松では、

蟹の踏み捕えが女によって行なわれるが、男がこれを行なうと笑われる。干潮の時に蟹は砂中に潜るから女は乳辺りの深さまで水中に入り、足の裏の感触によって蟹の所在を確め、他方の足の拇趾と中趾との間に蟹を挟んでつまみ上げる。

 なるほど。ぼくはこの「足の拇趾と中趾との間に」ものを挟むのが得意だが、それはきっと島人の遺伝子なのだな。思うに、これは蟹をトーテムとしたときに流行った技術なのではないだろうか。

 喜界島では「蛸穴には私所有権が設定せられ母系を通じて相続されるという」。

 水中眼鏡の前は「油」を使っていた。海面の油越しに魚を見るということだ。油の使用はオセアニアでも認められる。

 黒島の伊古の古老が語った網の起源。昔アマワリという者が幼児から十二、三才の頃まで小児麻痺で山中に捨てられた。彼は洞窟のなかで生活しているうちに蜘蛛の巣に虫のかかるのをみて網の製作を思いつき、与那原の海岸で魚を捕ったのが網の起源。西村は、オセアニアで実際にそうされている例を挙げ、「蜘蛛の巣が人類文化の初期の段階において自然の網として利用されたと考えることは不自然ではないようである」としている。

 ペンガンは「爪先」の意味になるが、「干瀬の蟹」という説もある。後者の説には説得力がある。(pisinukan>pinukan>pingan)

 ヤシガニは、与那国ではウングヤという。ウングイは「睾丸」のことで、ウングヤは「大きな睾丸を持っている人」のこと。やはり、ヤシガニは男性に結びつけられた男性動物なのだ。

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2017/02/22

「ジュゴンの乱獲と絶滅の歴史」(当山昌直)

 当山正直は、『沖縄のジュゴン』(盛本勲)での沖縄、宮古・八重山の出土跡の分布状況について、骨製品の出土に注意を促している。

骨製品の場合は、出土したからといって必ずしもそこにジュゴンが生息していたという証拠にはならない。島内の、または離れた島との交易、またほかの島に住む人からのプレゼントされた骨製品の飾りということもありえるのである。

 また、「沖縄島の中部域や伊平屋島でも、ジュゴンを獲ると津波がやってくるという」とも書いている。

八重山では食の対象にもなっていたが、沖縄島の伝承などには食べたという事例があまり見られず、むしろ畏敬の念が強いように思われる。

 これを縄文期まで遡れば、要するに琉球弧全域で畏敬の念はあったということだ。

 

『島と海と森の環境史』


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2017/02/21

宮古島の霊魂観 2

 こんどは別様に考えてみる。刺青の文様をみれば、宮古島の霊魂は、霊力から独立した概念にはなっていないことに特徴がある。独立した概念の場合、霊魂の作用を受けて、霊力がもうひとつの霊魂と見なされるようになるが、宮古の場合、霊魂のほうがもうひとつの霊力と見なされているといった方が妥当なのだ。

 ここで、タマスにしてもマウ神にしても、「魂」や「守り」からきた新しい言葉だと見なして、これに頼らないことにする。

 もうひとつの霊力として立ち上がる霊魂とはどういうことを意味するだろうか。たとえば奄美諸島や沖縄諸島では、霊魂(マブイ)は、蝶としてイメージされた。これは、頭部の蝶形骨と蝶の類似(参照:「「蝶」が霊魂の化身である根拠」)と、死者に群がる蝶を根拠にしたと思える。とくに、死者に群がる蝶の場合、生者から死者への移行という一方向に進む時間の観念を媒介にしていることが重要だと思える。それは、トーテムとは別の系列の、時間概念を表象するものとして「蝶」が捉えられたことを意味している。

 一方、宮古島の場合、霊魂概念を導いたのは、ブー(苧麻)だったと考えられる。そしてブー(苧麻)はトーテムでもある。ここでどのようにして、霊魂、言い換えれば「人間の内部の人間」(フレイザー)はイメージされることになるのか。直接的な契機は、野生のブー(苧麻)を採取するときの麻酔いだったのではないだろうか。麻に酔い軽いトランス状態に陥ることが、人間と苧麻とのつながりを思考させる。

 ブー(苧麻)は、繊細な繊維で衣装になる。これは現代的な見方で、発生からいえば、ブー(苧麻)の繊維から人間はつくられているというのが発想の順番だったはずだ。ここで、ブー(苧麻)は、人間のトーテム(祖先)になる。そして同時に、人間の身体はブー(苧麻)でできていると考えられることになる。

 ブー(苧麻)は、身体を成り立たせているものとしてはトーテムだが、同時に身体内部に象徴された表象としては、霊魂だということになる。ここで霊力を指す言葉は、フーである。フーは自然に満ちていると同時に、呼気(フー)として、人間の身体にも宿っている。身体内部に象徴化されたフー(呼気)がブー(苧麻)なのだ。言い換えれば、フー(呼気)の変態した形がブー(苧麻)である。

 こうして捉えられた霊魂が、もうひとつの霊力としての霊魂の意味になる。そして、この霊魂は蝶形骨のように頭部では象徴されず、霊魂が抜けるのはツヅ(ツムジ)からではあっても、霊魂の座を象徴するのは身体(胴)なのだ。

 岡本恵昭は、『平良市史第7巻』のなかで、マウ神はフーの実体であり、タマの再生は個人の死で可能になるが、フーの外来魂は死とともに昇天すると書いている(「神がかりの諸形態-マウ神」)。

 これを手がかりにすれば、ブー(苧麻)として表象された身体内部の「もうひとつの霊力」である霊魂が「タマス」であり、外界ともつながりをもつもともとの霊力であるフー(呼気)が「マウ神」の祖型に当たることになる。

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 こう理解してみると、霊力はトーテムにつながるので、蛇、貝であるとともに、ブー(苧麻)も含んでいることになる。また、霊魂は、ブー(苧麻)であるといっても、それはトーテムでもあるから、蛇や貝を含むことになると思える。これは、宮古島の刺青で左右の尺骨頭部が同じ文様になることの根拠になる。

 ここで、「マウ神」とは、神化された霊力(フー)であり、神化を促した契機は、再生の断念であると考えられる。また、「タマス」の祖型はブー(苧麻)であると考えられる。それは、宮古の霊魂込め(マブイグミ)が、タマスウカビと呼ばれ、植物が使われることに符合する。

 ふたたび奄美諸島や沖縄諸島とのちがいを言えば、奄美や沖縄では霊魂の座が頭部であるのに対して、宮古では頭部が霊力を象徴する座になったことではないだろうか。

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2017/02/20

宮古島の霊魂観

 岡本恵昭の助けを借りて宮古島の霊魂観に接近してみたい。

 初源の霊魂はふたつが基本の数だ。ひとつは霊力であり、もうひとつがいわゆる霊魂である。霊力は「呼気」に象徴されるように内臓感覚をもとにしている。霊魂は、「影」に端を発するように目が捉えた知覚から始まり、「人間の内部の人間」(フレイザー)へと霊魂らしさを持つようになる。目の知覚からスタートしているので、人間のなかにいる小さな人間や、蝶への化身など、輪郭を持ちやすいのだと思える。

 このふたつの霊魂が、何の編集も受けずにいけば、やがて霊力としての霊魂は「その人が死ぬと無くなり」、他方の霊魂は「不滅」と言われることになる。

 この基本形を踏まると、宮古島の霊魂はどのように見えることになるのか。

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(岡本恵昭による図解「宮古郷土史研究会」No.28」1979)

 霊魂である「タマス」が、固有の輪郭を持つというより流動的に、つまり霊力的に捉えられているのは、幸地哲の「呪術と霊魂観」によっても捉えられていた。タマスウカビでカンカカリヤーが「同じ年生まれの大きな魂よ、大きな身体について下さい」と唱えることにもそれは表れている。「入る」ではなく「つける」というのは、霊力的な表現なのだ。

 岡本の解説のポイントを列記してみる(「宮古郷土史研究会」No.58」1989)。

・タマシは頭のツツ(ツムジ)から出入りする。
・タマシを動かす原動力は、その人の本有する、生まれスジ(系統)のツヅの神に依る。
・これをフーの主と呼ぶ。
・フーは運気でフーの主は運気を司る守護神と考えてよい。共同体の神々。
・生まれてのちダキマスを受けるころ、生まれ根であるウタキの神と、父方、母方のいずれかの守護神(マウヌカン)をうける。
・タマスの上にあるツヅの神が、人を再生させてくれるものである。

 また別のところでは、「頭上に存在するマウ神と身体(胴の部分)の守護するイキタマス、タマスーと運営を司るフーの主神がある」(「宮古郷土史研究会」No.27」)としている。

 あんまり単純化するのはよくないけれど、岡本の図解をアレンジしてみる。

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 まず、マウ神の「マウ」は、頭上に存在すること、守護神と呼ばれていることからもマブイ由来と考えてよいと思える(mabui>mauui>mau)。

