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2017/01/15

『変魚路』(高嶺剛)

 映画を観終わると、「島ぷしゅー、ぷしゅー」と口にしていた。「ぷしゅー、ぷしゅー、島ぷしゅー」とつぶやき続けると、今の「世」に置かれた琉球弧の島人の気分と重なり合ってくる気がした。

 「島ぷしゅー」というのは、「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世から大和世」のような「世替わり」に起きた、苛烈な出来事のことだ。「ぷしゅーっ」は爆発音のことだと説明される。でも、音そのものは、缶ビールを開けた時を思い出させる。ただ、それほどにも威勢よくはなく、どちらかといえば、浮き輪の栓を抜いてぺしゃんこにしていくときの脱力的な気抜けた感じだ。「大主(うぷしゅう)」の語頭母音を脱落させた言葉にも聞こえてくる。もちろんこれは監督の造語で言葉遊びなのだが、それは単なる遊びではなく、もともとの意味を離れて身体性に引き寄せる琉球語感覚の本領なのだ。

 主人公のタルガニは琉球弧の古典的な名前だが、相棒のパパジョーは英語名ながら、琉球語でp音は頻出するし、ジョーも井泉の意味を持つのだから、パパジョーもありそうな琉球語っぽく聞こえてくる。

 実際、「島ぷしゅー」後の「世」は奇妙な世界だ。そこでは、人は脱皮をして再生するのに、石膏を肌に塗って身体模型を作ってもらいそれを爆破することですっきりするというややこしい手続きを踏まなければならない。石膏を剥がすときに皮膚ごとはがれてしまう場合もあるが、それが気持ちいいという人もいるところに脱皮の記憶はようやく保たれている。化身も整形をしなければできないし、それもせいぜい他人になることしかできない。

 あらぬ嫌疑をかけられて逃避行することになるタルガニとパパジョーは、トンネルをくぐって、いわば「あの世」へと抜けるのだが、「この世」も「ぷしゅー」だから、「あの世」も「ぷしゅー」な世界でしかない。「たいした必然性も感じないまま、パタイ村を脱出するのであった」とナレーションが入るように、「この世」と「あの世」の断絶感もない。しかもパタイ(死)村を脱出すると言っても近所をウロウロするような逃避行なのだ。いわば、「この世」と「あの世」は重なり合って、ことが前に進まない。ふたりが生活の糧にしている芝居も、同じところで止まってしまい、「忘れてはいないが、セリフが出てこない」。いわば「大主」不在の世界なのだ。

 けれど、そこで時は反復モードが優勢になってくる。そうやって映画が進行するなかで出てくるのが、琉球原人や蛇やトカゲやヤドカリ、渚やサンゴ石やサンゴ礁の岩場だ。反復する時間は過去に遡行して、島人を生んだ動植物や自然物と交感するところまで、ここは「ぷしゅーっ」とではなくすっと行ってしまう。三人で行動していつも濡れていないといけないビビジョーは、魚の群れにも見えるが、濡れてないと燃えてしまうところは貝の化身としての女性そのものだ。そして観ている方は、そんな解釈を抜きにしても、折り畳まれた無数の映像断片から次第に人の夢の世界に入りこんだような感覚に囚われていく。

 高嶺剛監督が、愛着を持った沖縄方言や沖縄芝居、そしてその方法を通じて、浮かび上がらせるのは、やはり琉球弧らしさというか、古層の琉球弧の空気や雰囲気だ。一方、観る者は、不思議な夢をみるように『変魚路』を愉しむことになる。

 夢の自立あるいは分離、あるいは夢自体という言葉が浮かぶ。また観る機会があれば、さらに愉しみを見つけ出せるだろうけれど、その機会があるか分からない。ただ、もっと夢を自立させて、脱皮も化身も自在な琉球弧のサンゴ礁の神話世界を観たいし作りたいという想いを膨らませることになった。 

 

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