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2017/01/31

島尾敏雄の「琉球弧」 4.挫折の背景

 琉球弧の「総合的な報告」を思い立って以降、島尾はほぼ同じ言い方で繰り返し、「奄美についてなにかを書くと、奄美の実体は私の手を逃がれ遠くの方に去って行き、手のとどかぬところのものになってしまう」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と書いている。

 移住する直前には、「ぼくは沖縄に生れなかったことを後悔しているといってもいい」(「「沖縄」の意味するもの」)と吐露し、「いま島々は、しきりに私を呼び、私はふたたびその島々に、渡っていこうとしている」(「加計呂麻島」)と書いた島尾だった。この初発の心は、南の島へ移住する人が口にすることと変わりはなかった。けれど島の内側へ入り込み、島人の目を持とうとすると、島人は旅人の彼を排除してしまう。

 「私はそれをどんなにか自分の手でつかみとってみたい、と思ったことだろう」(「初発のものへの羨望」)。けれどその願いは適えられない。

たとえば島のなかの、どこかの部落にはいって行くと、その入り口に近づいたとたん、そのときまで空間いっぱいに触手をのばしひろげ、呼吸していた島の生活の放散が、つと急速に収縮してかたい一個の珊瑚石灰岩と化してしまう。どうしても開花のただなかに身を沈めて、その揺れをともにすることができない。私がその部落を立ち去ると、私の背後で音もなくそれはその固縛をほどく。(「離れに暮らして」)

 要するに、まっとうに島に当てられたのだ。

 島尾は島の野生に惹かれていた。それを象徴するのは「はだし」だ。

(前略)つい目の前を女が二人はだしで歩いて行く。骨ばった色のくろい足だ。若い方が古くなったスカートを右手でたくしあげるようにしていたので、ひざのところが見えかくれした。オーバーもレインコートもつけず、傘もささず、雨にぬれたまま、別に急ぐでもなく、色目の悪いかかとで、ぬかった道を交互にふみつけていた。その冷えこみを私は自分のあしうらに感じた。或る感動が身内を走り、泥によごれた女たちの素足から目をはずすことができない。(「島の中と外」)

 はだしで歩き雨に濡れるのもお構いなし。島尾は目を奪われるが、しかしそれはもう「町の中では見かけることが少なくなった」(同前)光景でもあった。近代化だ。

 奄美の名瀬に移り住んだ直後に、島尾は「市内バスの少女の車掌が裸足のままで乗っているような風情は(地元の新聞はそのことをみっともないと揶揄したが)もう見たくても見られなくなった」(「名瀬の正月」)とも書いていた。

 そして野生の象徴が「はだし」なら、近代化の象徴は「拡声器」だった。小山のいただきにすえつけられた拡声器からは、「朝な夕な、ときには夜ふけてからも、拡大されたふしぎなにんげんの声がそこからとびでてきて、私の頭の中の上にふりそそぐ」(「不思議な聴取計画」)のだった。島尾は耐えがたく思い、島人の賛同を得て「拡声器撤去の嘆願書」(「名瀬だより4島の中の町の現実」)まで作成して警察署に届けるが「きめ手はなかった」。やがて電灯がつき、島尾はテレビをおそれ便利におびえ、明日におびえた。

 「島が本土と地つづきになる欲望に燃えたって」(「明日のおびえ―わが政治的直言」)、名瀬は「破壊と建設の交錯した騒々しい建設現場のような殺伐な風景」(「九年目の島の春」)と化していく。そしてついに「島のことがわからくなった」(「奄美の島から」)と思わざるを得なくなる。「海の向こうの欠落した日本の方から錆が流れつき、いつのまにか島々にべったり付着してしまっていた」(同前)と書いた一九七一年には、すでに奄美を離れる心の準備はできていたということだ。

 島の共同体が旅人を排除するだけではなかった。島の全体も、島尾が心惹かれ、つかみたいと思う野生を削ぐように進んでいったのだ。

 もっと島尾の生に肉迫していえば、「妻をとおして南島をのぞく」(「沖縄・先島の旅」)方法も採っていたのだから、半身に巨大な野生を抱えた妻のミホを通じて、島の野生を捉えることもできたのかもしれないが、島尾はそうはしなかったように見える。

 風もいけなかった。奄美大島の冬は、気温はさほどでもないのに北風は肌に冷たく、島尾の望む「常夏」を感じさせてくれなかった。

 しかし、「私は奄美のかたち(風土や人々の風貌と気質)を通してしか、ものの感受を生き生きとはたらかせることができなくなりました」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)と、まっとうに島に当てられているものの、そこから「総合的な報告」に至らなかったのは、それこそ「風土や人々の風貌と気質」しか手がかりがなかったことにも依るのかもしれなかった。

 それというのも、沖縄に旅した島尾は、「憂鬱な旅人」ではなく生き生きし出すことが多いのだ。少なくとも、奄美大島のことを書くときとはちがう表情を見せるようになる。そこには望むような暖かな空気があった。それだけはなく、「風土や人々の風貌と気質」から生まれたかたちがあった。名瀬でもしばしば楽しんだ「沖縄芝居」があり、「女踊り」があり「城址」があった。島尾が沖縄で見出したのは、琉球弧を「解きあかす」(「風の怯えと那覇への逃れ」)ための、人間がつくった文物という媒介だった。

 本土に移住してさらに風が堪えるようになった島尾は、那覇での「越冬」を思いつく。この思いつきはすぐに実行に移されて、しばしば冬を那覇で過ごすことになる。こうして書かれることになる一九七八年の「那覇からの便り」は、奄美大島に移住して数年後の一九五七年から連載した「名瀬だより」が深刻な面持ちで書かれているのに対して、島尾にしては軽やかで躍る心が感じられるものだった。

 島尾は那覇の町筋のラビリンスに喜んで紛れ込んでいった。それはあたかも、いつの間にか「あの世」へ入り込んで楽しみふけるおとぎ話の主人公のようだった。

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2017/01/30

島尾敏雄の「琉球弧」 3.奄美への寄与

 島尾は地元紙で、「奄美群島は文学的表現を試みる者にとって」「最も適切な宝箱だ」として、奄美発の小説に丁寧な書評を行い、「群島地帯の文学的表現を期待に満ちたものとして見ている」(「奄美群島を果して文学的に表現し得るか?」)と、エールを送っている。その後も折に触れて書評を書き、去った人へは追悼を寄せた。その視野が本格的だったのは、「琉球弧初の芥川賞受賞作品への言及のなかでの、「琉球弧を表現した近代の文学的成果において、私たちは詩の山之口獏を持つだけではないのか」(「大城立裕氏の芥川受賞の事」)という指摘や、『奄美に生きる日本の古代文化』についての、「金久正の著書ほど奄美の文化の根を正確につかみだしたものを見つけることはできません」(「金久正の事」)という評価が正鵠を射ていることにも示されている。

 しかし、大きな作家だということを知らない島人にとっては、島尾敏雄は何より、図書館の館長さんだったのではないだろうか。そしてこの館長さんはアクティブだった。

 彼が初代館長になった「県立図書館奄美分館」は、名瀬の島人に図書を提供するだけではなく、二百キロの距離に散らばる島々に向けて「巡回貸出」を行った。「図書館は書庫に書物をしまいこんで閲覧者のやってくるのを待ってばかりいないで、町や村のすみずみにまで、船やジープや自転車で書物を持ちこんで、それぞれの家庭に配って行くところまで行かなければならないとさえ考えられています」(「最近の図書館の動向」)と、島尾は書いている。控えめな彼は受け身で書いているが、わたしたちは「巡回貸出文庫」にも、大は小を兼ねるとは見なさない「琉球弧」の思想が息づいているのを感じることができる。

 そればかりではない。島尾は「奄美郷土研究会」を発足させ、例会を開き会報を発行している。「読書会」も開催した。実に、「奄美」で文字を読む、文字を通じて島を考える環境を整えていったのは島尾敏雄だったのだ。
そのうえ「長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」(「奄美―日本の南島」)奄美を、島尾はかばい続けた。

 奄美の島人が口にしにくいことでいえば、「薩摩藩が島々にのぞんだ方策が、どれほどかたよったものであったかは、歴史が明らかにするだろう」(「奄美・沖縄・本土」)という主張がそうだった。また、「琉球弧」というコンセプトを梃にしたときには、「琉球弧は本州弧のペンダントではない」(琉球弧に住んで十六年」)、「独立政権を持っていた琉球や、まつろわぬ蝦夷地の東北が、日本歴史の展開にどれほども役立たなかった異域だなどと考えることは私にはできない」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と強い口調にもなっていった。

 「結論として日本と言えなければ日本でないと言ってもいいじゃないか」(「琉球弧の感受」)、「奄美と沖縄とで一緒になって独立してもかまわないのですね」(「明治百年と奄美」)とまで言ってのけることすらあった。

