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2017/02/02

島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう

 島尾敏雄の琉球弧はどこまでたどり着いていたのか。「総合的な報告」に挫折した島尾に代わって、わたしたちはそれを探ってみよう。

 島尾は「ただ通りすがりにまなざしをかわし合っただけの人々でさえ、どうしてみんなあのように人なつこく、あるやさしさをたたえることができたのか」(「沖縄・先島の旅」)というところに「南島理解の鍵」(同前)を見出す人だった。そこには本土の人の「表情に乏しい硬さ」(「多くの可能性を秘めた島々」)、「こわばりついた仮面」(「名瀬だより1名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」)がない。と、ここまでは今でも本土の人が無意識に惹かれることと同じだと言えるかもしれない。

 しかし、それを「武士」が育たなかったことと関連づけたのは島尾の着眼だった。その視線は女性にも向けられて、彼は本土風の「しな」を見ることができないことに気づいている。「琉球弧では和服を狩猟民が着物をまとうように闊達に着ている」(「私の中の琉球弧」)という指摘にいたっては、これは島人でも言われなければ分からない洞察だった。

 島尾の気づきは多岐に渡っている。墓には「本土のそれのようなじめじめした暗さがあまり感じられない」(「奄美の墓のかたち」)。「五代ほど前の先祖たちでさえなお昨日の人のような具体性を備えているかのよう」(「名瀬だより2その気候」)に語られる。生者と変わらないのだ。また、薩摩藩時代に「隷属的な身分」である「ヤンチュ」が生み出されたとしても、「本土におけるような差別的ないわゆる「部落」を見つけることはできない」(「名瀬だより7災厄―台風とハブと癩と」)ことにも気づいていた。

 ただ、島に「暗さ」がないわけではない。

 島尾は昭和のはじめまで、「らい者だけが集団をなし、部落から遠くはなれ村人が誰もこないような一般にヒジャといわれる海辺の場所で、ユナギの下にあばらやをつくり、一種の共同生活をしていた事実がある」(同前)と指摘している。その暗さを最も象徴しているのは島尾が注で紹介している挿話だ。

 「肌の美しい女」がいた。女は大和人の行商人と一緒になり、四人の男の子を生む。しかし自分が癩になったのを知って、集落から離れたヒジャに移り親子六人の孤立した生活を送る。そのうえ、大和人の夫はヒジャの掘立小屋で死んでしまう。女は、小屋の周囲で芋と野菜をつくる他、ひとりで物乞いをして子供たちを育て、上の二人をやっと就職させるところまでこぎつけた。けれどある夜、女は末の子の首に縄をつけて殺してしまう。三男が逃げた先の親戚の知らせで女は駐在に呼ばれ、「やぶれ衣のまま庭先にじかに坐って調書をとられた」。泣く泣く調書に答え、いったん帰宅を許された夜、女は「小屋の横のユナギに首をくくって死んだ」。

 悲惨で痛ましい出来事と言うしかない。ヒジャは海辺でも砂浜ではなく、岩場の多いところに付けられた地名であり、ユナギ(オオハマボウ)の葉は島ではトイレットペーパーだったのだから、女が首をくくったのは厠の横だったことになる。そういう絵を加えれば悲惨さはさらに増すだろう。

 それでも、この挿話がそれだけに収まらないのは、琉球弧の神話的な思考ではユナギは世のはじめからあった聖なる植物であり、海辺も人がそこから生まれると考えられた聖なる場だからである。ヒジャのユナギの下から人間が出てきたという創生神話があっても不思議ではないのだ。この挿話はそういう神話的な装いを帯びるところがある。これは民話や伝承ではなく、郷土研究会を立ち上げ運営しながら、寄稿することもなく世話役に徹した島尾が記録した数少ないエピソードなのだが、島尾は知らず知らずのうちに彼がつかみたいと思っていることに近づいていた。

 話しを戻そう。

 本土と琉球弧の差異を的確に指示した島尾だが、ひるがえって琉球弧を均質に見ていたのではなかった。「おおまかにいって南に行くに従って琉球度(仮にそのようなものを想定して)が濃くなると考えていいが」「むしろ奄美にそれの濃い部分があるのも確かめることができた」(「奄美・沖縄・本土」)と、はじめての沖縄の旅のすぐ後には島々の差異にも気づいている。

 わたしは奄美には「風土や人々の風貌と気質」以外に、人間の作った文物の手がかりがないことも、島尾の「総合的な報告」を挫折に追い込んだ一因と見なしたが、島尾が奄美に何も見出せなかったわけではなかった。

 島尾は奄美大島の島人の「芸術的な表現の造型や記録に対するすさまじいほどの恬淡(てんたん)」さに驚いている。しかしそれを欠如として見るだけではなく、「奄美のこころでありからだ」(「大島のふしぎ」)として「しまうた」を見出している。ただ、あれだけの「しまうた」がありながら「文学的表現が成立しないのは不思議」(「文学果つるところ」)というように、残念がってもいる。ここで島尾は、芸術的な表現や記録の欠如に嘆くだけではなく、しまうたや「大島紬の製作工程」(「大島のふしぎ」)への着眼の向こうに、文字を持たない思考を「有」あるいは「過剰」として見出せばよかったのだ。

 ただし、島尾はそこにも気づかないわけではなかった。

 まだ「琉球弧」という概念を編み出す前に、彼は「アマミの生活の基本的なさびしさは一個の廃墟(中略)を持たないことのような気がする」、と直感する。ここでいう「廃墟」とは、人間が作った文物のことであり、島尾の言い方ではそれは「人間くさい造形物」(「奄美―日本の南島)とも言えた。

(前略)アマミの島々を構成する地質が微小動物の殻や珊瑚虫の骨格の集合であり、島ぐるみ巨大な構造物の廃墟だとすれば、アマミは一個の廃墟ももたないと断言したことは取り消さなければなるまい。むしろ巨大な廃墟の中で、現になお現実の生活を展開しているアマミの人々の生活というものは、その言い知れぬ魅力をそのへんの事情に根ざしているのかもしれない。(「悲しき南島地帯」)

 何もないわけではないという点については、その後の考古学的成果を知らないという時代的な制約はある。また、こういう島尾が、老女の手にはまだ見ることができただろう刺青に目を留めなかったのは不思議に思える。しかしここで島人の生活が巨大なサンゴの上に営まれていることに着目したところは、明らかに「琉球弧の姿を明らかにする」ことへ手をかけていた。

 そののち、島尾は沖縄への旅で得たものを手がかりにしながら、「沖縄の土地がらが持つ、亜熱帯と隆起珊瑚礁地帯の性格が、人々の発想や挙措にまでしみこんでいて、そこのところは必ずしも本土の昔に重なるわけではない」(「沖縄紀行」)ところまで洞察を深めていった。そしてそれは、奄美大島を離れて三年後、一九七八年に語った、「日常の発想さえ本土の人とはちがうんじゃないか」(「琉球弧の感受」)という言葉に結実している。

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