 次に、ツヅの神は、セジ系(sezi-tidi-tudu)の言葉であり、「フー」と「呼気」に通じる言葉であることからも霊力を指している。タマスの動きを左右する運気もフーであり、タマスは霊力的に捉えられていることが、それを包むものによっても示されている。

 マウ神という守護神は、その人固有に、その一生にのみつくものだとも言われている。その意味では、呼称の由来はマブイ(霊魂)だとしても、その命運は霊力的である。

 しかし、この「マウ神」のあり方は、宮古島における再生の断念の歴史を背景に持っているのかもしれない。「マウ神」を、神化したマウ(マブイ、霊魂)と見なすのだ。そう捉えれば、マウ神は、かつではマウ(霊魂)として、死後はあの世へ帰ったあと、ふたたび生誕する運動を担っていたのではないだろうか。それは、マウ神が「御嶽、父方、母方のいずれか」に帰属を持つことからも考えられることだ。この運動性が、マウ(マブイ)という言葉には宿っているのかもしれない。

 宮古島の霊魂観には、霊魂初期のふたつの霊魂が変形されて保存されたと仮説してみる。マウ神は、マウとして霊魂としての霊魂であり、それは再生を担う運動性を持っていた。タマスは霊力としての霊魂を指す。タマスが身体(胴)、つまり内臓に宿ることも、それが霊力であることを示している。

 この霊魂観が豊かなのは、フー(運気)とフーの主という存在によって、霊力はもともと人間という境界を越えて自然とつながりあっていたという記憶を保存していることにあると思う。それが、「ツヅの神が、人を再生させてくれる」という思考を消していない力になっているようみえる。

 >>> 続き 「宮古島の霊魂観 2」

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2017/02/19

「サンゴ礁の環境認識と資源利用」(渡久地健)

 渡久地健は、奄美大島大和村の貝捕獲について、潜水の必要なサンゴ礁外側斜面では男性が捕獲し、内側では女性が捕獲すると整理している。

 サンゴ礁の外側=礁斜面(ナダラ・スニウトゥシ) カインミャ・タカセ・カタンミャ-男性
 サンゴ礁の内側=礁原・岸辺(クィシィ・ヒジャ) カタンミャ・エガル・アナゴ-女性

 カタンミャはチュオセンサザエのこと。これは、礁の内側でも外側でも捕られているから、やはり貝の種類よりも、捕る場所が重視されているのが分かる。エガルはオオベッコウガサガイ、アナゴはマアナゴウ。

 エガルとアナゴはヒジャの岩と岩のあいだに潜む貝。

 ヤトゥは干瀬にある深い窪み。ヤトゥも、太陽系地名だと思われる。tida > datu > yatu。

 エラブチ、ヴダイは、青と赤で名称を変えている。オー(青)エラブチとハー(赤)エラブチ。前者が男性動物で後者が女性動物だ。クサビも、オークサビとハークサビに分けられている。

 タカセは、「殻に赤い模様がある」。


『島と海と森の環境史』


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2017/02/18

「ふたりの「狂うひと」-島尾敏雄とミホの闘い」(瀬戸内寂聴 梯久美子)

 一方は言いたいことを言い、他方は言われたいように言われている。無惨という思いを禁じ得ない。島尾敏雄とミホがそうなのではない。対談者の二人のことだ。

 ここでは島尾ミホは、魅力的だが不気味な存在として捉えられている。

梯 初対面の第一声が「あなた、ゆうべ私の夢に出てきましたよ」だったんです。「夢で見たお顔とおんなじ」って。本当だったのか、ある種の自己演出だったのか、今もわかりません。
瀬戸内 自己演出に決まってる。というより自分でそう思いこむんでしょうね。
瀬戸内 (前略)それにしてもあなた、ミホさんのような怖い人のところへ取材に通ったんですから、勇気がありましたね。
梯 ミホさんの書いたものを読んで、もうびっくりしたんですね。『死の棘』で狂乱する妻として描かれているあの人が、こんなにすごい作家だったなんて、と。それでどうしても会ってみたくて。(後略)(「新潮」2017.3)

 こういういい気なやりとりの後にこう続く。

梯 私はミホさんに、もう取材はしないで、書かないでと言われたのに書いてしまったことが心にかかっているんですが、書いてよかったんでしょうか。
瀬戸内 もちろん、よかったのよ。あなたはミホさんが好きで、ミホさんの人物と作品を知ってもらいたいと思って、時間と労力をかけて書いた。喜んでいるに決まってます。それに、あなたのこの本には、これまで世に出ていなかった資料がたくさん出てくるでしょう? これだけのものが集まってきたということ自体、あなたが書いてよかったということなのよ。
(中略)
瀬戸内 「ここで、こんな資料が欲しいな」と思ったら、向こうから来るの。あなたも覚えがあるでしょう?
梯 あります、はい。
瀬戸内 それはあなたが本当の書き手になったということなのよ。書かれる相手がどうぞ書いて、と思った時よ。
梯 今回の本は特にそうでした。
瀬戸内 そういう時って、その人の魂が「書いて」って言っている時だと思うの。私ね、やっぱり魂ってあるんじゃないかと思うの。

 呑気なものだ。瀬戸内は、ミホを思いこみの人に追い込みながら、自分も自身の思いこみを語ることになっている。

 梯は、本人に取材を断られながら、息子伸三の許諾に依存してしまったために、「書いてよかったんでしょうか」という問いを抱えざるを得なくなっている。そして聞く相手を間違えている。聞くべき相手は能天気な老作家でもなければ息子伸三でもなく、島尾ミホである。そして、本当に問われるべきことは、得られない許諾のもとに書いたことではない。にもかかわらず、書けていないことなのだ。

 梯は実のところ、敏雄にもミホにも向き合えていない。「二人のことを書いていた時、私も彼らの「狂い」に参加していたのかもしれません」と、梯は話しているが、これも呑気だとしか言いようがない。「狂い」が足りない。


 cf.『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子)


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2017/02/17

『神と自然の景観論』(野本寛一)

 野本寛一は、緒言で「聖なる一本の樹木の場合、依り代なのか神体なのか不明確なことが多い」と書いている。ここに二重性が認められる場合は、「神体」→「依り代」への転換を想定していいのだと思う。

 八重山の竹富島の西側の白砂の浜にあるニーラン石。神がとも綱をつける石。ニーランの神は、ニーランの国からの穀物の種子を小波本御嶽のなかにあるクスクバーの岡という小高い岡に登り、ハイクバリの神に命じて穀物の種子を八重山に配ったという。野本は、「ニーランの石は神の依り代である」としている。

 ニーランの石は、小浜島の大岳、西表島の古見岳が一直線上に連なっている。新城島上地では、一年のうちでもっとも聖なる時間に西表島の古見岳を遥拝する。

 これらはいくつかのことを示唆している。

・ニーランの石は、縄文期の「あの世」との境界部
・クスクバーの岡は、縄文期の「あの世」
・御嶽が縄文期の「あの世」にそのまま建てられることがある例
・竹富島も八重山の「あの世」の島のひとつ
・小浜島の大岳、西表島の古見岳は、竹富島にとっての遠隔化された「あの世」
・同じく、西表島の古見岳は、新城島の遠隔化された「あの世」

鳩間島は、島自体が聖地である。沖縄本島における久高島のごとく、八重山諸島において信仰の核となるような聖なる島なのであった。

 縄文期のあの世の島として典型的なのは、沖縄本島の久高島、宮古の大神島、八重山の竹富島、鳩間島ということになる。奄美は、奄美でその位置を持つのは喜界島なのではないだろうか。

 奄美大島大和村の立神について、野本は書いている。

ここで注目すべきは、オムケの願い口のなかで、立神は「立神ミカタの神様」と明確に神格化されているのに対して、伝承のなかでは、立神はテルコ神が碇をおろす場だと伝え、いわばテルコ神の依り代であることを説いていることである。

 これは、大和村の立神が、縄文期の「あの世」からナルコテルコへと他界が遠隔化したことを伝えるものだ。この場合、オムケの願い口の方が古層を保存したのだと言える。

海の彼方からやってくる神はまず押角・湾口等にある柱状岩島(立神・京)に依り着く。次にムラを中心とした神女集団が浜に出て、その柱状岩島を排しながらムラに神を迎える。

 野本はこれが「立神信仰の基本」だとしている。「立神のある風景は、日本人が内在させる海彼憧憬の思いを刺激してやまない」とも書く。しかし、見ようと思えば立神には、それ以前の縄文の「あの世」を見ることができるのだ。