 つい、威勢のいいことを口走ったのではない。

 島人は「自立の精神が欠けている」(「多くの可能性を秘めた島々」)とよく言われる評言に向かって、それがないのではなく、「深い所での屈折」があって、「対外的な表現の場で、よろけるのではないか」という観察と洞察に裏打ちされた励ましでもあったのだ。

 しかし、奄美に対して冷静な目を向けた島尾もいる。「奄美は訴える」というタイトルなのに、中身は「奄美に訴える」ことの方を多く書いているエッセイにも表れているように、島人との関係のなかで発せられているからだろう、目立つのを避けるように書いている節もある。しかし、実は「奄美に訴える」ことも率直に開陳されていた。

 なかでも真っ芯で捉えているのは、島人の精神性を「事大主義と権威の否定とがひとつの精神の中に同居していてそのゆれ動きが激しい」(「多くの可能性を秘めた島々」)と捉えてみせたことだ。「事大主義」は伊波普猷をはじめ、沖縄の知識人が指摘してきたことだが、そこには二重性のあることを島尾は見出している。彼はそれを「アマミ・コンプレックス」と名づけた。

 「島びとの鹿児島人に対するコンプレックスは単純ではない」(「加計呂麻島」)。たとえば、奄美の島々では西郷隆盛が敬愛されていると言われるが、島尾はそこにも「救い難いコンプレックス」(「名瀬の正月」)があるのを見逃していない。反発を呼び起こさずにはすまない形でしか敬愛も発露されないということだ。

 事大主義の側面では、「ヤマトもしくは日本の中にとけこみたいという姿勢の強かったことは否むことができず、むしろそれはヤマトからの蔑視ないしは無視となって返ってきた」(「琉球弧に住んで十六年」)。それは身近なところでも反復されて、「奄美と沖縄のあいだでさえも、沖縄の人は奄美の人を、「鹿児島ンチュづらをして好かん。シマンチュのくせして」と言いますし、奄美の人は又南を順繰りにばかにして、「沖縄は野蛮だ。奄美は琉球じゃない」と言います」(「琉球弧の感受」)、という状況を生むことになる。

 島尾が「琉球弧」という用語を編み出したのには、「琉球」という言葉が受け入れられないということも踏まえてのことだった。しかし島尾はそのことを、実は「ふしぎな状況」(「沖縄らしさ」)と見ていた。なぜなら奄美には「琉球弧的体質がある」(「琉球弧から」)のだから。

奄美がこれまで持っていた意識下の親近感を、もっと意識的な理解に深めなければなるまい。沖縄復帰の反動としての奄美陥没の恐れは、沖縄を知らないことから生ずる面も少なくない。(「沖縄をもっと知る必要」)

 その通りだ。島尾の洞察をもとにすれば、「事大主義」の裏側には「権威の否定」が張り付いていた。それを手がかりにすれば、「権威の否定」をもっと踏み抜いて、自分たちの島々を等身大で肯定的に受け入れるという脱出口すら見えてくる。

 そのうえ島尾はこの二重性を、「爆発的な気性の激しさとともに、その一般的なあふれるばかりのやさしさは他地方では珍しいこと」(「南島について思うこと」)と資質に近いところで捉えることも忘れていなかった。わたしたちは島尾の奄美(琉球弧)洞察を、島人の自己理解への助けとして受け取ることができるのだ。こうした奄美や琉球弧に対して向けられた言葉には、かばってくれたこと以上に糧となるものが宿っていると思える。

 ところで、奄美大島に移住して十一年経った一九六七年、島尾は琉球弧について「総合的な報告」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)を書きたいという思いを抱く。しかし、「その心づもりで島々に向かうと、島は私の手のとどかないところに逃げ去ってしまう」(「私の中の琉球弧」)という実感に囚われてしまう。それはその後も身を離れず、離れないどころか強まり、「何も書きたくない」(「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)ところまで落ち込み、ついには島を離れ、「遠くから見直した揚げ句に最後に残るものを待ち受ける姿勢」(「「奄美の文化」編纂経緯」)に移っていくことになった。

 しかし、わたしたちは「報告」はなかったのではなく、果たされたと受け止めることはできると思える。この構想が生まれる五年前、一九六二年に行った講演録「私の見た奄美」がそれだ。

 これは島尾がまだ沖縄に行っていない段階で行われたものであり、その意味では「総合的」とは言えないからと島尾は不服だろう。けれど、前に見たように、そこには現在でも組み尽くせていない野太い歴史観が展開されているし、それを支える「琉球弧」と「ヤポネシア」という生まれたばかりのコンセプトものびやいだ力を発揮している。この講演録は、短い南島エッセイのなかにあって、最も長い文章のひとつだ。もちろん長いからいいというのではなく、伝えるべきことを伝えた豊かさも語りの熱もある。これで充分ではないかと思えるのだ。

 わたしたちはそれを欠いていると思う必要はない。島尾の琉球弧報告は、「私の見た奄美」に披歴されているのだ。付け加えれば、奄美、いや琉球弧をかばう点からは「中学卒業生への或る感想」がいい。これは中学や高校を卒業したら生まれ島をひとたびは出ざるを得ない島人にとって、いまでも大きな励ましになる文章だ。

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2017/01/29

島尾敏雄の「琉球弧」 2.すぐに続いた「ヤポネシア」

 一九六一年の春、「奄美の妹たち」で「琉球弧」の概念を提示した島尾は、はやくもその年の冬には、日本列島を表現するもうひとつの言葉として「ヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)を提唱し、その南の部分として「琉球弧」を位置づけてみせた。ふたつの概念はほぼ同時期に提示されたのだ。

 これは不思議なことではなかった。島尾は、奄美大島へ移住する際も、千葉あるいは東京を離れたとは書かずに、「本州島を離れた」(「奄美大島から」)と書く人である。もともと宇宙の高度から降ろすような視線は彼のものだった。だから、「琉球弧」という言葉を編み出す前から、島々を「九州島と台湾島の北端の間に連なるこの島々」(「南西の列島の事など」)と「天界からの俯瞰」(同前)で見ていたし、また、「島々を結んだ線は、こころよいたるみをもって張られた縄のように、浅いカーブをこしらえながら、台湾島の方に手をさしのべています」(「鹿児島県立図書館奄美分館が設置されて」)と、物や人のように感覚的に捉えようともしていた。

 この、島々の連なりとして捉える視点が、南太平洋の島について書かれた人類学者の本を読む機会を得て、そこの「南島群」が「何とわれわれの列島の南底部に孤独なすがたで配置された小さな島々と似ていることか」(「南島について思うこと」)という気づきを得れば、もともと日本列島を「花綵列島」と表現した人である、「三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)という発想にたどり着くのはすぐのことだっただろう。

 「天界からの俯瞰」をものにしていた島尾にとって、「琉球弧」も「ヤポネシア」もつかみ取るのは自然なことだった。しかし、そこに名づけを行なったことで見えてきたものは骨太で大きかった。

 「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を提示した翌一九六二年、島尾は奄美大島で「私の見た奄美」という講演を行っている。そこで島尾は、「なにか日本の歴史の重要な曲り角の時には、必ずと言ってもいいほど南の島々のあたりが顔を出して来る」と指摘している。

 「続日本記」には奄美、夜久、度感、信覚、求美などと、南の島の名が出てくる。そのことについて島尾は、「日本列島の中に国家らしい国家ができたその時に、南の島の記録をはぶくことができなかったということは、やはり重要な意味を含んでいると私は考えるのです」と語っている。

 日本の初期神話に南島の顔ぶれが出てくるところは、大和朝廷の版図が琉球弧にも及んだことを示す証左として引用されるのが常だ。しかし彼は、「何かを感じとったから記録として残したのだと思います」と、そこに別の余剰を見ようとしている。そして、にもかかわらずその後は「本土のほうと全く切り離されて」しまう、と続けている。

 「鉄砲」は、「種子島」から入ってきたが、それはヨーロッパの文明の象徴と言えるもので、中国の儒教やインドの仏教と「同じ比重でもって」捉える必要がある。日本の音楽に大きな影響を与えた「三味線」も「沖縄」から入ってきたものだ。

 鎖国の終わりも、発端はアメリカの軍艦が「ふらふらはいって来たところが浦賀」だったわけではなくて、「まず沖縄の那覇にやって来て、そこを根拠地にし充分足がかりにしたそのうえで、日本本土のほうにやって」来ている。その後の新しい政府にしても、「薩摩藩は南島を犠牲にすることによって明治維新を動かすことができた」。さらに第二次世界大戦でも「南の島々を犠牲にすることによって、国家がどうやら安泰であるような方向」を見つけることができ、「それは現在もつづいている」。

 つまり、「日本の大きな曲がりかど」では、南の島々から「本土のほうになにかしらざわめきのサインをなげてよこす」。しかしその顛末は南島の「犠牲のかたちに傾きがち」であり、「本土のほうはそのことにも、その地帯のことにもほとんど理解をよせようとしないように見える」。島尾は、このことは「私に強い感動をあたえてよこす」と話している。

