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2017/01/29

島尾敏雄の「琉球弧」 2.すぐに続いた「ヤポネシア」

 一九六一年の春、「奄美の妹たち」で「琉球弧」の概念を提示した島尾は、はやくもその年の冬には、日本列島を表現するもうひとつの言葉として「ヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)を提唱し、その南の部分として「琉球弧」を位置づけてみせた。ふたつの概念はほぼ同時期に提示されたのだ。

 これは不思議なことではなかった。島尾は、奄美大島へ移住する際も、千葉あるいは東京を離れたとは書かずに、「本州島を離れた」(「奄美大島から」)と書く人である。もともと宇宙の高度から降ろすような視線は彼のものだった。だから、「琉球弧」という言葉を編み出す前から、島々を「九州島と台湾島の北端の間に連なるこの島々」(「南西の列島の事など」)と「天界からの俯瞰」(同前)で見ていたし、また、「島々を結んだ線は、こころよいたるみをもって張られた縄のように、浅いカーブをこしらえながら、台湾島の方に手をさしのべています」(「鹿児島県立図書館奄美分館が設置されて」)と、物や人のように感覚的に捉えようともしていた。

 この、島々の連なりとして捉える視点が、南太平洋の島について書かれた人類学者の本を読む機会を得て、そこの「南島群」が「何とわれわれの列島の南底部に孤独なすがたで配置された小さな島々と似ていることか」(「南島について思うこと」)という気づきを得れば、もともと日本列島を「花綵列島」と表現した人である、「三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシア」(「ヤポネシアの根っこ」)という発想にたどり着くのはすぐのことだっただろう。

 「天界からの俯瞰」をものにしていた島尾にとって、「琉球弧」も「ヤポネシア」もつかみ取るのは自然なことだった。しかし、そこに名づけを行なったことで見えてきたものは骨太で大きかった。

 「琉球弧」と「ヤポネシア」の概念を提示した翌一九六二年、島尾は奄美大島で「私の見た奄美」という講演を行っている。そこで島尾は、「なにか日本の歴史の重要な曲り角の時には、必ずと言ってもいいほど南の島々のあたりが顔を出して来る」と指摘している。

 「続日本記」には奄美、夜久、度感、信覚、求美などと、南の島の名が出てくる。そのことについて島尾は、「日本列島の中に国家らしい国家ができたその時に、南の島の記録をはぶくことができなかったということは、やはり重要な意味を含んでいると私は考えるのです」と語っている。

 日本の初期神話に南島の顔ぶれが出てくるところは、大和朝廷の版図が琉球弧にも及んだことを示す証左として引用されるのが常だ。しかし彼は、「何かを感じとったから記録として残したのだと思います」と、そこに別の余剰を見ようとしている。そして、にもかかわらずその後は「本土のほうと全く切り離されて」しまう、と続けている。

 「鉄砲」は、「種子島」から入ってきたが、それはヨーロッパの文明の象徴と言えるもので、中国の儒教やインドの仏教と「同じ比重でもって」捉える必要がある。日本の音楽に大きな影響を与えた「三味線」も「沖縄」から入ってきたものだ。

 鎖国の終わりも、発端はアメリカの軍艦が「ふらふらはいって来たところが浦賀」だったわけではなくて、「まず沖縄の那覇にやって来て、そこを根拠地にし充分足がかりにしたそのうえで、日本本土のほうにやって」来ている。その後の新しい政府にしても、「薩摩藩は南島を犠牲にすることによって明治維新を動かすことができた」。さらに第二次世界大戦でも「南の島々を犠牲にすることによって、国家がどうやら安泰であるような方向」を見つけることができ、「それは現在もつづいている」。

 つまり、「日本の大きな曲がりかど」では、南の島々から「本土のほうになにかしらざわめきのサインをなげてよこす」。しかしその顛末は南島の「犠牲のかたちに傾きがち」であり、「本土のほうはそのことにも、その地帯のことにもほとんど理解をよせようとしないように見える」。島尾は、このことは「私に強い感動をあたえてよこす」と話している。

 ここまでくれば、五十五年前に行われた島尾の講演が、鋭く現在を照射にしていることに驚かざるをえない。本来、ヤポネシアという視野は、大陸との関係で捉えられがちな日本を太平洋の島々のひとつに解放するというモチーフを持っているから、ここでの文脈は「ヤポネシア」というより「日本という国家」に沿ったものだが、しかしここには、中心に凝集しようとする「日本」に対して、個々の島を等価に捉える「ヤポネシア」の視線が息づいているのを見ることができる。

 やがて島尾は、琉球弧と「東北」のあいだに「なにか類似の気分の流れている」のに気づいていく(「琉球弧の視点から」)。そしてここでいう「東北」には「アイヌ世界が透絵さながらにうずくまっているようなもの」(同前)だった。東北といえば、福島が島尾敏雄の両親の出身地である。この出身への足場を得たことでと言っていいだろうか、島尾の言葉はいつになく熱を帯びることもあった。

 (前略)私が言いたいことをいそいで言ってしまえば、たとえこれまでの日本人の目の位置が九州から関東までしかその視野に入れることができなかったとしても、私はそれに服したくないこと。東北や琉球弧が負のかたちでもっている日本の要素をはっきりつかみだすのでなければ、日本のかたちはいびつでしかないこと、の二点だ。(「私にとって沖縄とは何か」)

 東北や琉球弧が負性として持つ要素を掴むのでなければ、日本の「かたち」はいびつでしかないという熱を帯びた主張は、これも今でも生き生きとしているのに立ち止まらないわけにいかない。

 しかし、ご当人のその後の態度はそれとは別のところにあった。一九七三年、「非小説」を集成した本の「あとがき」で、学んだことは「ヤポネシア・琉球弧の視点」かもしれないとして、島尾はこう整理している。

 最初は、「用語の発見のための試行が重ねられている」。用語が現れる前は、「南島への心情の過多を処理しかねている」。そしてこう続く。「それはやがて用語の出現と共に、いったんは或る安定を得たあとで、今度は次第に南島に対する心情の発露の臆病な傾斜へと傾いて行くのである」(「「島尾敏雄非小説集成」第一巻」)。「臆病な傾斜」とは、「憂鬱な旅人の不安定な感受」(「琉球弧の吸引的魅力」)が、あとがきを書くタイミングで言わせたものかもしれない。このときには、奄美大島を離れる心づもりになっていたことも想像される。

 しかし、「ヤポネシア・琉球弧の視点」を提示した人の総括としては、あまりに控えめで、本人の深刻さをよそに、わたしはこのところで思わず笑ってしまった。

 「ヤポネシア」にしろ「琉球弧」にしろ、いまも充実を待っている魅力的なコンセプトであることに変わりはない。そして彼の「非小説」群は琉球弧に大きな励ましを与えてきた。ことに「奄美」に対する寄与は大きい。もし島尾敏雄がいなければ、「奄美」はいま以上に「沈黙」のベールをまとい続けていただろう。

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