« 島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景 | トップページ | 島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう »

2017/02/01

島尾敏雄の「琉球弧」 5.逆向きの生

 奄美大島に移住する直前に書いたのが「加計呂麻島」(一九五五年)という文章だった島尾は、符合させるように、奄美大島での最後の文章を「加計呂麻島吞之浦」(一九七五年)と題する。

 島尾はそこで、「私は加計呂麻島にこそ住むべきであったかもしれぬ」と書いている。これはある意味でその通りだった。たどり着くのに時間がかかるという意味では、加計呂麻島は今でも離島らしさを失っておらず、野生の衰退と近代化の波は、北琉球弧最大の都市である名瀬に比べたらはるかにゆるやかにやって来ただろうから。しかしそれと同じ理由で、加計呂麻島では、島により強く当てられて疎外感もいっそう強まるのだとしたら、旅人の視線を立ち上げられなくなるのは同じだったかもしれない。それに、生はおいそれと選べるようにはできていない。

 島に当てられることについて、島尾はこんな風に説明したことがあった。

 島人は、「島の外から来た人をものすごく大事にする」(「回帰の想念・ヤポネシア」)から、「竜宮に行って来たような感じ」(同前)を本土の人は持つ。これは日本の型でもあるが、島ではそれが非常に強い。けれど、その気になって再訪してみると、「そっぽを向かれてしまった」ということもありうる。島には「島の外から来る者を受け入れないところも同時にある」。「まれ人を歓迎することは嘘じゃないんだけれども、その後も長くずっと引き続いて、とういうわけにはいかない」のだ。

 これはそのまま島尾の体験でもあった。島尾は、敗戦に至る十か月余りを加計呂麻島で、奄美復帰の直後からの二十年近くを名瀬で過ごしたが、加計呂麻島は「竜宮」であり、名瀬に再訪するものの、そこは「竜宮」を閉じた島になっていた。島尾自身、「ずっと短かった加計呂麻での体験の方がむしろ底深く圧倒的である」(「加計呂麻島吞之浦」)としているくらいだ。

 島尾は「古事記」一冊を持って加計呂麻島を訪れた。すると、島は「古事記」さながらに「太古の霧にとざされているふう」(「名瀬だより10民間信仰」)だった。「歴史の透明な場所」にやってきた島尾には、「身近の時代を素通りしてスサノオやヤマトタケルと同じ感情で当分のあいだ生活することが可能なよろこびがあった」(同前)。 

 しかも島尾は特攻隊の隊長なのだから、「まれ人」のなかのまれびととして、半身に野生を残した加計呂麻の島人から大いに歓迎されただろうことは想像に難くない。なかでも、島尾に応えたのは、巨大な野生の感性を抱えながら、万葉集を踏まえて歌を詠むこともできる、ちょっと当時の島では考えられない知識を持ったミホだった。スサノオ気分を満たしてくれるミホと、自分の知識と感性をぶつけても応答する力量を持った敏雄のふたりが出会ったのである。これだけの条件でも、ふたりの恋愛が神話的なベールをまとわせることになるのは想像するまでもない。まるで用意された舞台のようではないか。

 しかし神話の英雄気取りは、突然訪れる敗戦で断絶し、後にはどこまでも続く日常が待っていた。そして結婚した二人は、よく知られているような過酷な生活を送ることになる。その最大の犠牲者は彼らの子供たちだったろう。

 そこからみれば、島尾のスサノオ気取りはいい気なものだったと言えばいえる。

 けれども忘れるべきではない。島尾隊は、八月十三日にポンコツな魚雷艇震洋で敵艦に体当たりする出撃命令を受ける。そのうえに、発進の号令のない待機状態のまま、八月十五日を迎えたのだ。

 このことは現在のわたしたちにはとても想像しにくい。だが、死ぬことをうべなった島で「死の出撃」を待ったまま、ふいに中止になったのである。臨死体験というのでもない。死の直前まで強いられて歩んだ人が、こんどは生の方へと歩みを進めなくてはならなかったのだ。それは死に向かって生きるふつうの生とは異なり、いわば逆向きに生に戻らなければならない困難を伴うのではないだろうか。まるで死後のような生を、生きた人として歩かなければならないとでもいうような。

 「自分には不幸が訪れてこないから、とても小説など書ける環境にはない」(「琉球弧から」)と思っていた島尾は、特攻隊という「奇妙なそういう場に置かれ、そして生きて帰って来た」体験は「小説に書ける」と、そう思う。しかし、この「不幸」は島尾が思う以上に「不幸」なのではないだろうか。そうだとしたら、この「逆向きの生」の持つ「不幸」を島尾がもう少し自覚していれば、家族を巻き込んだ、近代作家の倒錯的な「不幸」探しを避けることもできたのではないかという思いが過ぎる。生は思う通り選べるようにはできていないにしても、そこにひとつの可能性を見ておきたい気がする。

 ただ、自覚するかどうかはともかく、この「不幸」は島尾の心に食い込んでいた。島尾の「総合的な報告」が挫折するのは、閉じた「竜宮」に突き当たったことに起因しているが、そこでの停滞と沈潜には、島尾が抱えた生の困難が鈍く脈打っていたのではないだろうか。

|

« 島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景 | トップページ | 島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/64816329

この記事へのトラックバック一覧です: 島尾敏雄の「琉球弧」 5.逆向きの生:

« 島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景 | トップページ | 島尾敏雄の「琉球弧」 6.日常の発想さえちがう »