 ここまでくれば、五十五年前に行われた島尾の講演が、鋭く現在を照射にしていることに驚かざるをえない。本来、ヤポネシアという視野は、大陸との関係で捉えられがちな日本を太平洋の島々のひとつに解放するというモチーフを持っているから、ここでの文脈は「ヤポネシア」というより「日本という国家」に沿ったものだが、しかしここには、中心に凝集しようとする「日本」に対して、個々の島を等価に捉える「ヤポネシア」の視線が息づいているのを見ることができる。

 やがて島尾は、琉球弧と「東北」のあいだに「なにか類似の気分の流れている」のに気づいていく(「琉球弧の視点から」)。そしてここでいう「東北」には「アイヌ世界が透絵さながらにうずくまっているようなもの」(同前)だった。東北といえば、福島が島尾敏雄の両親の出身地である。この出身への足場を得たことでと言っていいだろうか、島尾の言葉はいつになく熱を帯びることもあった。

 (前略)私が言いたいことをいそいで言ってしまえば、たとえこれまでの日本人の目の位置が九州から関東までしかその視野に入れることができなかったとしても、私はそれに服したくないこと。東北や琉球弧が負のかたちでもっている日本の要素をはっきりつかみだすのでなければ、日本のかたちはいびつでしかないこと、の二点だ。(「私にとって沖縄とは何か」)

 東北や琉球弧が負性として持つ要素を掴むのでなければ、日本の「かたち」はいびつでしかないという熱を帯びた主張は、これも今でも生き生きとしているのに立ち止まらないわけにいかない。

 しかし、ご当人のその後の態度はそれとは別のところにあった。一九七三年、「非小説」を集成した本の「あとがき」で、学んだことは「ヤポネシア・琉球弧の視点」かもしれないとして、島尾はこう整理している。

 最初は、「用語の発見のための試行が重ねられている」。用語が現れる前は、「南島への心情の過多を処理しかねている」。そしてこう続く。「それはやがて用語の出現と共に、いったんは或る安定を得たあとで、今度は次第に南島に対する心情の発露の臆病な傾斜へと傾いて行くのである」(「「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)。「臆病な傾斜」とは、「憂鬱な旅人の不安定な感受」(「琉球弧の吸引的魅力」)が、あとがきを書くタイミングで言わせたものかもしれない。このときには、奄美大島を離れる心づもりになっていたことも想像される。

 しかし、「ヤポネシア・琉球弧の視点」を提示した人の総括としては、あまりに控えめで、本人の深刻さをよそに、わたしはこのところで思わず笑ってしまった。

 「ヤポネシア」にしろ「琉球弧」にしろ、いまも充実を待っている魅力的なコンセプトであることに変わりはない。そして彼の「非小説」群は琉球弧に大きな励ましを与えてきた。ことに「奄美」に対する寄与は大きい。もし島尾敏雄がいなければ、「奄美」はいま以上に「沈黙」のベールをまとい続けていただろう。

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2017/01/28

島尾敏雄の「琉球弧」 1.ふいに書かれた「琉球弧」

 知るにつれ驚いたのは、奄美大島から与論島までを「ひっくるめた総合的な名前が見当たらない」(「アマミと呼ばれる島々」)ことだった。

 「奄美(群島)」があるではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾敏雄は気づかずにはいなかった。「奄美」や「奄美群島」では「強いてひとまとめにしようとする意図が目立って、生活感情の中からしぜんに生まれてきた言い方ではない」(同前)。「沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和に入ってから」(「南島について思うこと」)と言われている。「観念的にはアマミの中の一つだと理解していても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこない」(同前)。それどころか、「ひとまとめにして奄美と呼ばれることを拒んでいるようにも見える」(「加計呂麻島呑之浦」)くらいなのだ。

 島尾が奄美大島に移住して、最初にぶつかったもののひとつは呼称だった。しかも「総合的な名前」を持たないのは島々についてだけではなかった。それより前に、島尾は加計呂麻島の島人が、島を自分の住む集落(シマ)の名で呼びこそすれ、「島そのもの」が「かけろま」と呼ばれることを知らなかったことに驚いていた。「総合的な名前」を持たないのは、島々だけではなく、ひとつの島自体についても言えることがあったのだ。

 島人が島の名を持たなかったのは、おそらく加計呂麻島に限ったことではなく、奄美大島もそうだった。島を「海見(あまみ)」と表記したのは大和朝廷だったし、「大島」にしても元は大和や沖縄島からの呼称だろう。加計呂麻の島人が島を集落(シマ)の名でしか呼ばなかったように、奄美大島の島人も集落(シマ)の名でしか呼んでこなかった。島全体を捉えて呼ぶ必然性がなかったからだ。

 琉球弧の北に位置する奄美大島は、島人の必然性が、島全体を捉えるようになる前に、主に大和からの視線に捉えられ、最初に「海見」、次に「大島」、そして近代以降に「奄美大島」と呼ばれるようになった。その間、按司(首長)的な存在が島々をまとめあげることもなかった。

 「奄美」という言葉自体が、内発的な呼称として奄美大島全体に行き渡った歴史を持っていない。島人による政治的共同体が「奄美」の島々を圏域とした歴史もない。これが、今に至るも「奄美群島」が、そう呼ばれつつも「総合的な名前」として根を下ろさず、また他に「総合的な名前」も持っていない経緯だ。

 ともあれ島尾は呼称の不在という不思議さに触れて、むしろ呼称について鋭敏になった。島々について言う場合、「奄美」ではなく「アマミ」というカタカナ表記にしたのはその試みのひとつだ。

 そのうえそこには、もうひとつ「琉球」に関わる問題もあった。一六〇九年の侵攻以降、薩摩に組み入れられた歴史をもつから、「奄美には沖縄的なものを拒否したい気持とそれに帰納したい願望とが相反しつつ同居している複合の状態のあることも認めなければならない」(「私の中の琉球弧」)。島尾はそこで「琉球」という言葉が現地で受け入れられないのを察するようになる。

 しかし島尾は、もとより「南島」という言い方が好きで、奄美大島のことも、「花ざかりのかたちをした南島の群れのひとつ」(「九年目の島の春」)として見ているし、「奄美」を主語にしても「沖縄」を主語にしても、それは象徴でしかなく、断らない限りそこにはいつも奄美、沖縄、宮古、八重山の全体に浸透させようとする目を持っていた。こうして「南島」という「少しあいまいな表現」(同前)ではなく、より照準を合わせようとする試行のなかで、「琉球弧」という言葉がつかまれることになった。

 奄美大島に移住して五年ほど経った一九六〇年、「南島探検の過程の報告書」と位置づけた本のあとがきで、島尾はこう書いている。

 現在では私は、大島のほかの四つの島の徳之島も喜界島も沖永良部島も与論島もひととおり見てきましたので、それぞれの島の輪郭をひとつずつ描くことによって、大島との対比の中で琉球弧の北の部分としてのアマミをつかみたいという期待に充たされて居ります。(「離島の幸福・離島の不幸 あとがき」)

 この初出の「琉球弧」は筆の勢いでふいに書かれているようにも見えるし、それから一年後の「奄美の妹たち」の本文で紹介されることになる「琉球弧」という概念は、このときすでに掌中にあったようにも見える。もし後者だとしたら、この「あとがき」の「琉球弧」はとても控えめな初出だ。しかし、実のところその印象は本文でお披露目した「奄美の妹たち」でも変わらない。なにしろ、「「琉球弧」といわれる奄美から沖縄、先島にかけての南島」と、括弧で強調しているものの、すでに「琉球弧」という言葉が流布されているのを前提としたような書き出しなのだ。

 この控えめな態度は、琉球弧について書くとき、終始変わらなかったと言っていい。しかし、態度は控えめでも「琉球弧」は、やわらかで強力な概念だった。この言葉がなければ、わたしも、島尾と同じように座りのいい呼称の不在に突き当たるしかなかっただろう。

 「琉球弧」は、島尾が沖縄を訪ねる前に、「奄美」の島々を見聞するなかで、沖縄、宮古、八重山にも通じるものを予見した言葉であり、かつその過程で、呼称の不在や「琉球」に対する島人の抵抗感を通じて掴まれたことからすれば、奄美的な用語だった。あるいは、「琉球」という言葉に対する反発を、島尾は沖縄自身にも見出すことからいえば、とくに宮古や八重山から発されたとしても不思議ではなかった。また、「奄美、沖縄、宮古、八重山」という言い方では、ひとまとめにならないし、主島と離島という考えを伏在させてしまうことからすれば、それぞれの島を主体に据えた、それこそ島発の言葉と言ってよかった。

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2017/01/27

太陽の水浴び

 来間島での谷川健一の聞き取り。

 この島の東がわには、非常にふかい洞窟があって、途中タカが洞窟を守っている。その底には牡丹の花があり、太陽の光線が射しこんでそれに当るところがある。そこでこの洞窟を「太陽(てだ)が洞窟(がま)」と呼ぶという。(『埋もれた日本地図』)

 谷川は別のところで、この洞窟には「誕生した太陽が水浴びする場所も、その洞窟のなかにある」と書いている。この水浴びの原像を、ぼくたちは言うことができる。それは、貝から生まれた太陽がサンゴ礁を通過するということだ。