 伊平屋島、宮崎県の青島、佐多岬のビロウ島、野間岬のビロウ島などもクバ島であり、「いずれも聖地性が強い」。

それは、クバすなわちビロウが神の依る植物と考えられていたからである。

 ぼくたちはこれを、蛇(と貝)の化身態だからと言い換えることができる。

 ここでは、山について触れなかったが、この本は縄文の「あの世」探究の適切なテキストになると思う。 
 


『神と自然の景観論 信仰環境を読む』

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2017/02/16

不死-蛇と再生-貝

 サンゴ礁期に入って、島人は貝-太陽-女性という同一視のトライアングルを見い出す。そして生と死は、不死から再生の段階に入る。

 不死-蛇
 再生-貝-太陽-女性

 と、ここまではいいはずだ。

 松井健の『自然認識の人類学』によると、来間島では、貝と植物は男性生き物の場合は、「ビキ」がつけられて、女性を表わす「ミー」は付かないことが多いとしている。これは、植物も女性生き物だったことを示している。それは、木の実が落ちるものであり、貝と同様、大地に根差しているところから来ていると思える。

 で、このとき、月が「もうひとつの太陽」と見なされたのは、貝から太陽が誕生することを受けて、そうなったと考えられる。そして、この段階で、性が表現になったとすれば、月は男性として見られた可能性がある。ただ、神扇の表は太陽、裏は月ということからすると、もうひとつの太陽も女性だったのかもしれない。

 問題は、「貝-太陽-女性」以前の段階で、蛇や月に性が与えられていたかどうかということだ。

 もし、サンゴ礁出現以前は、独神の段階であったら、蛇は男女の精霊ではなかったことになる。ただ、月はもともと女性との結びつきは強いので、女性的な存在として見なされていたとも考えられる。

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2017/02/15

月と太陽

 ニコライ・ネフスキーは書いている。

 宮古群島では、太陽と月は夫婦になっている。夫が片足を妻に投げたとき月食が起こり、妻が夫に媚びたときに日食が現われる。

 この説話では、すでに太陽は男になり、しかもふたりは夫婦になっている。これは男性が太陽化したことで、女性が月化したものだ。あるいは、月はその前から女性で、そのまま女性にとどまったのかもしれない。

 多良間島の伝説。昔、妻である月の光は、夫の日の光よりもはるかに強く明るかった。夫は羨望して分けてほしいと願ってみたが、妻は聞き入れなかった。そこで夫は妻を地上に突き落とした。妻は泥で汚れたが、通りかかった農夫が桶の水できれいに洗った。そして月は空に戻ったが、月は明るさを失ってしまった。月は農夫を招いた。そこで、満月の夜には二つの桶を天秤棒につけて運ぶ農夫の姿がいまでも見える。

 ここでも月は女性だ。ここでは男性は太陽であるばかりでなく、月に対する優位性を露わにしているので、王権以降の伝承だと考えられる。

 首里や那覇では、冴えた月夜に「アカナー」という赤い顔と髭を持つ童子のような生き物が月に見えるという。山間に生息する非常な酒豪と言われることもある。童謡では、あかなーは「月の弟」だ。

 赤い顔は貝で髭は蛇だとすれば、アカナーの原形は蛇と貝の子だ。それが、「月の弟」だということは、ここでは、月も蛇と貝の子という意味になる。すると、月も太陽の子とみなされることになる。

 月のアカリヤザガマの話。月と太陽が、下の島へ変若水と死水を持たせてアカリヤザガマを使いに出した。人間には変若水を浴びせて生き返るようにして、蛇は肝心を持ってないからには死水を浴びせよという言いつけだった。ところが、アカリヤザガマが疲れて休んだ時に、蛇が変若水を浴びてしまう。仕方なく、アカリヤザガマは人間に死水を浴びせる。太陽は怒って、アカリヤザガマは桶を持って月に立っていることになった。

 ここでも太陽は月に対して優位性を持つ存在になっているが、月は太陽とセットで登場している。

 かろうじて仮説が立てられそうなのは、月も貝が生み出しているのではないか、ということだ。月-不死は、太陽-再生の段階になって、もうひとつの太陽と見なされることになる。
 

『月と不死』


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2017/02/14

月は夜の太陽

 吉成直樹は、「おもろさうし」を引いて、月についてこう書いている。

一 阿嘉のお祝付きや
  饒波のお祝付きや
  月てだの様に
  照ゞ 輝ちよわれ
又 夜は 月 照る
  昼は てだ 照る
  月の様に
又 月や 隠し人
  てだは 世の主
  月てだ様に

一 あかのおゑつきや
  ねはのおゑつきや
  つきてたのやに
  てゝ かゝちよわれ
又 よるは つき てる
  ひるは てた てる
  つきのやに
又 つきや おさしきよ
  てたは よのぬし
  つきてたやに
  8-459(67)

 「夜は月が照り 昼は太陽が照る 月のように」。

月とはいわば、「夜の太陽」とも言うべきものと考えられていたことがわかる。したがって、「かなや」に月が結びついて表現されていたとしても何らおかしなことはない。

 これは重要な指摘だと思える。月がもうひとつの太陽なら、祝女の神扇の表に太陽、裏に月という意味も分かる。もうひとつの太陽なら、裏に描かれるのも不思議ではない。しかも、「夜は月が照り 昼は太陽が照る 月のように」は、「「昼は太陽が照り 夜は月が照る 太陽のように」と書くのがふつうだと感じるだろう。けれど、琉球弧の月の明るさを思えば、これも不思議ではない。しかも古代以前に月の存在の大きさを知れば、太陽よりも月を主体にした文言が残ったことには意味があるのかもしれない。

 ぼくは貝の精霊の殻が閉じることで太陽が死に移行し、殻を開けることで太陽がふたたび生まれると考えてきた。しかし、そうではなく、殻は閉じることなく、夜は月を生んでいるというのが正しいのだろうか。 
 

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』


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2017/02/13

うるゆー(サンゴ世)

大波の去った夜、
イノーに月が映えて、干瀬があやしく輝いた。
月が姿を消すと、イノーからティダが生まれる。
浜辺のユウナは風浴びて、黄色の花びらをゆらめかす。
木陰で舌出す大トカゲ、ユナの渚を睨んでる。
おもむろに這い出すと、蟹は慌てて岩になる。
そ知らぬふりのトカゲは、カタカスになって泳ぐよ。
ウルユー。渚に生まれ、渚にかえる。

イラブチャーがつつく。
まばゆいスクの群れ、向こうでボラが空へはねる。
グーが背中を叩く。ヌーからグーザがやってくる。
ヤモリは海に出てフカになり、マングローブのシジミはギラになる。
ティダがイノーにかえる頃、赤く染まるユウナの花。
風に揺られて花びら、落ちて波にさらわれた。
ぶるっとふるえて花びらは、オレンジ魚になるよ。
ウルユー。渚に生まれ、渚にかえる。

海がかすんでる。
ヌーから入ってきた、あれは相方いとしのザン。
ザンが藻をはみ終える頃、渚に生まれる赤ん坊。
少女になればティダの印、ウマレバンがぽつんとつけられる。
綾文様で染められると、手から飛び立つ綾はびら。
アマンと貝も這い出して、ブーが長い糸を引く。
やがて指から蛇が抜け出て、空を舞い海に溶けるよ。
ウルユー。渚に生まれ、渚にかえる。

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2017/02/12

『吉本隆明 『言語にとって美とはなにか』の読み方』(宇田亮一)

 この本を読んで、『言語にとって美とはなにか』とぼくたちの問題意識の接点は何かを考えることになる。「文字」以降の表現を主に扱っているこの本に対して、ぼくたちは文字以前の思考を対象にしているのだから、接点を見つけること自体がテーマになる。

 サンゴ礁の思考を辿ると、「貝は女性器」という思考に出会う。これはふつう暗喩と呼ばれているものだ。しかし、サンゴ礁の夢の時間のなかにあってそれは、メタファーではなく、貝と女性器を等価なものとして見ていたのだ。それを同一視と言っては語弊があるなら、吉本の使ったように同致と言うべきなのかもしれない。

 これは順番からいえば、現在、メタファーと呼ばれているものは、この等価と見なす同致から始まってると考えられる。このことがひとつ。

 それからサンゴ礁の思考を辿ると、もうひとつ気になることが見えてくる。

 ユナ(砂洲)を起点におくと、これを元に、ユウナ(オオハマボウ)、イノー(礁池)、スニ、ウル(サンゴ)、イヤ(胞衣)などの言葉が生み出されたのが見えてくる。あるいはぼくはそう仮説した。

 この場合、ユナとユウナ、イノー、スニ、ウルはサンゴ礁内の自然物であり、胞衣は女性器である。サンゴ礁は貝ともみなされているから、貝は胞衣というのは、貝は女性器と同じと見なした視線と同等のものだ。

 そして、ユナとユウナ、イノー、スニ、ウルというサンゴ礁内にある自然物は、ひとつの言葉の変態によって生み出されている。ユナが変態することで、ユウナ、イノー、スニ、ウルは生まれていった。これは、ユナからイヤ(胞衣)が生まれたように、ユナとユウナも、ユナーとイノーも等価と見なされたことを示唆している。比喩の言い方をすれば、ユナ(砂洲)はユウナ(オオハマボウ)であり、ユナ(砂洲)はウル(サンゴ)なのだ。

