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2017/02/03

島尾敏雄の「琉球弧」 7.サンゴ礁地帯

 日常の発想すら違うという洞察は、「ヤポネシアの視点」からまっすぐにやってきたものだ。

 結局のところ、被害、加害の視点でつかまえられることではなく、まず必要なことは琉球弧の本来のすがたを、ヤマトの追いかぶさりの目を排除しつつ明らかに立てることである。もちろん大根のところでは立っているのだけれど、それを表現としてはっきりあらわすとのように思う。(「琉球弧に住んで十六年」)

 もともとヤポネシアの発想は、日本列島を「花ざかりの島々」と見る島尾が、太平洋に視線をずらしたときに、そこにも似た島々のあることを見出したところからやってきている。島尾は話している。「南洋の土人」という考え方が出てきがちだがそれは正確ではない。そうではなく、「南太平洋の島々の生活には、それらの島々に適した生活がおこなわれているのであって、そういう意味において、ポリネシア、インドネシア、ヤポネシア、メラネシア、ミクロネシアなどの同じような生活をする島嶼群があるのだと考えたらどうか」(「私の見た奄美」)、と。近代化に血眼になっていた島人はこう言われて、内心反発しただろう。しかし、これは島人が考えている以上の深度から島を掬いあげる言葉だった。

 この視線ずらしが左を向いていたのを右にしてみたという思いつきに留まらないのは、「日本文化の素性を考える時に、あまりに大陸のことを意識しすぎている」(同前)内省を伴うからだ。その証拠に、わたしたちは今でも島尾の指摘にはっとさせられるのではないだろうか。

 興味深いことに島尾は、「ヤポネシア」という概念を初めて公表した直後に、奄美大島について、「実は大陸からうつしかぶせられたうろこの最も少ない場所ではなかろうかという考えがはっきりしてきたときに、私をしばりつけてはなさぬ意思を、この島の中に感じた」(「ふるさとを語る」)と書いている。ただ、視線をずらしてみただけではない。そこには、大陸の影響が薄いのではないかという考えが伴っていた。

 これは、中国の影響が造形物にも見られる沖縄ではないから言えたのではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾は戦中の加計呂麻島で、古老が「中国との合併」を「親もとにもどるような具合に情愛をこめて」(「名瀬だより10民間信仰」)話すのを聞いている。中国との関わりがあったのを知らないわけではない。けれどもおそらく島尾は、「仏教も儒教もこの島を覆うことはできなかった」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)という、より古層へと目を向けていたのだ。

 太平洋の島々の延長に日本列島を見出したヤポネシアの発想は、大陸からの影響が少ないと考えられた琉球弧の存在に促されている。しかしここまでくると、このことの他にももうひとつ、ヤポネシアの発想を促したものがあることが見えてくる。

 それは、琉球弧が「珊瑚礁地帯」(同前)であることだ。

 つまり、島尾がヤポネシアを発想したのは、日本列島も太平洋の島々として見ることができるという地理的な位置のことばかりではなかったというとき、大陸の影響度が低いということの他に、琉球弧がサンゴ礁地帯であることが、もうひとつの媒介になって、日本列島を太平洋の島々に連ねてみる視点は獲得されたのだ。この、「本土をはみ出す」(「ふるさとを語る」)琉球弧の要素を梃に、島尾は琉球弧の北に延びる島々を含めて、日本列島を太平洋の島々につなげているのである。

 島尾はここで、「珊瑚礁地帯」であることより、大陸からの影響が少なかったことを、島が「私をしばりつけてはなさぬ意思」として力点を置いているが、島尾敏雄が解き明かした琉球弧を追うには、「珊瑚礁地帯」として見ていたことの方へ目を向けてみなければならない。

 振り返ってみれば、旅人が入り込もうとすると閉じてしまう「部落」のことを、島尾は「一個の珊瑚石灰岩」にたとえていた。また、奄美大島には「廃墟」が何もないと嘆くのを思い留まるように、地表を覆うサンゴ岩を「巨大な廃墟」として見てもいた。島尾の琉球弧には、いつもこのサンゴ礁の島という視線が伏流していたのだ。

 島尾は「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を打ち出す前に、すでにこう書いていた。

 アマミが、それぞれの島によって多少の変化を示しながら、一般に珊瑚礁と石灰岩の溶蝕地形の景観を背景にしていることは、ガジマルとアダンとソテツの植物群から受ける感受と共に、古い島の人々の精神の世界を限定してきたと思えるが、それは月光の下で一層高い香りを放ちながら、風格のある人間のタイプをつくってきたと考えないわけにいかない。(「悲しき南島地帯」)

 奄美大島に移り住んで四年ほどが経ったとき、島尾はすでに捉えるべきものを正確に見据えていたのだ。実はこれを奄美大島で洞察するのは難しいはずだった。なぜなら、琉球弧は、北へいくほどサンゴ礁の島らしい景観は希薄になるからだ。しかし、彼は奄美大島を例外としては見てない。

(前略)私の住んでいる島がたとえ本土に似たけわしい山々が重なりあっていようと、私の胸中に拡がり納まっている島のイメージは、快いたるみでふくらんだ低い丘の外には目をさえぎるもののない、波がそこのところで白く裏返る裾礁を持った珊瑚礁の島だ。(「島の中と外」)

 島尾の目に琉球弧はサンゴ礁の島々として映った。そのときの島は、「せまい小さな孤島ではなくて、なにかいいあらわすことのできない広さとして」(「与論島のモチーフ」)捉えられることになった。月夜の与論島で、島尾は「浜辺の砂丘と海原との区別を失い、どこまでも目のさえぎるもののない、大地のつらなりのなかにいるような錯覚からぬけだせなかった」(「季節通信」)。サンゴ礁を媒介にして陸地としての島の境界は溶けるのだ。

 実際、島の境界はサンゴ礁を区切りにして表すのがいい。そうしてみれば、たとえば宮古群島は、宮古島、池間島、伊良部島、来間島、そして広くみれば大神島までがひとかたまりの島として見えてくるだろう。八重山にしても、石垣島と西表島という大きな島のあいだに小さな島があるのではなく、石垣と西表を両極にしたひとかたまりの島として浮かび上がってくる。島の世界はそう捉えると、よく見えてくることがあるのだ。

 しかし、沖縄や先島を旅した後には、与論島で捉えた「広さ」はもっと拡張されることになった。

 島のかたちの小ささは押さえたつもりでいても、感覚的には海と空との境界の不分明な広がりを沖縄は持っていて、ひとつの限られた場所に追いつめることのできない広い世界につながっているところがある。(「琉球弧の吸引的魅力」)

 サンゴ礁の島とは、サンゴ礁を通じて海と空ともつながり、溶けあった世界なのだ。

 日常の発想さえちがうと言うとき、その基盤にサンゴ礁がある。わたしはここで島尾の言葉を引き取る。するとそれは語り出す。幻想の足場はサンゴ礁にある。島人よ、そこに立て。そこから立ち上るものによって言葉を生み出し、語りを編み直せ、と。

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