『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1―南島文学発生論』

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2017/01/26

『おもろさうし』(島村幸一)

 島村幸一の『おもろさうし』メモ。

 「せい」「せ」「すゑ」「すへ」は霊力を意味する語。

 「世」(ユー)。収穫、実り。豊年。

 「合(あ)おて」は、「戦って。今の方言では、「オーユン」という」。古語<会ふ>に通ずる。

 「てだが穴」は、「太陽が出る穴」。東から太陽の霊的な力をグスクに取り入れ、それによってグスクの霊的な力、ひいては城主の力を高めることになるという考え方。

 「門(ぢやう)」は、正しく太陽が昇る穴。

 「せぢ」は「せじ」の表記はなく、表記は「せぢ」のみ。方言は、スィジ。不可視の霊力、霊的な力。

 「てるかは」は「神女が太陽」をいう語とも考えられる。

 「東方に歩で/てだが穴に歩で」。神が祭りを終えて原郷に帰る航海。

 久高島のイザイホーで謡われる「アリクヤー」。「にらーてぃ/はにゃぬてぃ」(ニライ海/カナイ海)。

 オモロでは沈む太陽は謳われることはなく、昇る太陽が謳われる。「金真弓(かなまゆみ)」は立派な真弓。

 「夏は しけち 盛る/冬は 御酒 盛る」。島村は、

「夏」は収穫した米により神酒を作って神祭りをし、「冬」は渡来した高価な酒により神祭りをするという年間を通した豊かさを謡っている表現と理解した方がよいのではないか。

 と解してる。

 「ヲナリ神の神霊が蝶や白鳥になって現れるという表現は、それほど広く琉球のウタや説話類にあるわけではない」。


『おもろさうし』


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2017/01/25

「産育儀礼にみる試練と命名」(小野重朗)

 小野重朗の「産育儀礼にみる試練と命名」(「日本民俗学」143)から、与路島のアルカチム(歩き始め)の儀礼。

 旧暦十月下旬の頃。その日までの一年間に生まれた子供を乗せた船を競漕して800mほど離れたアデツ浜に向かう。浜に着くと、生児ごとに波打ち際の小さな丸石を三粒拾う。みなで一重一瓶の宴を張る。帰りも競漕して浜に向かう。

 浜に上がって部落のミヤに着くと、ノロが「アデツ浜に行って名前をもらってきたか」と言いながら生児の額に紅をつけた指先でハンヅケ(判付け)を行なう。

 家に帰ると親戚の人々が集まる。子供を座らせ、アデツ浜で拾ってきた石を椀に入れたものと子の名を書いたものを並べて果報人がこの名を三度、読み上げる。

 家によっては椀の石とともにクドマ貝とビラ(植物のニラ)を置いて、「石グドマ、金グドマ、ビラの如く、栄える如く」と唱えたりする。名づけが終わるまでは生児はみな「アカー(赤)」とか「アーミャー(赤ちゃん)」と呼ばれる。

 この儀礼から分かることを書いておく。

・アデツ浜はかつての「あの世」である。
・子供を乗せた船は、「胞衣」の変形である。
・拾う丸石は霊魂と霊力。
・名前も「あの世」からもらってくる。
・アデツ浜から船で向かうのは、生誕の再現。
・貝や植物はトーテム。
・祝女のつける「紅」は、太陽と胞衣の印。
・名づけまでの「アカー」は、貝の子であることを示す。

 アルカチムとは別に、生後10日ほどで行うトグチハジメ(戸口初め)の祝いがある。

 祖母か祖父が、生児を抱いて家の表から前庭に出て、母親の寝ている家の裏に入る。外の光に当てるのでアカリオガマシ(明り拝ませ)とも言う。入るときに釜のヘグロ(鍋墨)を生児の額に塗る。これをトグチハジメノシルシという。

 トグチハジメまでは外の光を浴びさせない。小野はそのことを、

生児にとって日光は強すぎて危険であると思われた(たいへん科学的に正しい答え)ためと考えられる。

 としているが、子供の霊魂が安定するまでは、「太陽」に「あの世」へ連れ戻されないようにするためではないか。鍋墨は、祝女のつける紅と同じ意味を持つ。釜の火の墨だから、これも太陽のことだ。


 


 

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2017/01/24

胞衣を埋める時

 胞衣を埋める時は、満潮時が多いようだが、干潮時の場合もある。

 汀間(名護) 潮が引いたとき
 与那(国頭) 満潮時
 謝名城(国頭) 潮が満ちたとき
 比屋定(久米島) 満潮時
 具志堅(本部) 潮とは関係ない
 (崎原恒新、恵原義盛『沖縄・奄美の祝事』)

 胞衣を埋めるのは、「あの世」との境界部に胞衣を置くことを意味する。また、胞衣はサンゴ礁だから、胞衣を埋めるのは、サンゴ礁が外海に埋まることと同じなので、満潮時にするのがもともとだったと考えられる。それは、サンゴ礁(胞衣)が「あの世」に近づくときと思考されたのではないだろうか。

 比屋定(久米島)では、胞衣埋めのとき、弓矢(ハンチャヤマ)で箕(ミージョーキー)を三回射る。弓矢は蛇、箕は太陽(貝)。これは性交の暗喩であるのか、太陽を射落としているのか分からない。けれど、胞衣とかかわるのであれば、太陽拝ませと同じ意味なのかもしれない。

 もうひとつ。伊計島では、胞衣は「イラ」になる。これは、yuna > iuna > iina > iia > iya > ida > ira (iza) と整理しておける。


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2017/01/23

「サンゴ礁を生んだ無脊椎動物と藻類の共生は,どのように進化したのか?」(將口栄一、新里宙也)

 サンゴ礁は、世界の海域のわずか1%に満たないのに、全海洋生物の25%の種が生息している。サンゴ礁を作り出しているのは、造礁サンゴという動物。褐虫藻から莫大なエネルギーを得て水中に炭酸カルシウムからなる骨格を形成する。

 褐虫藻は100種類以上いると考えられている。造礁サンゴも1000種以上と多様。幼生期に新たに褐虫藻を内胚葉細胞に取り込み共生を開始するものもいれば(ミドリイシサンゴ)、卵を通して親の褐虫藻を直接受け継ぐものもいる(ハマサンゴ)。

 夏のわずか1~2度の海水温上昇で「白化現象」が起きてしまう。共生のメカニズムの詳細はほとんどわかっていない。

 ミドリイシ属サンゴは、エネルギーだけでなく非必須アミノ酸の1つまでも褐虫藻に依存している。逆に、病原体を感知して自然免疫を作動させる受容体は少なくとも4つ持ち、褐虫藻と共生しない動物よりも多い。

 「サンゴ礁を生んだ無脊椎動物と藻類の共生は,どのように進化したのか?」(將口栄一、新里宙也「細胞工学」2014)より。

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2017/01/22

「宿神論」(服部幸雄)

 1974年。いまから42年も前になる。雑誌「文学」の「宿神論」で、服部幸雄は書いている。

シャグジ・シャクジン・サクジン等々と、前記のシュクシン・シュグジン・シュグジ等々との間に、本質的な違いはなく、いずれも辺境に斎き祀られて、外敵を降伏する地境鎮護の神であったといってよいのであろう。それが、辺境に住まうことの多かった人たち-いわゆるシュク(夙)の人たちや、放浪する人たちによって篤く崇敬されていたであろうことは勿論jである。(「宿神論」下)。

 服部も、シャグジとシュクシンとを言葉として結びつけようとしている。ぼくが付け加えることがあるとすれば、「いずれも辺境に斎き祀られて、外敵を降伏する地境鎮護の神」は、シュクが身をやつした姿のことであり、もともとは「世」からの霊力の現われそのものを指していた。シャグジという「石の神」は、境界に置かれたシャコ貝と位相同型にある、宿神を守護神とする人々が「最も神聖なるものとして敬う翁および翁の面」(「宿神論」上)は、来訪神と位相同型にあるものだ。

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2017/01/21

「宿と宿神」(谷川健一)

 谷川健一は、シュクの芸能民の祀る宿神について書いている。

(前略)その宿神の実態は、奈良坂の夙人の場合は春日神であったが、禅竹は『明宿集』で宿神は「翁」であるとし、春日神と翁は一体であると云っている。
『明宿集』における禅竹の発想はそれにとどまらない。宿神である翁はさまざまな形で示現する。煩を厭わず羅列すれば、住吉大明神、諏訪明神、塩釜の神、塩土の翁、柿本人麻呂、在原業平、聖徳太子、秦河勝などきりがない。このように多くの神々や人物が翁として示現したと主張されると、禅竹の真意が奈辺にあるか困惑せざるを得ない(「宿と宿神」「季刊東北学」2007)。

 谷川は、宿神と「翁」との結びつきに躓いている。その否定ぶりも激しい。

 私は翁が常世神から出発していると考えているから、禅竹の見境のない独善的な立論は虚妄であると云わざるをえない(「翁と翁舞の原像」)。
『明宿集』の超合理・非合理な、ある意味では独善的、恣意的なせかいにながく立ちどまる必要はない。