 これを現在的に比喩と言わずに言語の発生の場所からみれば、ユウナ(オオハマボウ)はユナ(砂洲)の別の形と見なしたことになる。

 こういう言葉の変態(メタモルフォーゼ)による名づけという方法を、ありえたと考えさせるのは、サンゴ礁において、動植物が変態して別の動植物に化身するという思考に、すでに出会ってきているからだ。

 キシノウエトカゲはカタカスになり、ヤモリは鮫になる。この変態は、すべてサンゴ礁で起きる。これが妥当だと思えるのは、サンゴ礁は胞衣と見なされているからだ。

 ぼくたちはこうしたことを知るに至っている。しかし、それが何を意味するのか、よく分かっていない。

 ただ、比喩を使うと、ものごとがよく分かるというとき、その根底には、かつて等価として同致した思考の累積が、比喩によって得られる納得感には流れているのではないかということだ。

 宇田は吉本の考えを辿りながら、「喩はリズム(つなぐ、ながれる)の象徴的な表現」と書いている。ぼくたちが見ているものに引き寄せれば、リズムとは変態(メタモルフォーゼ)であり、そこに喩の原型があった、ということになる。 
 

『吉本隆明 『言語にとって美とはなにか』の読み方』


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2017/02/11

ミルヤからニルヤへ

 中本正智は、ミからニへは「音声変化」からも論証できるとしている(「ニライカナイの語源と原義」)。

 ミルヤ > ニルヤ.> ニラヤ > ニラヰ > ニライ

 と、こういう推移を想定しているわけだが、「ミルヤ > ニルヤ」のところがぼくにはいちばん分からない。この間の経緯はもっと複雑なのではないだろうか。

 「濁音の同一と等価」を参照すると、

 ミ > ジ > ヂ > ギ > ニ(の濁音)としてミからニに到達することはできる。そうすると、「琉球神道記」の「儀来河内」(ギライカナイ)という表記も、射程に入ってくることになる。ただ、感覚的にはこの経路は難しい。

 

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2017/02/10

宮古島の針突き文様

 市川重治の『南島針突紀行』から、宮古島の針突き文様について、もう少し示唆を受け取りたい。

 「・」ウマレバン。小さな点。「富貴の印であり、後生に行けば先祖や神様に見せなければならない文様」。
 「×」ガジル。結ぶこと。
 「類こ」フツンキヤ。人と人が対しあうこと、口むかうさま。
 「四個の点」インヌプサ(犬の足)。宮古上布にある文様。
 「=」オミス。箸。

 「五つの点」。イズクモズ。
 「工」カシギ。織物をするとき、糸を綛(かせ)にする原始的な工具。
 「六個の点。三個ずつ二列」。ニギリメシ(握飯)。
 「※」イズクモズ、イズポカザマーラ。(「星」を表わす。『南嶋入墨考』)「この感じを上布に織り出すことに大変苦労した)

 トウヌピサは、「ヤツカザマーラ」とも言う。
 トゲヤ(銛)、ツガとも呼ばれる。
 「〇に+」。タライ。
 「四角形に対角線」ツガ。枡(ます)。

 これらの証言からうっすら分かってくるのは、十字を基本にした文様が「太陽」を表わし、それを囲うようなデザインがあるとき「貝」モチーフが現われてくる。宮古の文様のモチーフは、「貝=太陽」を基本にしているのではないだろうか。

 
 

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2017/02/09

「とらさんながね節」

 宇検が本場だという「とらさんながね節」。

 とらさんながねなんて ふつもゆる煙 とくぬまごじょめが はゆる煙草
 とくぬ浜で ふつもゆる煙 牛焼きと思えば 塩屋ぬ煙
 浜ながし行くば しゅくぬ子ぬ寄より 網叉手や持たぬ 事ど欠きゅる
 網寄せて曳くば 又手寄せて曳くば 網やだます 叉手や叉手だます
 のろやのろだます ぎじやぐじだます たます打ち果てて 主やどまで
 (小川学夫『奄美の島唄』)

 これはスクの歌になっている。「しゅくぬ子」は、スクの子だから、ここでの「しゅく」はアイゴの成魚を指すことになるが、「しゅくぬ子」でそのまま「しゅく」のことなのかもしれない。

 面白いのは、「しゅくぬ子」という表現があるということだ。これはもとは、「しゅうぬ子」だったのかもしれない。スクが、「潮の子」であるという連想をさせてくれる詞だ。

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2017/02/08

『自然認識の人類学』(松井健)

 来間島では、サルカケミカンは「サルク」と呼ばれ、ナンテンカズラが「ビキ・サルク(雄のサルク)」と呼ばれる。サルカケミカンはミー・サルク(雌のサルク)だが、「ミー」は省略されることが多い。両者の共通点は、「鋭くて強い棘だけ」。つまり、サルクに関してはふつうは女性植物とみなされている。ススキは「カヤ」、あるいは「ミー・カヤ」で、イトススキが「ビキ・カヤ」。

 来間島における生物の命名法に特徴的な「ミー」と「ビキ」をつけて対をつくる例は、植物と貝の場合についてだけ見出される。

 採集は女性が行なうものであり、その意味で貝と植物は女性植物になっている。松井健は書いている。

「ミー」は、雌を示す。その一方で、一応その方名で呼ばれはするが、本来その名前で呼ばれるべき典型的なものではないとみなされている生物種は「ビキ・--」と呼ばれる。「ビキ」は雄を意味する。

 魚の命名では、「ミー」「ビキ」の対立がないのみだけではなく、その語彙を含む方名が皆無。

 ブダイは雌が「アカ・イラフツ」、雄が「アウ・イラフツ」。「雌雄が別々の魚であるかのように命名されている」。これはたまたま生物学的な雌雄と一致した例だ。松井も「島の人たちは同一種の雌雄の魚を、まったく別の種類と考えている」。

 ヤギの場合、かなりの頻度で出現する半陰陽の個体は「ミー・ビキ・ピンジャ」と呼ぶ。タカ(サシバ)のうち眼がアカ(オレンジ色に近い色)く、体色が濃い褐色のものを「ミー」とみなす。


 その他メモ。

 来間島では、スクはスフ。四月ころ、テラジャ(マガキガイ)は「浅いラグーンに集まってくる」。

 琉球列島で、タカラガイは「シビ」「スビ」と呼ばれる。この貝の名前は、「女性の性器」を指す隠語になっている。別の貝の場合もあるが、限られる。

 与論では、大きなシビを「ウマ・シビ」という。

 

『自然認識の人類学』


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2017/02/07

通り雨と一緒に歩いた沖縄島

 近所のコンビニに行くような恰好で出かけて、空港に着いたらその足で当たり前みたいに県立図書館へ。国会図書館に無い書籍は、ここに頼る。お目当ての御嶽の空間構造を研究した書も見つかり、ゆっくり複写。この日はそれだけで任務完了。夜は、イラブチャーを食べたかった。食べ慣れているけれど、蛇の精霊に由来を持つ魚と思って食べたことはなかったので、そうしたかった。酢に浸したいなと思いつつ、島人が何千年も好んできた魚の主に敬意を払う。

 翌朝はまず、那覇からバスで北上して木綿原遺跡へ。途中、「勢理客」というバス停がある。「ジッチャク」と読む。これは与論では、「立長(リッチョウ)」に変わっている。「立長」の古名は「勢理客」と知らなければ同じ地名だとはとても思えないが、Z音はR音に変わりうるのを確められる。

 大湾で降りて海岸へ向かい、ひたすら歩く。ススキの原が見え始め、土や牛小屋の匂いがして潮風が感じられてくると、やっと島に帰った気になってくる。

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 木綿原遺跡に何もないのは分かっているけれど、頭部にシャコ貝を載せた遺骨が見つかった重要な場所だ。その遺体の霊が送られたのは、木綿原沖の干瀬に見た他界だと当たりをつけているので、それを体感したかった。

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 潮は引いてないので、干瀬は見えない。けれど与論とも変わりないユナの浜でひと息。死者はあの世へ行くといっても、すぐそこだったのだ。

 遺跡横のカフェのコーヒーを当てにしていたが、今日は休みです月曜ですから、とあっさり断られる。ドルドルドン、ドルドルドン、日本復帰やドルドルドン。これからあたなも私も冷たい人になっていくのさ♪

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 それならバスを一便を早めようと歩きはじめるが、間に合いそうにない。で、道端のお弁当屋さんでお茶。味噌とポークのおにぎりでちょっと腹ごしらえしてバス停へ。お店の名前、メモしておくんだった。

 このころまでは陽射しもあって汗ばむくらいだったのに、通り雨がやってきた。濡れるのはお構いなしだが、急に気温も下がってきた。やばいと思い、仮停留所と書かれた立て看板の横にしゃがんで避けようとするも効果はない。バスに乗り込むと、猫の身震いみたいに雨を落として、身体をさすって体温が落ちないようにがんばってみる。

