「琉球王国・王権思想の形成過程」(比嘉実)
比嘉実は、若太陽思想と太陽子思想を区別すべきだとしている。
『おもろさうし』を見る限り、按司は太陽と同一視されていて、そこに太陽子思想はみられない。比嘉によれば、それは尚清王の時代に成立するものだ。
日神を独占し、日神の末裔である王を論理化するために、尚清王の時、王朝の始祖伝承説話としての太陽子思想が受容され、そして、ほぼ同時期に「天の日子」という言葉が示すように、日光感精説話と天の思想を合一して、尚王朝の王権を正当化する論理が形成されたのではないだろうか。
尚清王は16世紀の存在だから、ずいぶん遅いことになる。この真偽をまだ言えないので、比嘉の論に従って考えてみたい。
比嘉も検証しているように、日光感精説話自体は相当の古さを持つ。ただし、琉球弧に受容されたのはグスク時代をさかのぼらないと考えられる。
奄美でユタの祖を語る日光感精説話を下敷きにすれば、御嶽を建てたとき、根人は「太陽の妻の子」を任じることになる。根神も同様だが、根神は太陽を対幻想の対象にしている。内在的にいえば、この太陽の妻の子のなかから、太陽と同一視される按司が生まれてくることになる。
按司は、男性である太陽と同一視された。しかし、比嘉によれば王権はそこに王を「天」と結びつけるために日光感精説話を招来したとしている。ぼくたちの文脈からいえば、ここは改めて招来したことになる。
祝女にしても聞得大君にしても、太陽は対幻想の対象だった。それはつまり、祝女はアマテラスにはならなかったことを意味している。「太陽の妻であり続けたのだ」。
琉球弧では、原ユタは女性である太陽を生み出す存在だった。それが、太陽が男性へ転換されることによって、ユタの祖は「太陽の妻」へという転落を余儀なくされる。この転落は外在的であったはずだ。
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