 しかし、谷川も「宿神」の正体に言及しているわけではない。

その一方で、シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を恭順しないものに対しては敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。摩多神は芸能神としての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。シュクと宿神の問題は奥が深くて正直なところ、底が見えにくい。

 谷川は、「翁が常世神から出発している」と考える。そうであるなら、常世神の背後にプレまれびとと言うべきスクに気づけばよかったのである。そうすれば、スクと常世神がつながり、スクと翁がつながる。禅竹の『明宿集』を、「超合理・非合理な、ある意味では独善的、恣意的」と切って捨てる言い方をしなくて済んだ。谷川は、そのほんの一歩手前にいたのだと思える。

 ぼくがこの「宿と宿神」で驚いたのはふたつある。

 それは「宿」が「産所」でもあったことである。スクは、胞衣をやぶって出現するのだから、宿が産所でもあるのはもっともなことだ。

 また、夙部落の地名にアジマがある。これなど、アジケー、アザカと同じではないか。スクはシャコ貝と同居しているのだ。

 「被差別部落民は骨が一本足りないということは方々で云われる」。あるところでは「肋骨が一本足りない」とさげすまされている。由来書には、「又鎌倉にも出て祝言をなす。頼朝より『証文士』の位を授かる。その状、扇に書いて下されしに、その扇の骨一本偶然に折れ損じたる故に、後世野宇津保証文士は骨が一本足らぬ等と云われるのであるとの事だ」。

 扇まで持ち出されて云われるとわかる。「骨が一本足りない」は、イザナミの死を暗示するように、貝をトーテムとした人々のことを暗示しているのではないだろうか。

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2017/01/20

宿神と珊瑚礁の思考

 中沢新一の『精霊の王』から、縄文的思考のエッセンスを抽出してみる。

 国家以前の社会では、力の源泉は、神や権力者それ自体のなかにはなく自然の内奥に隠されていた。そこでは、生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいるドリームタイムのような場がある。そのなかから胞衣という保護膜にくるまれて変態を繰り返しながらちさき者が育つ。それはやがて胞衣をやぶって、しかも胞衣をかぶったまま出現する。それは童子の姿だけれど、ザシキワラシがそうであるように、幸や富をもたらす。

 また、童子の姿ではあっても、老人でもあれば始祖でもある。このことは、宿神を守護神とする芸能者たちに「翁」の演目として重視されてきた。さらに、胞衣というこの世とあの世の中間の要素を失っていないので、人を食らい新しい自分として生まれ変わりを促す荒ぶる神の要素も持っている。たとえば芸能者は、この力の源泉とのつながりをへその緒のように失わずに芸能を行うとき、ふつうの人には出来ない技芸を達成することができる。猿楽に発祥する能の「翁」は出現する宿神そのものだ。

 これは中沢自身が強調しているように胎生学的なイメージが強い。縄文的思考とは、何もないところから生命が生まれる不思議さを自然を介したモデルにまだ高めた哲学のように見える。

 ぼくたちが最も躓くとしたら、「生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいる」という状態のことだろう。しかし、琉球弧にはドリームタイムに近い「世」という言葉がある。それは、「アマン世」「大和世」などと時代を表わす言葉でもあれば、祭儀のなかでは「世は直る」というように反復する時間も指せば、富や豊かさを包含している。「世や直れ」と歌うミュージシャンもいるように、祭儀を離れても、その感覚は失われていない(下地暁「ウヤキあぁぐ『宮古世』)。

 それが確認できれば、これは何から何まで島人がサンゴ礁に見たものと同型だ。スクは、海原の精霊としてサンゴ礁の彼方から到来し、サンゴ礁という胞衣を通じて、スクとして現出する。それは、「あの世」からもたらされる富と幸福の象徴だった。そしてスクは、時化を呼ぶ荒ぶる神の一面を持っている。スクはスクだけで存在しているのではなく、サンゴ礁の精霊の化身であるジュゴンともつながっていて、そのサンゴ礁の精霊は、海の精霊を通じて、人を喰らう津波を引き起こす。

 ここでは、サンゴ礁は、「生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいる」。サンゴ礁期は、前に進む時間が駆動しはじめたので、それにほころびが生まれてきているに違いないが、それでもサンゴ礁自体は、そうであり続ける場だった。

 島人は、やがてそれをまれびと(来訪神)として表現するようになる。しかし、琉球弧では、来訪神以前のプレまれびとであるスクを通じて、中沢が縄文的思考として探究した世界を、初々しい形で再構成してみることができる。これは、縄文的思考の源泉を持っていることを意味するだろう。そこが可能性だ。どうやら、珊瑚礁の思考の核心もそこにありそうだ。


『精霊の王』


 

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2017/01/19

宿神がもたらすもの・メモ

 中沢新一の『精霊の王』から、メモ。

 蹴鞠(宇宙のバランスを保つ)。

 諸道の者たちは、守宮神の護りがあればこそ、常の人の能力を超えた技芸の達成をすることができた。霊性に浸された芸能。

 猿楽者は宿神の住む空間の構造そのものを探究して、身体の芸能として表現しようとしてきた。「翁」はそれを体現している。翁こそ宿神にほかならない。根源に近い神。

 それは人の世界にとって恐るべき力をはらんだ荒神となる。猛威をなす。

 奥座敷に住む童子であるザシキワラシ。サーカスのテントは、地上に出現した巨大な胞衣。

 胎動をはらんだ母体(マトリックス)状の超空間。生命と富の貯蔵庫でもあって、いっさいの「幸」や「福」はこの超空間からの贈与として送り届けられる。人間はそれを神々のおこなう無償の贈与として受け取るだけなのだ。

 ワカメやアラメのような海草。塩土の翁(塩をつくる)。

 「スク」を通じて古代の人々は、神話の時空に出入りしていた。


『精霊の王』


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2017/01/18

満潮時の胞衣埋め 2

 「満潮時の胞衣埋め」の理解を更新しておきたい。飯島吉晴が、『笑いと異装』のなかで、沖縄の胞衣について、こう書いている。

沖縄では、通常、胞衣は竈の後ろの灰の中に紙やユーナの葉に包み、しかも満潮時に埋めるものとされている。

 「サンゴ礁」は「胞衣」である。満潮時には、サンゴ礁は海中に没する。海に埋められている。だから、そのときに身体の胞衣も埋められることになる。胞衣をサンゴ礁と同期させているのである。

 なんと素敵な所作だろう。

 

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2017/01/17

シャグジとスク

 シャグジ空間が自ら生み出すものは童子なのであり、この童子の守りによって、芸能者は「へその緒」を得て、源泉である空間に自分をつなげておくことができる。シャグジ空間は、あの世(他界)の余韻を保ったままにこの世(現実世界)に出現をとげている。

 楽屋でじっと身を潜めている芸人は、母親の胎内にいると観想しなければならない。そして幕を打って出る。これは出産の瞬間にほかならない。変身の芸能と胞衣は一体である。

 胞衣であり、荒神であり、境界性の神であり、転換の神であり、メタモルフォーゼの神である宿神。

 中沢新一が、『精霊の王』で抽出した「宿神」や、それの住まうシャグジ空間や、後ろに控える食人王などの要素を「珊瑚礁の思考」は、動物としてみることができる。

 シャグジ空間は海と連なったサンゴ礁であり、胞衣はジュゴン、そこから誕生する宿神はスクであり、後ろに控える人食い王は、海の主としての蛇である。スクが境界神としての性格も持つことにもシャコ貝が控えていることのつながりを感じさせる。

 プレまれびととも言うべきスクは、やがて来訪神として出現することになる。南島の来訪神が、水によってスデルということは、胞衣をかぶって出現する荒神にアナロジーさせることができる。


『精霊の王』

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2017/01/16

「サルタビコは、伊勢の古い太陽神か性神か」(松前健)

 松前健は、サルタビコについて、「伊勢・志摩地方の海人の奉じていた男性の太陽神であろう」としている(『日本神話99の謎―神々のパンテオンで何が起こったか』)。アメノウズメに連れられて五十鈴川に行くのも、ヒラブ貝に挟まれて海におぼれるのも、三種の海の海霊が出現するのも、みな伊勢との関係を示している。

 猿神としての性格も、太陽神と矛盾しない。道祖神、性神としての性格も。サルタビコの長大な鼻はリンガの変形だ。

 一方、裸身を露わにしたウズメの行為は、「実際の巫女たちの儀礼的行為の反映なのである」。

 松前によれば、ウズメの氏族は、「伊勢土着の古い太陽神・性神サルタビコを奉じ、その神妻として性的儀礼を演じる斎女を出す家であったことを示している」。

 ぼくたちはここで、もともとはウズメの方が主役だった。太陽の精霊は、女性であるウズメの貝から生み出されていた。サルタビコもその流れを汲んでいると理解していることになる。

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2017/01/15

『変魚路』(高嶺剛)