 大謝名に着くころには通り雨を追い越して小雨程度にはなっていた。ふたたび歩く。こんどは安座原第一遺跡へ。ずっと住宅街。たしかめていたポイントについても、ここが遺跡場所とは確かめられなかった。石碑も見つけられない。もう海岸も埋め立てが進んでいて、かつては海辺近くだった気配も感じられない。

 ここからは、頭部をシャコ貝ですっぽり包んだ遺骨が見つかっている。シャコ貝であるサンゴ礁へ送った場所だ。おまけに、発掘されているなかでは最もナチュラルな姿形の蝶形骨器も出土している。とても大事な場所だ。

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 そこからまた大謝名を目指すが、雨脚がまた強くなってきたので、宜野湾のベイサイド情報センターのカフェへ駆け込む。スマホしか持参してなかったので電源ありの場所を調べておいて助かった。ここはPCも借りられるし、いいい場所だった。また来たい。

 次は、琉球大学の附属図書館なのだが、雨はまだ続いている。バスを駆使してひたすら歩こうと思い決めていただけに、本意ではなかったが、やむなくタクシーを使って大学へ。大きなキャンパスと見通しのよい施設空間で驚いた。恵まれたところだ。とても恵まれているのを、この子たちは気づくことはあるだろうかと思ったり。

 お目当てのアール・ブールのハジチ写真も見ることができた。ネットでも見ることはできるけど、本物ではないから。もっとも本物のガラス板は、学外の方にはちょっとと断られたのだが、写真を大判で見ることができたし、複写もできた。

 「戦後資料に見る奄美群島の風景」という展示もやっていて、偶然に感謝。米軍統治が始まったばかりの名瀬が、貧民街さながらで、奄美のなかでの特異な佇まいを改めてみるようだった。

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 図書館の門も階段も似たデザインが施されている。結局、海に背を向けて暮らしていても、島人はそこここにサンゴ礁をつくろうとするのではないだろうか。

 まだ一月、気温も下がるし雨は振り続けるしで困ったが、屋根付きのバス停に助けられて、牧志へ。流求茶館での待ち合わせに間に合う。仲程さん、松島さんと打ち合わせ。与論ゆかりのウチナーンチュにして点描画家の大城清太さんとは初顔合わせ。サンゴ礁の神話空間と、与論出身の、清太さんのお祖母さんが孫に語った話があまりに符合するのに盛り上がった。与論にそんな知識を持つ人がいたのを不思議に思う。

 夜は雑誌モモトの新年会に混ぜてもらう。ありがたし。

 翌朝は、県立博物館へ。9時に入館するも、お目当ての地図展は開館していない。さすが島と思いかけたが、日にちを一日間違っていたのに気づく。うっかりさんはぼくでした。がっかりしかけたが、常設展が素晴らしかった(名前、つければいいのに)。

 名前だけはよく見る曽畑式土器や市来式土器。口縁部のデザインに意味を感じさせる荻堂式土器など間近に見ることができた。そして何といっても蝶形骨器を一覧することができたのは望外だった。撮影禁止だったので、お見せできないのが残念だが、食い入るように見ると、胴部だけではなく、下翅の下部にも孔が穿たれているのを確認できる。紐状の飾りを通したのだ。レプリカが、赤に塗ってあるのもよかった。室川遺跡のものだ。濃い赤にしてあった。

 大島のイモガイ集積、宮古島の貝斧、ゴホウラの貝輪、わくわくである。古我地原遺跡、座喜味城、下田原遺跡、知念グスクなどが張りぼてで造られているのもよかった。こうしてミニチュアにしてみると、人為的に作られた城(グスク)が陸上のサンゴ礁であることがよくわかる。

 民具のコーナーの復元家屋では、竈のあるトーグラを思い出して泣きそうになる。背中の方で、先生がサバニに顔を向けさせながら、「これが沖縄の海ですよ、しっかり見てくださいね」と小学生に説明している。「沖縄の海、行きますか?」とも聞いている。「行かなーい」と答える子供たち。本土の修学旅行なのかな思いきや、「そうなんだよね、沖縄の子はこんなに近くにあるのに海に行かないんだよねえ」と先生。島人? そんなことになっているのか。それはいけない。海に行きましょうね、ワラビンチャー、と心でつぶやいた。

 琉球王朝以降の展示物が多く人もそこに集まるのは仕方がないにしても、先史時代の展示物も結構、充実していて、ありがたかった。そこに精神史も書き込めるようになるともっといいと思う。

 モモトの新年会では、仕事で独自の表現をしていくにはというマーケティングっぽい問いに出会った。お返事をまだしてないのだが、それはメタファー力ではないかと思う。

 女は貝。というのは人類的な広がりのある比喩として知られている。けれど、サンゴ礁の思考からみれば、両者を等価とみなし、同じものの別の形というまで重ねてみていたことまで分かる。その重ね合わせの視線は、意識的に取り出して使う価値があるのではないだろうか。

 メタファー力をもっと島人好みの音に近づければ、「喩(ゆ)力」と言ってもいい。都市はサンゴ礁。たとえばそんなコンセプトを生み出すのは、島人は得意なはずだ。と、その問いかけには答えようと思っている。

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2017/02/06

宮古島針突きの尺骨頭部文様

 市川重治は『南島針突紀行』で、宮古島針突きの尺骨頭部紋様について、

片手が高膳の場合は他方にトウヌピサ(鳥の足)かカザマーラ(風車)アオヤッダ(アオヒトデ)の文様がついた。

 と書いている。

 試みに、『南嶋入墨考』に掲載されている42のデザインについて、尺骨頭部の文様を挙げてみる。

Photo

 十字の「ズギ、アジマル」と、十字の先に二重線がついた「ツガ」は、『南島針突紀行』に名称記載がないので、『南嶋入墨考』に依った。

 これをみると、「高膳」と「トウヌピサ(鳥の足)」、「カザマーラ(風車)」、「アオヤッダ(アオヒトデ)」は対の関係にはない。左右の「高膳」がもっともポピュラーで、あとは特に必須として考えられていることも見当たらない。しかし、文様はどれも十字形を基本にしていている。十字を角で囲った「高膳」がその典型的なデザインで、こうしてみると、どれもが「貝」モチーフを宿していると言ってもいいくらいだ。 


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2017/02/05

「根の国の話」(柳田國男)

 柳田國男は「根の国」について、こう書いている。

 1.南島のニルヤカナヤは、「根の国」と「根本一つの言葉であり信仰である」。
 2.「それが海上の故郷であるが故に、単に現世において健闘した人々のために、安らかな休息の地を約束するばかりではなく、なおくさぐさの厚意と声援とを送り届けようとする精霊が止往し往来する拠点でもある。
 3.その恩恵の永続を確かめるために、稲の作物の栽培を繰り返した。

 こうも書いている。

 根の国は、「安らかな、この世の人の往ったり来たりまでが、かつては可能と考えられていた第二の国」。ミミラクの島は、これと抵触するところがない。

 こうも問いを立てている。ミミラクが「この世とあの世との境の島」だとしたら、それが「根の国」型に落ち着いたのはなぜか。で、これはミルヤカナヤと「根の国」を同一視しているので、MN音の通音の可能性が探られている。

 ぼくの理解をいえば、「根の国」は、かつてのあの世のこと。その点では、「安らかな、この世の人の往ったり来たりまでが、かつては可能と考えられていた第二の国」という柳田の理解は、「第二の国」ではなく、「第一の国」とも言うべきこと以外は、その通りになる。

 ただ、ミルヤカナヤはすでに遠ざかってしまっているので、「根の国」とは重ならなくなってしまう。

『海上の道』

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2017/02/04

島尾敏雄の「琉球弧」 8.サンゴ礁の子

 奄美大島を離れ、本土の冬の風に堪えた島尾が、「越冬」中の那覇で魅入られたのは、「「女踊り」の身のこなしと、座喜味城址のたたずまい」(「那覇からの便り」)だった。

 島尾は、親しんだ「沖縄芝居」のなかで「琉球舞踊」に惹かれ、そのなかでも「女踊り」にひときわ強い印象を受けるのだが、文章に尽くすところまでは至らなかったようだった。ただ、「単純化された様式の美しさには、沖縄の人々の心の一面を表し得たあやしい到達」(同前)を感じずにいられなかったし、「同じものが演じられ方によっていろいろのかたちに見えてきて厭きない」のだった。わたしたちは、島尾がここで感じていたことを正確に写し取ることはできないが、たとえばそれは、蝶が蛹から羽化するところを何度見ても飽きないのに似ているのかもしれない。

 奄美大島では「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚き、文学的な表現がないことを嘆いてもいた島尾だった。しかここでは「文学をなお「うたい」「おどる」はたらきの魅惑の腕の中から解き放そうとはしないふしぎの力をまだ失うことはないように思える」(「那覇からの便り」)と、少なくとも、「芸能」こそが琉球弧の表現であると納得するに至ったのは確かだった。

