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2017/01/30

島尾敏雄の「琉球弧」 3.奄美への寄与

 島尾は地元紙で、「奄美群島は文学的表現を試みる者にとって」「最も適切な宝箱だ」として、奄美発の小説に丁寧な書評を行い、「群島地帯の文学的表現を期待に満ちたものとして見ている」(「奄美群島を果して文学的に表現し得るか?」)と、エールを送っている。その後も折に触れて書評を書き、去った人へは追悼を寄せた。その視野が本格的だったのは、「琉球弧初の芥川賞受賞作品への言及のなかでの、「琉球弧を表現した近代の文学的成果において、私たちは詩の山之口獏を持つだけではないのか」(「大城立裕氏の芥川受賞の事」)という指摘や、『奄美に生きる日本の古代文化』についての、「金久正の著書ほど奄美の文化の根を正確につかみだしたものを見つけることはできません」(「金久正の事」)という評価が正鵠を射ていることにも示されている。

 しかし、大きな作家だということを知らない島人にとっては、島尾敏雄は何より、図書館の館長さんだったのではないだろうか。そしてこの館長さんはアクティブだった。

 彼が初代館長になった「県立図書館奄美分館」は、名瀬の島人に図書を提供するだけではなく、二百キロの距離に散らばる島々に向けて「巡回貸出」を行った。「図書館は書庫に書物をしまいこんで閲覧者のやってくるのを待ってばかりいないで、町や村のすみずみにまで、船やジープや自転車で書物を持ちこんで、それぞれの家庭に配って行くところまで行かなければならないとさえ考えられています」(「最近の図書館の動向」)と、島尾は書いている。控えめな彼は受け身で書いているが、わたしたちは「巡回貸出文庫」にも、大は小を兼ねるとは見なさない「琉球弧」の思想が息づいているのを感じることができる。

 そればかりではない。島尾は「奄美郷土研究会」を発足させ、例会を開き会報を発行している。「読書会」も開催した。実に、「奄美」で文字を読む、文字を通じて島を考える環境を整えていったのは島尾敏雄だったのだ。
そのうえ「長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」(「奄美―日本の南島」)奄美を、島尾はかばい続けた。

 奄美の島人が口にしにくいことでいえば、「薩摩藩が島々にのぞんだ方策が、どれほどかたよったものであったかは、歴史が明らかにするだろう」(「奄美・沖縄・本土」)という主張がそうだった。また、「琉球弧」というコンセプトを梃にしたときには、「琉球弧は本州弧のペンダントではない」(琉球弧に住んで十六年」)、「独立政権を持っていた琉球や、まつろわぬ蝦夷地の東北が、日本歴史の展開にどれほども役立たなかった異域だなどと考えることは私にはできない」(「奄美・沖縄の個性の発掘」)と強い口調にもなっていった。

 「結論として日本と言えなければ日本でないと言ってもいいじゃないか」(「琉球弧の感受」)、「奄美と沖縄とで一緒になって独立してもかまわないのですね」(「明治百年と奄美」)とまで言ってのけることすらあった。

 つい、威勢のいいことを口走ったのではない。

 島人は「自立の精神が欠けている」(「多くの可能性を秘めた島々」)とよく言われる評言に向かって、それがないのではなく、「深い所での屈折」があって、「対外的な表現の場で、よろけるのではないか」という観察と洞察に裏打ちされた励ましでもあったのだ。

 しかし、奄美に対して冷静な目を向けた島尾もいる。「奄美は訴える」というタイトルなのに、中身は「奄美に訴える」ことの方を多く書いているエッセイにも表れているように、島人との関係のなかで発せられているからだろう、目立つのを避けるように書いている節もある。しかし、実は「奄美に訴える」ことも率直に開陳されていた。

 なかでも真っ芯で捉えているのは、島人の精神性を「事大主義と権威の否定とがひとつの精神の中に同居していてそのゆれ動きが激しい」(「多くの可能性を秘めた島々」)と捉えてみせたことだ。「事大主義」は伊波普猷をはじめ、沖縄の知識人が指摘してきたことだが、そこには二重性のあることを島尾は見出している。彼はそれを「アマミ・コンプレックス」と名づけた。