 映画を観終わると、「島ぷしゅー、ぷしゅー」と口にしていた。「ぷしゅー、ぷしゅー、島ぷしゅー」とつぶやき続けると、今の「世」に置かれた琉球弧の島人の気分と重なり合ってくる気がした。

 「島ぷしゅー」というのは、「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世から大和世」のような「世替わり」に起きた、苛烈な出来事のことだ。「ぷしゅーっ」は爆発音のことだと説明される。でも、音そのものは、缶ビールを開けた時を思い出させる。ただ、それほどにも威勢よくはなく、どちらかといえば、浮き輪の栓を抜いてぺしゃんこにしていくときの脱力的な気抜けた感じだ。「大主(うぷしゅう)」の語頭母音を脱落させた言葉にも聞こえてくる。もちろんこれは監督の造語で言葉遊びなのだが、それは単なる遊びではなく、もともとの意味を離れて身体性に引き寄せる琉球語感覚の本領なのだ。

 主人公のタルガニは琉球弧の古典的な名前だが、相棒のパパジョーは英語名ながら、琉球語でp音は頻出するし、ジョーも井泉の意味を持つのだから、パパジョーもありそうな琉球語っぽく聞こえてくる。

 実際、「島ぷしゅー」後の「世」は奇妙な世界だ。そこでは、人は脱皮をして再生するのに、石膏を肌に塗って身体模型を作ってもらいそれを爆破することですっきりするというややこしい手続きを踏まなければならない。石膏を剥がすときに皮膚ごとはがれてしまう場合もあるが、それが気持ちいいという人もいるところに脱皮の記憶はようやく保たれている。化身も整形をしなければできないし、それもせいぜい他人になることしかできない。

 あらぬ嫌疑をかけられて逃避行することになるタルガニとパパジョーは、トンネルをくぐって、いわば「あの世」へと抜けるのだが、「この世」も「ぷしゅー」だから、「あの世」も「ぷしゅー」な世界でしかない。「たいした必然性も感じないまま、パタイ村を脱出するのであった」とナレーションが入るように、「この世」と「あの世」の断絶感もない。しかもパタイ(死)村を脱出すると言っても近所をウロウロするような逃避行なのだ。いわば、「この世」と「あの世」は重なり合って、ことが前に進まない。ふたりが生活の糧にしている芝居も、同じところで止まってしまい、「忘れてはいないが、セリフが出てこない」。いわば「大主」不在の世界なのだ。

 けれど、そこで時は反復モードが優勢になってくる。そうやって映画が進行するなかで出てくるのが、琉球原人や蛇やトカゲやヤドカリ、渚やサンゴ石やサンゴ礁の岩場だ。反復する時間は過去に遡行して、島人を生んだ動植物や自然物と交感するところまで、ここは「ぷしゅーっ」とではなくすっと行ってしまう。三人で行動していつも濡れていないといけないビビジョーは、魚の群れにも見えるが、濡れてないと燃えてしまうところは貝の化身としての女性そのものだ。そして観ている方は、そんな解釈を抜きにしても、折り畳まれた無数の映像断片から次第に人の夢の世界に入りこんだような感覚に囚われていく。

 高嶺剛監督が、愛着を持った沖縄方言や沖縄芝居、そしてその方法を通じて、浮かび上がらせるのは、やはり琉球弧らしさというか、古層の琉球弧の空気や雰囲気だ。一方、観る者は、不思議な夢をみるように『変魚路』を愉しむことになる。

 夢の自立あるいは分離、あるいは夢自体という言葉が浮かぶ。また観る機会があれば、さらに愉しみを見つけ出せるだろうけれど、その機会があるか分からない。ただ、もっと夢を自立させて、脱皮も化身も自在な琉球弧のサンゴ礁の神話世界を観たいし作りたいという想いを膨らませることになった。 

 

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2017/01/14

「亜熱帯沖縄の冬の寒さと動物たち」(太田英利)

 この論考はとても面白い。琉球列島周辺の浅海は、「そこに生息する動物たちの顔ぶれをみる限り、明確に熱帯と位置づけられます」。マングローブはその象徴。

 黒潮の存在はこのように、亜熱帯沖縄の海とその周辺の生物相を、熱帯系の種が卓越するものにしているのです。

 サンゴ礁は、黒潮が運んだ熱帯ともいえるわけだ。

 琉球列島の有鱗爬虫類の多くは、冬になっても厳密な意味での冬眠はしない。なぜ、本土の仲間が冬眠するほどに温度が下がってもそうしないのか。太田は可能性として、「代謝を極限まで落とした仮死状態を維持できるほどには厳しくないことが考えられる」としている。

 一方で、陸生動物相は「亜熱帯系で固有性が高い」。

黒潮の流れる海域は冬でも比較的暖かく、そのため造礁サンゴをはじめ熱帯域と共通する動物が多く生息し、波打ち際にはマングローブが発達しています。これに対し陸域では冬季は結構寒くなり、そこに生息する動物には熱帯系のものは決して多くはなく、亜熱帯系で固有性の高いものが多数を占めています。

 琉球弧とは、熱帯に包まれた亜熱帯の島々なのだ。


『融解する境界―やわらかい南の学と思想2』


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2017/01/13

パラオのシャコ貝(『世界神話事典』)

 パラオの神話。

 原初に天の神ウヘル=ア=ヤングブがいたが、彼は風雨にのせて星を降らせ、これがガリヤップ島になった。その隣りに浅瀬ができた。彼はそこにア=キム(シャコ貝)を天から降ろした。このア=キムからラッツムギカイが生まれた。

 ラッツムギカイは海に棲んだが、妊娠していよいよ子供を産むときになっても女陰がないので子供を産むことができずに困った。そこでア=キムに相談すると外套膜を貸してくれたので、それを股間につけて子供を産んだ。

 それがオボハヅ神。オボハヅ神は人間の祖であり、虫魚草木を生じ、ハラマルル樹を擦って火をつくることを教えた(p.430)。

 パラオでも、シャコ貝-女性-火がむすびついている。とても面白い。

 

『世界神話事典』

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2017/01/12

「サンゴ礁の貝を利用し続けた沖縄の人々」(黒住耐二)

 貝塚時代後1期になると、大型貝が目立つ。黒住は書いている。

ゴホウラは水深一〇メートル程度のサンゴ礁の礁斜面に生息しており、潜水漁で得たのではなく、ヤドカリによって干瀬等の浅い場所に移動してきた殻を、イモガイ類はイノー内に生息しているものを得たと考えている。

 ぼくたちは、ゴホウラはわざわざ捕りに行ったと考えているが、ヤドカリが運ぶというのも楽しい。しかし、ゴホウラの殻はヤドカリが運べるのだろうか。

 黒住は、この時期の貝塚でシャコ貝等が散在している状況をみると、「貝類最終活動のすごさ、当時の活況を呈していた沖縄を実感できる」と書いている。貝類の「捕獲圧」は高かったが、シャコガイの小型化はあるものの、マガキガイで幼貝の比率が高くなるような状況はなく、ある種、「自然と調和」していたと言えるとしている。

 後2期後半では、貝類のみられる遺跡が激減する。

 


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2017/01/11

「琉球歌謡の植物をめぐる表現の研究」(佐々木和子)

 ジュズダマは、「し(ぃ)したま」、「ち(ぃ)だま」、「すだま」の表現が見られる。歌謡では、「ジュズダマはイネの豊かな稔りをたとえる物として登場している」。

 アワ なら石の花
 ムギ 壁葺き
 コメ ジュズダマの実
 キビ ウシの尾
 イモ ウシの角
 マメ 大和の刀の鞘

 佐々木は実際に、コメとジュズダマの実を写真で比較している。

ジュズダマの実の形状は、コメ粒よりかなり大きく、イネでも、ジュズダマの実ほどに大きくなることは一般的にはありえない。(中略)それは、イネの実りにおいて、少しでも大きく実入りしたコメ粒の収穫を希求する心情が、ジュズダマの実を比喩に選んだ理由と考えられるだろう。(佐々木和子「琉球歌謡の植物をめぐる表現の研究」「沖縄文化」118)

 柳田國男は「人とズズタマ」のなかで、ジュズダマがもとは数珠とは関係なく、ズズタマと呼ばれ、旧語はツシタマだったと書いている。ぼくは、これを「したま」、「ちたま」、「すだま」として定着させた琉球語感覚の方にひかれる。これは、霊力からみた霊魂、言い換えれば、霊力の発現として見ているように見える。

 だから、稲よ大きくなあれという心情はあるにしても、ここには、「稲」と「ジュズタマ」を霊力の現われとして見る視線が伏在しているのではないだろうか。

 面白いことに、「牧場で繁殖したウシ・ウマの行列が、ジュズダマの実が連なり揺れている様子に見立てられている」ことだ。

 狭い道に追ったなら、
 数珠玉のように揺れに揺れ
 大野に出て、
 追ったなら、
 先頭万頭も追い囲こと
 果報だと、
 こう唱えます、尊(「九場川村のまーゆんんがなしぃの神詞」)