 島尾は「女踊り」に比べて「座喜味城址」については饒舌だ。「珊瑚石灰岩」の拱門(きょうもん)(アーチ型の門)を入ると「不思議な空間」が待っている。

 そこに足を踏み入れた者に訪れる永遠の感覚のようなものの、時の流れがふと立ち消えてしまったような体験は、或いは南島の時空の根のようなものの表現なのかもしれない。そこでは広ささえ確かさを失い、わずかに今くぐりはいったばかりの拱門と次なる上の広場に抜け出るための拱門が対応を示しつつ、その外側に世間の時が流れているという思いに襲われることから免れない。その空間のぐるりを取り巻く城壁のかたちのおおらかなすがた。均整のとれた直線とか左右対称などというせせこましさを飛翔して、童画さながらに奔放に伸び、曲りくねって一つの空間を囲繞している自由さは、この世のものと思えないほどだ。(「那覇日記」)

 わたしは思わず、ここに描かれているものについて口をはさみたくなるが、その前に、島尾はもう少し「座喜味城址」について書いている。城址の頂の「地勢に逆らわずに伸びている」格好が、「蛇の気ままな蛇行のすがた」のようでもあり、かと思うと「時にユーモラスな破調をも示す余裕」もある。彼はそこに「言うに言えぬ自由で快い韻律」を感じる。しかも、島尾それを「女踊り」の「接近と断念という主題の濃密な繰り返し」(「那覇からの便り」)と「根は同じ」だと見なしている。

 「女踊り」ばかりではない。「沖縄芝居」にも「歌謡」にも「沖縄の人々の発想や挙措」にも、「根が一つ」と感じさせるものがある。「攻防の構えを欠落させた部類の城」(「那覇からの便り」)である座喜味城と、沖縄の芸能の「生真面目な追求の中に、いきなり破調を突出させる」型には「同質の感動」があると、島尾は言う。

 島尾はこの「沖縄の韻律」について、「とても解き明かす力は無いが」と断りつつ、「予感」として「沖縄がいわば「小国寡民」の経験を深くかさねてきたからではないだろうか」(「那覇に仮寓して」)と書いている。島尾は、ここで王朝の記憶に引きずられているところはあるが、「小国寡民」の言葉遣いに躓かなければ、核心を捉えているのではないだろうか。

 島尾が芸能にも城址にも感じた韻律を、「根が一つ」のものとして捉えるには、その根底にまで降りてゆかなければならない。そうして思い当たるのは、曲線と破調の繰り返しというリズムには、「世(ゆ)替わり」によっても絶えず、時間が一方向に進むことにあらがい反復させようとする琉球弧の野生の思考が顔を出しているのではないかということだ。

 たとえば、米軍統治から日本へ復帰したことを、琉球弧では「アメリカ世」から「大和世」へという言い方をする。これが「世替わり」だ。それは転換時には違いないが、「アマン世」、「クバの葉世」などと呼ばれる狩猟採集の時代までさかのぼれば、「世替わり」は、神話を更新せざるをえなくなるほど世界の構成が変わってしまったときを指していた。それはまさに、島尾が言うように「破調」と呼ぶべき事態だ。

 また、これを時間に対する捉え方からみれば、今日のように明日もあるという繰り返しの感じ方が強かったのが、一方向に進むという感覚が力を増していくのが「世替わり」だった。そして現在では、それがふつうの時間感覚になっている。

 ところが、それにもかかわらず、時間を繰り返しであり反復であるように捉えようとする志向性を、祭儀のなかに残してきたのが琉球弧だった(喜山荘一『珊瑚礁の思考』)。

 反復する時間のことを島尾は、「座喜味城址」のこととして、「永遠の感覚」、「時の流れがふと立ち消えてしまったような体験」と書いていた。そして、その空間の醸す空気を、「この世のものとは思えないほどだ」と言い表していた。これは島尾が、永遠の現在とも言うべき反復する時間性を建築のなかに見出していたことを意味している。

 島尾は「座喜味城址」に感じるものを、那覇のコンクリートの家にも、那覇の町にも感じた。そして那覇の「ラビリンス」については、その成り立ちを推し測っている。

即ち平らな土地がはじめから展開していたのではなく、海水に囲まれた幾つかの島や岩礁が、その固有のかたちを残したまま継ぎはぎされて、今の市街地をかたちづくったと思えるからである。(「安里川遡行」)

 島尾は解き明かさないまでも、いや解き明かしていることに気づいていないだけのところまで歩みを進めていた。島尾は、韻律に「世替わり」という破調と、反復する時間を失わない身体性を感じ、そして空間にはサンゴ礁を見ていたのだ。

 ところでわたしが思わず口をはさみたくなったのは、島尾の「座喜味城址」の記述が、まるで竜宮城を描いているように見えることだった。こうして島尾の感受を追えば、それはその通りだと言えるのではないだろうか。琉球弧はサンゴ礁のもとで野生の思考を育んできた。島尾は、そうは語らない芸能や造形物のなかに、いわばサンゴ礁の思考を感じとっていたのだ。

 島尾はなぜ、そうすることができたのだろう。

 それはやはり島尾が野生の心を豊かに持っていたからではないだろうか。

 奄美大島にいた頃、二十年あまり前にマニラで食べたパパイヤが忘れられないと話すと、妻のミホはいかにもミホらしく、それまで植えていた野菜を根こそぎにして庭をパパイヤでいっぱいにしてしまう。それで毎日パパイヤにありつくことができるようになるのだが、島尾はそこでこんなことを書くのだ。

 それにしても、私はパパイヤを見るたびに、たとえば、葉が茂って落ちてもそこに妻の手足を感じ、実が充実しても未成熟にとどまってもそこに妻の姿を見、うまいうまいと食べるときには、なんだか妻のからだの一部を食べているような気持ちになってくるのは、これは一体どういうことだろうか。(「庭植えのパパイヤ」)

 ここでの島尾の心は、もうほとんどミホという母に育てられる乳幼児に退行しているが、この感じ方は、ヤムイモを主食とする太平洋の島人が、それを「祖先の肉」と呼ぶのと同じ心の位相にあると言っていい。島尾はここで、ミホでありパパイヤでもある「祖先」の子として、神話を立ち上げかけているのである。

 しかも島尾の野生の心にはもっと奥行きがあった。

 島尾は島人の陽に焼けた黒い顔に、どういうわけか、「あの潮と陽にさらされて骨のようになった白いウル(樹枝状珊瑚塊のかけら)のような清潔な印象」を持ってしまう人だった(「名瀬だより9周辺の村落」)。そればかりではない。彼は、「白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおれない」(「奄美の墓のかたち」)のだ。島人にはサンゴを感じ、サンゴには骨を感じる。そして骨を連想してしまうのに、「その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げない」(同前)。骨を感じるそのサンゴに溶け入ろうとしているのである。

 与論島で洗骨後の骨を納める瓶を見たときのことだった。

 (前略)首のくびれたところまで砂中にうずめられた骨瓶が、強い日のひかりにはねかえり、うそのように静かに白くさらされていた。瓶はふたでおおわれていたが、ふと私自身が白骨になって、瓶の外に出、南の太陽に髄のなかまであたためられているのかもしれないような気分になっていた。(「奄美の墓のかたち」)

 洗骨の骨の瓶を通して、自分が骨になってしまう気分になる島尾が、浜辺のサンゴを見て、「私はサンゴ」と言うところまでは、そう隔たりはない。こう感じる島尾が、作家の感性を離れて、これを思想として取り出すことができたら、そこにサンゴ礁を基盤にした琉球弧の野生の思考の世界が広がっているはずだった。

 島に当てられ疎外されたとき、島尾はいじましくも、「しかしたとえ異和を以て迎えられても、島の珊瑚礁を抱きしめてじっとしていたい思いです」(「回帰の想念・ヤポネシア」)と書いた。

 この幻想の仕草は、殻のなかに息を吹きかけるのすら遠慮して、身体で殻を温めてヤドカリが顔を出すのを待つみたいに、サンゴ礁を抱いて島人が心を開くのを待っているように見える。あるいは、島尾自身がサンゴ礁に化そうとしているようにも見える。

 島尾敏雄は琉球弧にとってまれびとにちがいないが、その心は、渚に生まれたサンゴ礁の子というのがふさわしかった。(了)

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2017/02/03

島尾敏雄の「琉球弧」 7.サンゴ礁地帯

 日常の発想すら違うという洞察は、「ヤポネシアの視点」からまっすぐにやってきたものだ。

 結局のところ、被害、加害の視点でつかまえられることではなく、まず必要なことは琉球弧の本来のすがたを、ヤマトの追いかぶさりの目を排除しつつ明らかに立てることである。もちろん大根のところでは立っているのだけれど、それを表現としてはっきりあらわすとのように思う。(「琉球弧に住んで十六年」)

 もともとヤポネシアの発想は、日本列島を「花ざかりの島々」と見る島尾が、太平洋に視線をずらしたときに、そこにも似た島々のあることを見出したところからやってきている。島尾は話している。「南洋の土人」という考え方が出てきがちだがそれは正確ではない。そうではなく、「南太平洋の島々の生活には、それらの島々に適した生活がおこなわれているのであって、そういう意味において、ポリネシア、インドネシア、ヤポネシア、メラネシア、ミクロネシアなどの同じような生活をする島嶼群があるのだと考えたらどうか」(「私の見た奄美」)、と。近代化に血眼になっていた島人はこう言われて、内心反発しただろう。しかし、これは島人が考えている以上の深度から島を掬いあげる言葉だった。

