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2017/01/04

『呪術世界と考古学』(佐野大和)

 佐野大和は未知の人だけれど、『呪術世界と考古学』は読み応えがあった。「狩猟生活に満足している人たちにとって、稲作農耕の生活は驚くほど苦痛で、かつ興味のないものであったはずである」と書く人なのだ。気が合いそうではないか。

 イザナギが黄泉の国から脱出して禊する際に、左右の手の手纏(たまぎ)から現われた神は、
 「沖サカル、辺サカル、沖っ汀彦、辺っ汀彦、沖っ貝片、辺っ貝片」であり、神話を成立させた人々の意識の底に、手纏の霊質は、「本来海からとれる貝に通ずるのだ」という観念がはっきり遺っている。こういう指摘だ。

 折口信夫は貝について書いている。

 かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。
 なるを果物にのみ考へる様になつたのは、意義の限定である。併し果物がなると言うたのも、其中にものが這入つて来るのだと考へたからで、原の形を変へないで成長するのが、熟するである。熟するといふ語には、大きく成長すると言ふ意も含んで居るのである。
 かやうに日本人は、ものゝ発生する姿には、原則として三段の順序があると考へた。外からやつて来るものがあつて、其が或期間ものゝ中に這入つて居り、やがて出現して此世の形をとる。此三段の順序を考へたのである。

 二枚貝は、「密閉して穴のあいてないのがよかった」。

 ここで「貝交易」と呼ばれているものを考えてみる。

 ゴホウラ製は男性が装着し、イモガイ製は女性が装着した。ゴホウラは女性貝であり、イモガイは男性貝である。南島の島人にとって、「貝交易」とは、大和から訪れるまれびとへの豊かな男の霊力と女の霊力の贈与」だったことになる。


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