 「島びとの鹿児島人に対するコンプレックスは単純ではない」(「加計呂麻島」)。たとえば、奄美の島々では西郷隆盛が敬愛されていると言われるが、島尾はそこにも「救い難いコンプレックス」(「名瀬の正月」)があるのを見逃していない。反発を呼び起こさずにはすまない形でしか敬愛も発露されないということだ。

 事大主義の側面では、「ヤマトもしくは日本の中にとけこみたいという姿勢の強かったことは否むことができず、むしろそれはヤマトからの蔑視ないしは無視となって返ってきた」(「琉球弧に住んで十六年」)。それは身近なところでも反復されて、「奄美と沖縄のあいだでさえも、沖縄の人は奄美の人を、「鹿児島ンチュづらをして好かん。シマンチュのくせして」と言いますし、奄美の人は又南を順繰りにばかにして、「沖縄は野蛮だ。奄美は琉球じゃない」と言います」(「琉球弧の感受」)、という状況を生むことになる。

 島尾が「琉球弧」という用語を編み出したのには、「琉球」という言葉が受け入れられないということも踏まえてのことだった。しかし島尾はそのことを、実は「ふしぎな状況」(「沖縄らしさ」)と見ていた。なぜなら奄美には「琉球弧的体質がある」(「琉球弧から」)のだから。

奄美がこれまで持っていた意識下の親近感を、もっと意識的な理解に深めなければなるまい。沖縄復帰の反動としての奄美陥没の恐れは、沖縄を知らないことから生ずる面も少なくない。(「沖縄をもっと知る必要」)

 その通りだ。島尾の洞察をもとにすれば、「事大主義」の裏側には「権威の否定」が張り付いていた。それを手がかりにすれば、「権威の否定」をもっと踏み抜いて、自分たちの島々を等身大で肯定的に受け入れるという脱出口すら見えてくる。

 そのうえ島尾はこの二重性を、「爆発的な気性の激しさとともに、その一般的なあふれるばかりのやさしさは他地方では珍しいこと」(「南島について思うこと」)と資質に近いところで捉えることも忘れていなかった。わたしたちは島尾の奄美(琉球弧)洞察を、島人の自己理解への助けとして受け取ることができるのだ。こうした奄美や琉球弧に対して向けられた言葉には、かばってくれたこと以上に糧となるものが宿っていると思える。

 ところで、奄美大島に移住して十一年経った一九六七年、島尾は琉球弧について「総合的な報告」(「奄美を手がかりにした気ままな想念」)を書きたいという思いを抱く。しかし、「その心づもりで島々に向かうと、島は私の手のとどかないところに逃げ去ってしまう」(「私の中の琉球弧」)という実感に囚われてしまう。それはその後も身を離れず、離れないどころか強まり、「何も書きたくない」(「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)ところまで落ち込み、ついには島を離れ、「遠くから見直した揚げ句に最後に残るものを待ち受ける姿勢」(「「奄美の文化」編纂経緯」)に移っていくことになった。

 しかし、わたしたちは「報告」はなかったのではなく、果たされたと受け止めることはできると思える。この構想が生まれる五年前、一九六二年に行った講演録「私の見た奄美」がそれだ。

 これは島尾がまだ沖縄に行っていない段階で行われたものであり、その意味では「総合的」とは言えないからと島尾は不服だろう。けれど、前に見たように、そこには現在でも組み尽くせていない野太い歴史観が展開されているし、それを支える「琉球弧」と「ヤポネシア」という生まれたばかりのコンセプトものびやいだ力を発揮している。この講演録は、短い南島エッセイのなかにあって、最も長い文章のひとつだ。もちろん長いからいいというのではなく、伝えるべきことを伝えた豊かさも語りの熱もある。これで充分ではないかと思えるのだ。

 わたしたちはそれを欠いていると思う必要はない。島尾の琉球弧報告は、「私の見た奄美」に披歴されているのだ。付け加えれば、奄美、いや琉球弧をかばう点からは「中学卒業生への或る感想」がいい。これは中学や高校を卒業したら生まれ島をひとたびは出ざるを得ない島人にとって、いまでも大きな励ましになる文章だ。

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