 この視線ずらしが左を向いていたのを右にしてみたという思いつきに留まらないのは、「日本文化の素性を考える時に、あまりに大陸のことを意識しすぎている」(同前)内省を伴うからだ。その証拠に、わたしたちは今でも島尾の指摘にはっとさせられるのではないだろうか。

 興味深いことに島尾は、「ヤポネシア」という概念を初めて公表した直後に、奄美大島について、「実は大陸からうつしかぶせられたうろこの最も少ない場所ではなかろうかという考えがはっきりしてきたときに、私をしばりつけてはなさぬ意思を、この島の中に感じた」(「ふるさとを語る」)と書いている。ただ、視線をずらしてみただけではない。そこには、大陸の影響が薄いのではないかという考えが伴っていた。

 これは、中国の影響が造形物にも見られる沖縄ではないから言えたのではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾は戦中の加計呂麻島で、古老が「中国との合併」を「親もとにもどるような具合に情愛をこめて」(「名瀬だより10民間信仰」)話すのを聞いている。中国との関わりがあったのを知らないわけではない。けれどもおそらく島尾は、「仏教も儒教もこの島を覆うことはできなかった」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)という、より古層へと目を向けていたのだ。

 太平洋の島々の延長に日本列島を見出したヤポネシアの発想は、大陸からの影響が少ないと考えられた琉球弧の存在に促されている。しかしここまでくると、このことの他にももうひとつ、ヤポネシアの発想を促したものがあることが見えてくる。

 それは、琉球弧が「珊瑚礁地帯」(同前)であることだ。

 つまり、島尾がヤポネシアを発想したのは、日本列島も太平洋の島々として見ることができるという地理的な位置のことばかりではなかったというとき、大陸の影響度が低いということの他に、琉球弧がサンゴ礁地帯であることが、もうひとつの媒介になって、日本列島を太平洋の島々に連ねてみる視点は獲得されたのだ。この、「本土をはみ出す」(「ふるさとを語る」)琉球弧の要素を梃に、島尾は琉球弧の北に延びる島々を含めて、日本列島を太平洋の島々につなげているのである。

 島尾はここで、「珊瑚礁地帯」であることより、大陸からの影響が少なかったことを、島が「私をしばりつけてはなさぬ意思」として力点を置いているが、島尾敏雄が解き明かした琉球弧を追うには、「珊瑚礁地帯」として見ていたことの方へ目を向けてみなければならない。

 振り返ってみれば、旅人が入り込もうとすると閉じてしまう「部落」のことを、島尾は「一個の珊瑚石灰岩」にたとえていた。また、奄美大島には「廃墟」が何もないと嘆くのを思い留まるように、地表を覆うサンゴ岩を「巨大な廃墟」として見てもいた。島尾の琉球弧には、いつもこのサンゴ礁の島という視線が伏流していたのだ。

 島尾は「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を打ち出す前に、すでにこう書いていた。

 アマミが、それぞれの島によって多少の変化を示しながら、一般に珊瑚礁と石灰岩の溶蝕地形の景観を背景にしていることは、ガジマルとアダンとソテツの植物群から受ける感受と共に、古い島の人々の精神の世界を限定してきたと思えるが、それは月光の下で一層高い香りを放ちながら、風格のある人間のタイプをつくってきたと考えないわけにいかない。(「悲しき南島地帯」)

 奄美大島に移り住んで四年ほどが経ったとき、島尾はすでに捉えるべきものを正確に見据えていたのだ。実はこれを奄美大島で洞察するのは難しいはずだった。なぜなら、琉球弧は、北へいくほどサンゴ礁の島らしい景観は希薄になるからだ。しかし、彼は奄美大島を例外としては見てない。

(前略)私の住んでいる島がたとえ本土に似たけわしい山々が重なりあっていようと、私の胸中に拡がり納まっている島のイメージは、快いたるみでふくらんだ低い丘の外には目をさえぎるもののない、波がそこのところで白く裏返る裾礁を持った珊瑚礁の島だ。(「島の中と外」)

 島尾の目に琉球弧はサンゴ礁の島々として映った。そのときの島は、「せまい小さな孤島ではなくて、なにかいいあらわすことのできない広さとして」(「与論島のモチーフ」)捉えられることになった。月夜の与論島で、島尾は「浜辺の砂丘と海原との区別を失い、どこまでも目のさえぎるもののない、大地のつらなりのなかにいるような錯覚からぬけだせなかった」(「季節通信」)。サンゴ礁を媒介にして陸地としての島の境界は溶けるのだ。

 実際、島の境界はサンゴ礁を区切りにして表すのがいい。そうしてみれば、たとえば宮古群島は、宮古島、池間島、伊良部島、来間島、そして広くみれば大神島までがひとかたまりの島として見えてくるだろう。八重山にしても、石垣島と西表島という大きな島のあいだに小さな島があるのではなく、石垣と西表を両極にしたひとかたまりの島として浮かび上がってくる。島の世界はそう捉えると、よく見えてくることがあるのだ。

 しかし、沖縄や先島を旅した後には、与論島で捉えた「広さ」はもっと拡張されることになった。

 島のかたちの小ささは押さえたつもりでいても、感覚的には海と空との境界の不分明な広がりを沖縄は持っていて、ひとつの限られた場所に追いつめることのできない広い世界につながっているところがある。(「琉球弧の吸引的魅力」)

 サンゴ礁の島とは、サンゴ礁を通じて海と空ともつながり、溶けあった世界なのだ。

 日常の発想さえちがうと言うとき、その基盤にサンゴ礁がある。わたしはここで島尾の言葉を引き取る。するとそれは語り出す。幻想の足場はサンゴ礁にある。島人よ、そこに立て。そこから立ち上るものによって言葉を生み出し、語りを編み直せ、と。

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2017/02/02

島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう

 島尾敏雄の琉球弧はどこまでたどり着いていたのか。「総合的な報告」に挫折した島尾に代わって、わたしたちはそれを探ってみよう。

 島尾は「ただ通りすがりにまなざしをかわし合っただけの人々でさえ、どうしてみんなあのように人なつこく、あるやさしさをたたえることができたのか」(「沖縄・先島の旅」)というところに「南島理解の鍵」(同前)を見出す人だった。そこには本土の人の「表情に乏しい硬さ」(「多くの可能性を秘めた島々」)、「こわばりついた仮面」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)がない。と、ここまでは今でも本土の人が無意識に惹かれることと同じだと言えるかもしれない。

 しかし、それを「武士」が育たなかったことと関連づけたのは島尾の着眼だった。その視線は女性にも向けられて、彼は本土風の「しな」を見ることができないことに気づいている。「琉球弧では和服を狩猟民が着物をまとうように闊達に着ている」(「私の中の琉球弧」)という指摘にいたっては、これは島人でも言われなければ分からない洞察だった。

 島尾の気づきは多岐に渡っている。墓には「本土のそれのようなじめじめした暗さがあまり感じられない」(「奄美の墓のかたち」)。「五代ほど前の先祖たちでさえなお昨日の人のような具体性を備えているかのよう」(「名瀬だより2その気候」)に語られる。生者と変わらないのだ。また、薩摩藩時代に「隷属的な身分」である「ヤンチュ」が生み出されたとしても、「本土におけるような差別的ないわゆる「部落」を見つけることはできない」(「名瀬だより7災厄―台風とハブと癩と」)ことにも気づいていた。

 ただ、島に「暗さ」がないわけではない。

 島尾は昭和のはじめまで、「らい者だけが集団をなし、部落から遠くはなれ村人が誰もこないような一般にヒジャといわれる海辺の場所で、ユナギの下にあばらやをつくり、一種の共同生活をしていた事実がある」(同前)と指摘している。その暗さを最も象徴しているのは島尾が注で紹介している挿話だ。

 「肌の美しい女」がいた。女は大和人の行商人と一緒になり、四人の男の子を生む。しかし自分が癩になったのを知って、集落から離れたヒジャに移り親子六人の孤立した生活を送る。そのうえ、大和人の夫はヒジャの掘立小屋で死んでしまう。女は、小屋の周囲で芋と野菜をつくる他、ひとりで物乞いをして子供たちを育て、上の二人をやっと就職させるところまでこぎつけた。けれどある夜、女は末の子の首に縄をつけて殺してしまう。三男が逃げた先の親戚の知らせで女は駐在に呼ばれ、「やぶれ衣のまま庭先にじかに坐って調書をとられた」。泣く泣く調書に答え、いったん帰宅を許された夜、女は「小屋の横のユナギに首をくくって死んだ」。

