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2017/01/21

「宿と宿神」(谷川健一)

 谷川健一は、シュクの芸能民の祀る宿神について書いている。

(前略)その宿神の実態は、奈良坂の夙人の場合は春日神であったが、禅竹は『明宿集』で宿神は「翁」であるとし、春日神と翁は一体であると云っている。
『明宿集』における禅竹の発想はそれにとどまらない。宿神である翁はさまざまな形で示現する。煩を厭わず羅列すれば、住吉大明神、諏訪明神、塩釜の神、塩土の翁、柿本人麻呂、在原業平、聖徳太子、秦河勝などきりがない。このように多くの神々や人物が翁として示現したと主張されると、禅竹の真意が奈辺にあるか困惑せざるを得ない(「宿と宿神」「季刊東北学」2007)。

 谷川は、宿神と「翁」との結びつきに躓いている。その否定ぶりも激しい。

 私は翁が常世神から出発していると考えているから、禅竹の見境のない独善的な立論は虚妄であると云わざるをえない(「翁と翁舞の原像」)。
『明宿集』の超合理・非合理な、ある意味では独善的、恣意的なせかいにながく立ちどまる必要はない。

 しかし、谷川も「宿神」の正体に言及しているわけではない。

その一方で、シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を恭順しないものに対しては敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。摩多神は芸能神としての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。シュクと宿神の問題は奥が深くて正直なところ、底が見えにくい。

 谷川は、「翁が常世神から出発している」と考える。そうであるなら、常世神の背後にプレまれびとと言うべきスクに気づけばよかったのである。そうすれば、スクと常世神がつながり、スクと翁がつながる。禅竹の『明宿集』を、「超合理・非合理な、ある意味では独善的、恣意的」と切って捨てる言い方をしなくて済んだ。谷川は、そのほんの一歩手前にいたのだと思える。

 ぼくがこの「宿と宿神」で驚いたのはふたつある。

 それは「宿」が「産所」でもあったことである。スクは、胞衣をやぶって出現するのだから、宿が産所でもあるのはもっともなことだ。

 また、夙部落の地名にアジマがある。これなど、アジケー、アザカと同じではないか。スクはシャコ貝と同居しているのだ。

 「被差別部落民は骨が一本足りないということは方々で云われる」。あるところでは「肋骨が一本足りない」とさげすまされている。由来書には、「又鎌倉にも出て祝言をなす。頼朝より『証文士』の位を授かる。その状、扇に書いて下されしに、その扇の骨一本偶然に折れ損じたる故に、後世野宇津保証文士は骨が一本足らぬ等と云われるのであるとの事だ」。

 扇まで持ち出されて云われるとわかる。「骨が一本足りない」は、イザナミの死を暗示するように、貝をトーテムとした人々のことを暗示しているのではないだろうか。

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