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2017/01/31

島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景

 琉球弧の「総合的な報告」を思い立って以降、島尾はほぼ同じ言い方で繰り返し、「奄美についてなにかを書くと、奄美の実体は私の手を逃がれ遠くの方に去って行き、手のとどかぬところのものになってしまう」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と書いている。

 移住する直前には、「ぼくは沖縄に生れなかったことを後悔しているといってもいい」(「「沖縄」の意味するもの」)と吐露し、「いま島々は、しきりに私を呼び、私はふたたびその島々に、渡っていこうとしている」(「加計呂麻島」)と書いた島尾だった。この初発の心は、南の島へ移住する人が口にすることと変わりはなかった。けれど島の内側へ入り込み、島人の目を持とうとすると、島人は旅人の彼を排除してしまう。

 「私はそれをどんなにか自分の手でつかみとってみたい、と思ったことだろう」(「初発のものへの羨望」)。けれどその願いは適えられない。

たとえば島のなかの、どこかの部落にはいって行くと、その入り口に近づいたとたん、そのときまで空間いっぱいに触手をのばしひろげ、呼吸していた島の生活の放散が、つと急速に収縮してかたい一個の珊瑚石灰岩と化してしまう。どうしても開花のただなかに身を沈めて、その揺れをともにすることができない。私がその部落を立ち去ると、私の背後で音もなくそれはその固縛をほどく。(「離れに暮らして」)

 要するに、まっとうに島に当てられたのだ。

 島尾は島の野生に惹かれていた。それを象徴するのは「はだし」だ。

(前略)つい目の前を女が二人はだしで歩いて行く。骨ばった色のくろい足だ。若い方が古くなったスカートを右手でたくしあげるようにしていたので、ひざのところが見えかくれした。オーバーもレインコートもつけず、傘もささず、雨にぬれたまま、別に急ぐでもなく、色目の悪いかかとで、ぬかった道を交互にふみつけていた。その冷えこみを私は自分のあしうらに感じた。或る感動が身内を走り、泥によごれた女たちの素足から目をはずすことができない。(「島の中と外」)

 はだしで歩き雨に濡れるのもお構いなし。島尾は目を奪われるが、しかしそれはもう「町の中では見かけることが少なくなった」(同前)光景でもあった。近代化だ。

 奄美の名瀬に移り住んだ直後に、島尾は「市内バスの少女の車掌が裸足のままで乗っているような風情は(地元の新聞はそのことをみっともないと揶揄したが)もう見たくても見られなくなった」(「名瀬の正月」)とも書いていた。

 そして野生の象徴が「はだし」なら、近代化の象徴は「拡声器」だった。小山のいただきにすえつけられた拡声器からは、「朝な夕な、ときには夜ふけてからも、拡大されたふしぎなにんげんの声がそこからとびでてきて、私の頭の中の上にふりそそぐ」(「不思議な聴取計画」)のだった。島尾は耐えがたく思い、島人の賛同を得て「拡声器撤去の嘆願書」(「名瀬だより4島の中の町の現実」)まで作成して警察署に届けるが「きめ手はなかった」。やがて電灯がつき、島尾はテレビをおそれ便利におびえ、明日におびえた。

 「島が本土と地つづきになる欲望に燃えたって」(「明日のおびえ―わが政治的直言」)、名瀬は「破壊と建設の交錯した騒々しい建設現場のような殺伐な風景」(「九年目の島の春」)と化していく。そしてついに「島のことがわからくなった」(「奄美の島から」)と思わざるを得なくなる。「海の向こうの欠落した日本の方から錆が流れつき、いつのまにか島々にべったり付着してしまっていた」(同前)と書いた一九七一年には、すでに奄美を離れる心の準備はできていたということだ。

 島の共同体が旅人を排除するだけではなかった。島の全体も、島尾が心惹かれ、つかみたいと思う野生を削ぐように進んでいったのだ。

 もっと島尾の生に肉迫していえば、「妻をとおして南島をのぞく」(「沖縄・先島の旅」)方法も採っていたのだから、半身に巨大な野生を抱えた妻のミホを通じて、島の野生を捉えることもできたのかもしれないが、島尾はそうはしなかったように見える。

 風もいけなかった。奄美大島の冬は、気温はさほどでもないのに北風は肌に冷たく、島尾の望む「常夏」を感じさせてくれなかった。

 しかし、「私は奄美のかたち(風土や人々の風貌と気質)を通してしか、ものの感受を生き生きとはたらかせることができなくなりました」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)と、まっとうに島に当てられているものの、そこから「総合的な報告」に至らなかったのは、それこそ「風土や人々の風貌と気質」しか手がかりがなかったことにも依るのかもしれなかった。

 それというのも、沖縄に旅した島尾は、「憂鬱な旅人」ではなく生き生きし出すことが多いのだ。少なくとも、奄美大島のことを書くときとはちがう表情を見せるようになる。そこには望むような暖かな空気があった。それだけはなく、「風土や人々の風貌と気質」から生まれたかたちがあった。名瀬でもしばしば楽しんだ「沖縄芝居」があり、「女踊り」があり「城址」があった。島尾が沖縄で見出したのは、琉球弧を「解きあかす」(「風の怯えと那覇への逃れ」)ための、人間がつくった文物という媒介だった。

 本土に移住してさらに風が堪えるようになった島尾は、那覇での「越冬」を思いつく。この思いつきはすぐに実行に移されて、しばしば冬を那覇で過ごすことになる。こうして書かれることになる一九七八年の「那覇からの便り」は、奄美大島に移住して数年後の一九五七年から連載した「名瀬だより」が深刻な面持ちで書かれているのに対して、島尾にしては軽やかで躍る心が感じられるものだった。

 島尾は那覇の町筋のラビリンスに喜んで紛れ込んでいった。それはあたかも、いつの間にか「あの世」へ入り込んで楽しみふけるおとぎ話の主人公のようだった。

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