 悲惨で痛ましい出来事と言うしかない。ヒジャは海辺でも砂浜ではなく、岩場の多いところに付けられた地名であり、ユナギ(オオハマボウ)の葉は島ではトイレットペーパーだったのだから、女が首をくくったのは厠の横だったことになる。そういう絵を加えれば悲惨さはさらに増すだろう。

 それでも、この挿話がそれだけに収まらないのは、琉球弧の神話的な思考ではユナギは世のはじめからあった聖なる植物であり、海辺も人がそこから生まれると考えられた聖なる場だからである。ヒジャのユナギの下から人間が出てきたという創生神話があっても不思議ではないのだ。この挿話はそういう神話的な装いを帯びるところがある。これは民話や伝承ではなく、郷土研究会を立ち上げ運営しながら、寄稿することもなく世話役に徹した島尾が記録した数少ないエピソードなのだが、島尾は知らず知らずのうちに彼がつかみたいと思っていることに近づいていた。

 話しを戻そう。

 本土と琉球弧の差異を的確に指示した島尾だが、ひるがえって琉球弧を均質に見ていたのではなかった。「おおまかにいって南に行くに従って琉球度(仮にそのようなものを想定して)が濃くなると考えていいが」「むしろ奄美にそれの濃い部分があるのも確かめることができた」(「奄美・沖縄・本土」)と、はじめての沖縄の旅のすぐ後には島々の差異にも気づいている。

 わたしは奄美には「風土や人々の風貌と気質」以外に、人間の作った文物の手がかりがないことも、島尾の「総合的な報告」を挫折に追い込んだ一因と見なしたが、島尾が奄美に何も見出せなかったわけではなかった。

 島尾は奄美大島の島人の「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚いている。しかしそれを欠如として見るだけではなく、「奄美のこころでありからだ」(「大島のふしぎ」)として「しまうた」を見出している。ただ、あれだけの「しまうた」がありながら「文学的表現が成立しないのは不思議」(「文学果つるところ」)というように、残念がってもいる。ここで島尾は、芸術的な表現や記録の欠如に嘆くだけではなく、しまうたや「大島紬の製作工程」(「大島のふしぎ」)への着眼の向こうに、文字を持たない思考を「有」あるいは「過剰」として見出せばよかったのだ。

 ただし、島尾はそこにも気づかないわけではなかった。

 まだ「琉球弧」という概念を編み出す前に、彼は「アマミの生活の基本的なさびしさは一個の廃墟(中略)を持たないことのような気がする」、と直感する。ここでいう「廃墟」とは、人間が作った文物のことであり、島尾の言い方ではそれは「人間くさい造形物」(「奄美―日本の南島)とも言えた。

(前略)アマミの島々を構成する地質が微小動物の殻や珊瑚虫の骨格の集合であり、島ぐるみ巨大な構造物の廃墟だとすれば、アマミは一個の廃墟ももたないと断言したことは取り消さなければなるまい。むしろ巨大な廃墟の中で、現になお現実の生活を展開しているアマミの人々の生活というものは、その言い知れぬ魅力をそのへんの事情に根ざしているのかもしれない。(「悲しき南島地帯」)

 何もないわけではないという点については、その後の考古学的成果を知らないという時代的な制約はある。また、こういう島尾が、老女の手にはまだ見ることができただろう刺青に目を留めなかったのは不思議に思える。しかしここで島人の生活が巨大なサンゴの上に営まれていることに着目したところは、明らかに「琉球弧の姿を明らかにする」ことへ手をかけていた。

 そののち、島尾は沖縄への旅で得たものを手がかりにしながら、「沖縄の土地がらが持つ、亜熱帯と隆起珊瑚礁地帯の性格が、人々の発想や挙措にまでしみこんでいて、そこのところは必ずしも本土の昔に重なるわけではない」(「沖縄紀行」)ところまで洞察を深めていった。そしてそれは、奄美大島を離れて三年後、一九七八年に語った、「日常の発想さえ本土の人とはちがうんじゃないか」(「琉球弧の感受」)という言葉に結実している。

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2017/02/01

島尾敏雄の「琉球弧」 5.逆向きの生

 奄美大島に移住する直前に書いたのが「加計呂麻島」(一九五五年)という文章だった島尾は、符合させるように、奄美大島での最後の文章を「加計呂麻島吞之浦」(一九七五年)と題する。

 島尾はそこで、「私は加計呂麻島にこそ住むべきであったかもしれぬ」と書いている。これはある意味でその通りだった。たどり着くのに時間がかかるという意味では、加計呂麻島は今でも離島らしさを失っておらず、野生の衰退と近代化の波は、北琉球弧最大の都市である名瀬に比べたらはるかにゆるやかにやって来ただろうから。しかしそれと同じ理由で、加計呂麻島では、島により強く当てられて疎外感もいっそう強まるのだとしたら、旅人の視線を立ち上げられなくなるのは同じだったかもしれない。それに、生はおいそれと選べるようにはできていない。

 島に当てられることについて、島尾はこんな風に説明したことがあった。

 島人は、「島の外から来た人をものすごく大事にする」(「回帰の想念・ヤポネシア」)から、「竜宮に行って来たような感じ」(同前)を本土の人は持つ。これは日本の型でもあるが、島ではそれが非常に強い。けれど、その気になって再訪してみると、「そっぽを向かれてしまった」ということもありうる。島には「島の外から来る者を受け入れないところも同時にある」。「まれ人を歓迎することは嘘じゃないんだけれども、その後も長くずっと引き続いて、とういうわけにはいかない」のだ。

 これはそのまま島尾の体験でもあった。島尾は、敗戦に至る十か月余りを加計呂麻島で、奄美復帰の直後からの二十年近くを名瀬で過ごしたが、加計呂麻島は「竜宮」であり、名瀬に再訪するものの、そこは「竜宮」を閉じた島になっていた。島尾自身、「ずっと短かった加計呂麻での体験の方がむしろ底深く圧倒的である」(「加計呂麻島吞之浦」)としているくらいだ。

 島尾は「古事記」一冊を持って加計呂麻島を訪れた。すると、島は「古事記」さながらに「太古の霧にとざされているふう」(「名瀬だより10民間信仰」)だった。「歴史の透明な場所」にやってきた島尾には、「身近の時代を素通りしてスサノオやヤマトタケルと同じ感情で当分のあいだ生活することが可能なよろこびがあった」(同前)。 

 しかも島尾は特攻隊の隊長なのだから、「まれ人」のなかのまれびととして、半身に野生を残した加計呂麻の島人から大いに歓迎されただろうことは想像に難くない。なかでも、島尾に応えたのは、巨大な野生の感性を抱えながら、万葉集を踏まえて歌を詠むこともできる、ちょっと当時の島では考えられない知識を持ったミホだった。スサノオ気分を満たしてくれるミホと、自分の知識と感性をぶつけても応答する力量を持った敏雄のふたりが出会ったのである。これだけの条件でも、ふたりの恋愛が神話的なベールをまとわせることになるのは想像するまでもない。まるで用意された舞台のようではないか。

 しかし神話の英雄気取りは、突然訪れる敗戦で断絶し、後にはどこまでも続く日常が待っていた。そして結婚した二人は、よく知られているような過酷な生活を送ることになる。その最大の犠牲者は彼らの子供たちだったろう。

 そこからみれば、島尾のスサノオ気取りはいい気なものだったと言えばいえる。

 けれども忘れるべきではない。島尾隊は、八月十三日にポンコツな魚雷艇震洋で敵艦に体当たりする出撃命令を受ける。そのうえに、発進の号令のない待機状態のまま、八月十五日を迎えたのだ。

 このことは現在のわたしたちにはとても想像しにくい。だが、死ぬことをうべなった島で「死の出撃」を待ったまま、ふいに中止になったのである。臨死体験というのでもない。死の直前まで強いられて歩んだ人が、こんどは生の方へと歩みを進めなくてはならなかったのだ。それは死に向かって生きるふつうの生とは異なり、いわば逆向きに生に戻らなければならない困難を伴うのではないだろうか。まるで死後のような生を、生きた人として歩かなければならないとでもいうような。

 「自分には不幸が訪れてこないから、とても小説など書ける環境にはない」(「琉球弧から」)と思っていた島尾は、特攻隊という「奇妙なそういう場に置かれ、そして生きて帰って来た」体験は「小説に書ける」と、そう思う。しかし、この「不幸」は島尾が思う以上に「不幸」なのではないだろうか。そうだとしたら、この「逆向きの生」の持つ「不幸」を島尾がもう少し自覚していれば、家族を巻き込んだ、近代作家の倒錯的な「不幸」探しを避けることもできたのではないかという思いが過ぎる。生は思う通り選べるようにはできていないにしても、そこにひとつの可能性を見ておきたい気がする。

 ただ、自覚するかどうかはともかく、この「不幸」は島尾の心に食い込んでいた。島尾の「総合的な報告」が挫折するのは、閉じた「竜宮」に突き当たったことに起因しているが、そこでの停滞と沈潜には、島尾が抱えた生の困難が鈍く脈打っていたのではないだろうか。

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