 キビが「ウシの尾」、イモが「ウシの角」に喩えられるだけでなく、牛馬の行列までもがジュズダマに重ねられている。揺れらめくものに特異な視線が注がれている。「綾」という美称辞にも、霊力の発現という語感が宿っているのだろう。揺らめくというのは、霊力が発現する合図なのだ。

 ジュズダマは、首飾りにもなった。牛、稲など、グスク時代以降の文物に対する島人の視線をジュズダマは教えている。

 

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2017/01/10

トーテムと霊魂の段階

 素描に過ぎないが、琉球弧の精神史の各段階を霊魂やトーテムと対応させてみる。

 ― 約4500年前 定着期
   ・死者との共存

 ― 約4000年前 蝶形骨器
   ・霊魂の発生

 ― 約3500年前 風葬
   ・「あの世」の区別
   ・シャコ貝トーテム

 ― 約2500年前 交易期
   ・遺跡が低地立地
   ・蟹トーテム

 ― 約2400年前 蝶形骨器終了
   ・苧麻トーテム

 ― 約1000年前 グスク時代
   ・アマントーテム

 シャコ貝は、空間的な他界の発生を象徴している。交易期(貝塚時代後期)になると、遺跡は砂丘・沖積地という低地立地になることが知られている。浜辺近くに住むのだから、これを蟹トーテムの段階と考えてみる。蝶形骨器の終了は、苧麻がトーテムとなり、ジュゴンを素材に使わなくなった段階と想定する。アマンは、蟹と貝の合体だから、蟹トーテムの後にくる。これは、性交と子の認識の受容を象徴している。

 宮古を中心とした南琉球の場合、苧麻をトーテムとすることと、霊魂の発生とが近しい。トカゲは、蛇に比べて不完全な脱皮をするから、死の起源に対応していると想定してみる。

 蛇   不死
 トカゲ 死の起源
 蝶   死者の発生
 (蝶形骨器) 霊魂の発生
 蟹   浜辺への移住
 アマン 性交と妊娠の認識の受容

 

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2017/01/09

「琉球王国・王権思想の形成過程」(比嘉実)

 比嘉実は、若太陽思想と太陽子思想を区別すべきだとしている。

 『おもろさうし』を見る限り、按司は太陽と同一視されていて、そこに太陽子思想はみられない。比嘉によれば、それは尚清王の時代に成立するものだ。

日神を独占し、日神の末裔である王を論理化するために、尚清王の時、王朝の始祖伝承説話としての太陽子思想が受容され、そして、ほぼ同時期に「天の日子」という言葉が示すように、日光感精説話と天の思想を合一して、尚王朝の王権を正当化する論理が形成されたのではないだろうか。

 尚清王は16世紀の存在だから、ずいぶん遅いことになる。この真偽をまだ言えないので、比嘉の論に従って考えてみたい。

 比嘉も検証しているように、日光感精説話自体は相当の古さを持つ。ただし、琉球弧に受容されたのはグスク時代をさかのぼらないと考えられる。

 奄美でユタの祖を語る日光感精説話を下敷きにすれば、御嶽を建てたとき、根人は「太陽の妻の子」を任じることになる。根神も同様だが、根神は太陽を対幻想の対象にしている。内在的にいえば、この太陽の妻の子のなかから、太陽と同一視される按司が生まれてくることになる。

 按司は、男性である太陽と同一視された。しかし、比嘉によれば王権はそこに王を「天」と結びつけるために日光感精説話を招来したとしている。ぼくたちの文脈からいえば、ここは改めて招来したことになる。

 祝女にしても聞得大君にしても、太陽は対幻想の対象だった。それはつまり、祝女はアマテラスにはならなかったことを意味している。「太陽の妻であり続けたのだ」。

 琉球弧では、原ユタは女性である太陽を生み出す存在だった。それが、太陽が男性へ転換されることによって、ユタの祖は「太陽の妻」へという転落を余儀なくされる。この転落は外在的であったはずだ。
 

『古琉球の思想』

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2017/01/08

性の印

 ここで考えたいのは、動物の性はどこで確かめられるのかということだ。

Photo

 キシノウエトカゲは、名前からくる性も、精霊の系譜も男性を示している。が、「赤み」は女性精霊とのつながりも持っている。捕獲者はおそらく男性。この場合、「男性」であることにつながるのは、名前、精霊、捕獲者になる。

 ゴホウラは、名前と精霊は女性系列。捕獲者は男性。ゴホウラが男性動物の場合、捕獲者が性別を決めている。女性の場合は、精霊系列と名前が決めていることになる。

 ジュゴンは、名前は女性系列。精霊系列と捕獲者は男性。女性の場合、名前に示されている。男性の場合、精霊の系列と捕獲者が決めている。

 精霊の系列は、複数になる場合があるから、精霊系列は性を決定できない。捕獲者は、性を見る大きな指標だが、ゴホウラが男性の場合、精霊と名前に対して矛盾する。ジュゴンが男性の場合も、名前と精霊に矛盾する。

 ゴホウラが女性の場合、捕獲者に対して矛盾する。ジュゴンが女性の場合も捕獲者に対してのみ矛盾する。

 「名前」がもっとも矛盾が少ない。性は名前を見れば、それに由来する精霊を確かめられれば、分かるということだ。名前から分からない場合は、捕獲者の性を参照すればいいことになる。

 たとえば、ヤシガニは、マクガン(アンマフ)と呼ばれ、その名からは性別を決めにくい。しかし、捕獲者は男性であり、木に登るなど蛇精霊とのつながりもあるので、男性と見なせる。マクガンは、マラガンに由来する名称かもしれない。

 イモガイは、貝や赤みとしては貝精霊だが、ブトンニャという名前は男性であることを示している。捕獲者はおそらく女性だが、イモガイの性は男性だと考えられる。
 

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2017/01/07

「サンゴ礁の神話空間」PVイメージ

 機会があったので、「サンゴ礁の神話空間」をPVイメージで書いみた。CGを交えなければ実現できないだろうけれど、誰か一緒に取り組んでくれる人がいたら嬉しい。


(夜のサンゴ礁)
1. 津波がサンゴ礁の海を覆い横切り、そして引いてゆく
2. 静まったサンゴ礁に月が輝いている。サンゴ礁の縁が怪しく揺らめき輝く
3. 次第に夜明けになる。サンゴ礁の海に朝日が輝く

(サンゴ礁から生まれたように太陽が空低く輝いている)
4. 太陽から浜辺に視線を落とすと、ユウナが黄色い花を咲かせて、気持ちよさそうに風に揺れている。
5. その下に目を移すと、ユウナの木の木陰でキシノウエトカゲが海辺を睨んでいる
6. 大潮で引いた浜辺の岩場に蟹の群れが見える。キシノウエトカゲは食べようと這っていく。
7. トカゲに気づいた蟹はサンゴ岩に化身。
8. トカゲは、引き返さずそのまま海に入ってカタカスへ化身。髭を浜につきながら泳ぐ。
9. そのうえをイラブチャー(ブダイ)が泳ぎサンゴ岩をつついてから沖の方へ。
10. 沖の方からスクが陽に照らされて輝きながら群れをなして泳いでくる。
11. その向こうには、ボラが同じように群れをなして泳ぐ。そのなかの何尾かが水面を破って踊る。

(そこで目線か水面上に出る。沖の方で鯨が潮を吹き、背面からはねる)
12. すると、リーフの向こうからカンムリブダイ(グーザ)の群れがやってくる。
13. 陸亀が海に入って海亀になって泳ぐ。
14. ヤモリが海に入って鮫になり、沖へ向かう。
15. マングローブのシレナシジミが海へ転がってシャコ貝になる。サンゴ礁の縁が震え、少し輝く。

(再び浜辺。陽が傾いている)
16. ユウナの花がオレンジ色になっている。風を受けて散る。満ちてきた潮に洗われて海へ入る。すると、オレンジ色の熱帯魚になって泳ぎ出す。
17. サンゴ礁に靄がかかったように霞んだかと思うと、リーフから何かが入ってくる。ジュゴンがゆっくりその姿をあらわす。
18. 浜辺に目を移すと、渚に赤ん坊が生まれている。

(翌朝)
19. 子供が成長していく。手を中心に描く。
20. 両手首の内側真ん中にウマレバン。その後、手の成長とともにあちこちに刺青が刻まれてゆく。
21. すべてが描かれる。
22. 右手首の尺骨頭部の文様が蝶になって飛び立つ。
23. 左手の尺骨頭部から、アマンが、次に蟹が、そしてブー、貝が浮き出して淡い霊としてサンゴ礁に入っていく。
24. 最後に指の背の文様が蛇になり、空をめぐって外海へ溶けていく。
25. サンゴ礁の縁が怪しく揺らめいてわずかに輝く。
26. The myth world of coral reef –Ryukyu Arc-

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2017/01/06

種子島広田人の精神の位相

 種子島の広田人の精神の位相を推理してみる。

 貝符を着装する女性(イモガイ製)。腕輪を着装する男女(オオツタノハ製からゴホウラ製へ)。

 この通りだとしたらとして。

 イモガイは、男性名の女性貝だから、貝符を装着した女性は、蛇と貝をトーテムとしていることを暗示している。

 腕輪の素材がオオツタノハからゴホウラへ移行したということは、全く意味が異なるか、同位相にあることになる。ゴホウラは、女性名の男性貝。オオツタノハは女性名だと想定できるが、「オオツタノハは著しく波当たりの強い岩礁域に限って生息しているようである」(黒住耐二「オオツタノハの供給地」)ことからすれば、男性貝と考えられる。

 つまり、オオツタノハとゴホウラは同位相にある。

 ゴホウラ-オオツタノハの象徴は「女性-太陽」と「男性」。これを男女ともに装着しているのであれば、「貝(太陽)の子」であるという位相を示すのではないだろうか。

 この点では、広田人は、琉球弧の島人の精神と同位相になる。しかし、女性と男性の両方の組み合わせを求めたのだとすれば、このとき広田人には、男女の性交と妊娠の認識があったのかもしれない。

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2017/01/05

蝶形骨器の「赤」

 蝶形骨器は、朱に塗られていた。そのものから確認できたのは、八重島貝塚、室川貝塚、城間古墳群9号墓だ。

 島袋春美は書いている(「いわゆ「蝶形骨器」について」)。

何れも凹文のへりに僅かに確認されているだけであるが、本製品における形、文様の保守性から推測すると出土した他の製品についても塗朱が施された可能性が高い。
 塗朱の例としては荻堂貝塚のサメの脊椎有孔製品、清水貝塚のシラナミガイ(自然貝)、貝符、坪型土器がある。前者は本品に出土する時期と同時期の貝塚時代前Ⅳ期で、後者は後期に位置づけられる。

 どれが前者で、どれが後者なのだろうか。分からない。八重島から出土したものは鯨の骨なので、ジュゴンだから赤ということはない。もちろんこの赤は、「太陽―貝―女性」から採られたものだ。より厳密にいえば、太陽の赤であり、祖先を意味する。死の領域に移行しているという意味で、蝶は赤に染められたということもできる。

 それがジュゴンに塗られることも矛盾していない。ジュゴンは、胞衣でもあるわけだから、女性動物なのだ。

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2017/01/04

『呪術世界と考古学』(佐野大和)

 佐野大和は未知の人だけれど、『呪術世界と考古学』は読み応えがあった。「狩猟生活に満足している人たちにとって、稲作農耕の生活は驚くほど苦痛で、かつ興味のないものであったはずである」と書く人なのだ。気が合いそうではないか。

 イザナギが黄泉の国から脱出して禊する際に、左右の手の手纏(たまぎ)から現われた神は、
 「沖サカル、辺サカル、沖っ汀彦、辺っ汀彦、沖っ貝片、辺っ貝片」であり、神話を成立させた人々の意識の底に、手纏の霊質は、「本来海からとれる貝に通ずるのだ」という観念がはっきり遺っている。こういう指摘だ。

 折口信夫は貝について書いている。

 かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。
 なるを果物にのみ考へる様になつたのは、意義の限定である。併し果物がなると言うたのも、其中にものが這入つて来るのだと考へたからで、原の形を変へないで成長するのが、熟するである。熟するといふ語には、大きく成長すると言ふ意も含んで居るのである。
 かやうに日本人は、ものゝ発生する姿には、原則として三段の順序があると考へた。外からやつて来るものがあつて、其が或期間ものゝ中に這入つて居り、やがて出現して此世の形をとる。此三段の順序を考へたのである。

 二枚貝は、「密閉して穴のあいてないのがよかった」。

 ここで「貝交易」と呼ばれているものを考えてみる。

 ゴホウラ製は男性が装着し、イモガイ製は女性が装着した。ゴホウラは女性貝であり、イモガイは男性貝である。南島の島人にとって、「貝交易」とは、大和から訪れるまれびとへの豊かな男の霊力と女の霊力の贈与」だったことになる。


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2017/01/03

「奄美・秋名ショッチョガマの儀礼構造」(福島義光)

 ぼくはまだ農耕儀礼について云々するところに到ってないので、儀礼のなかの縄文的思考の痕跡を見るという目線になる。(福島義光「奄美・秋名ショッチョガマの儀礼構造」「日本民俗学」159号)

 ショッチガマは、「山腹にしつらえた片屋根の祭小屋のこと」。小屋は、丸太が支え、インドマラと呼ぶ搗き棒で深く埋めて搗き固める」。「初踏ませ」の儀礼をやる。

 秋名では、「小屋が倒れたときに東から太陽が昇ってこなければならない」と考えられている。満潮時に行なう。

 サンゴ礁期の思考の痕跡をみるとすれば、洞窟の塞がった満潮時に、蛇で貝を射ることにより(小屋を倒す)、太陽を出現させるという行為だ。

 ヒラセマンカイ。カミヒラセとメラベヒラセ。ここでも「初踏ませ」の儀礼をやる。

 「今年はいつもの年と代わっている年で不思議なほどであります。磯のアヤスビ(美しい貝)が陸に上がってしまいました」、「今年はいつもの年と代わっている年で不思議なほどであります。磯の岩石に花が咲いてしまいました」。

 前者は、貝の人間(あるいは他の動植物)への化身、後者は岩の貝への化身のことだ。


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2017/01/02

「対馬・仁位の祭祀と村落空間」(鈴木正崇)

 豊玉町の森(シゲ)、川(フチ)、山(タケ)について(鈴木正崇「対馬・仁位の祭祀と村落空間」「日本民俗学」151号)。

 シゲとは、集落内にあるコンモリ茂った森。伐ってはならない夫婦杉という古木がある。シゲの神へは盆踊りの奉納もあった。フチの神への奉納も意図している。森を神聖視する「霊地」としての性格。

 フチは、川の湾曲している所や、木の淀んでいるところ。神霊が宿り雨乞いの祈願場とされる。一方、河童が人に悪さをするというイメージもある。タケやシゲに比べると霊地の性格は弱い。

 タケは、高い峰のこと。ヤマより高いとされ、神聖な霊地として崇拝される。盆踊りの奉納のときは、天神嶽が意識される。タケは通常、麓から拝する。

 シゲ(森)、フチ(川)、タケ(岳)という同心円的聖地構造。シゲは、それ自体が神聖視されるとともに境界のカミの意味合いがある。集落内外に、シゲとタケを設定し、その間の干渉地帯にフチを配する。神社は浜辺ないし山腹にある。シゲ地のある少し外側の外縁部にあるのが神社。

 この記述からみれば、シゲは山(陸)の動植物の精霊、フチは水の精霊が宿っている。シゲには、人間の精霊も含まれている。シゲは、かつての「あの世」でもあるのだ。

 タケは、遠隔化された他界。フチは、その境界部にもなったのではないだろうか。

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2017/01/01

『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

 ぼくの関心事からいえば、「狩猟採集民の豊かな暮らし」に焦点を向けることになるが、ここから得られるものは少なかった。なにしろ、「彼らはアニミズムの信奉者だったとは思うが、そこからわかることはあまりない」。

 しかし、農耕のところでははっとさせられることがあった。

農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民より一般的に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発とエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。

 これを狩猟採集民の方からみれば、

古代の狩猟採集民は子孫の農耕民よりも、飢えたり栄養不良になったりすることが少なく、一般に背が高くて健康だったことがわかる。平均寿命はどうやらわずか三〇~四〇歳だったようだが、それは子孫の死亡率が高かったのが主な原因だ。危険に満ちた最初の数年を生き延びた子供たちは、六〇歳まで生きる可能性がたっぷりあり、八〇代まで生きる者さえいた。

 ということになる。

 琉球弧では、10~12世紀にグスク時代に入ると同時に、島人はあれだけ熱愛していたサンゴ礁に背を向けるように農耕を開始する。サンゴ礁の神話空間が魅力的だっただけに、この琉球弧の南北の転換は不思議に思える。それこそ大和からの大量の移住者による強制があったと考えざるをえないと思ってきた。しかし、強いられるだけでまるで一斉に背を向けるものだろうか。そこが分からなかった。

 著者によれば、このからくりはこういうことだったかもしれない。

農耕を行なうと急速な人口増加の条件が整うので、農耕民はたいてい、狩猟採集民を純粋に数の力で圧倒できた。狩猟採集民は逃げ去り、縄張りが畑や牧草地に変わるのを許すか、あるいは自らも鋤を手に取るかのどちらかだった。

 島に逃げ場はない。それもあって約千年前に、一挙にとでもいうように狩猟採集は終わった。琉球弧でもグスク時代になると、人口が増加する。著者にしたがえば、豊かさというより、それが農耕というものだということになる。


 著者は、狩猟採集の時代のことは、「沈黙の帳」が覆い隠しているとしている。そこに少しでも言及できれば、希望の少ないこの書の色合いは少し変わることになったのではないかという印象を持った。


『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』

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