『カフカはなぜ自殺しなかったのか? 弱いからこそわかること』(頭木弘樹)
どの年齢の人も、その年を初めて経験しているのに気づいて驚いたことがあった。それと似ていて、この本の冒頭で、「「自殺しなかった理由」を考えることも、とても大切なことかもしれません」と言われると、ぼくたちが出会って話をしているのは、不慮の事故や事件で死なない限り、たまたま自殺しなかった同士だからできることだと気づかされて、驚いた。
読み終えてみると、カフカを主人公にして、著者の頭木弘樹を語り手にした短編小説のような感触がやってくる。それは、主人公カフカの手紙や日記が飛び切り面白いからだけではなく、頭木の語りが強い解釈を施さない介添えのような導き手になっているからだ。
実際、カフカときたら。欲求が沸き上がってこないというのではない。一方の欲求に従おうとしたら、正反対の欲求も呼び覚まさずにはいられなくて、右へ行こうとしたら、それと同じ強さで左に引っ張られる。どちらにも行こうとするから忙しい。その一方の極には「自殺」があるのだから、手紙や日記は深刻で痛ましいのだけれど、思わず笑わずにいられないところもある。
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
「七転び八起き」ではさらさらなく、「七転八倒」でもない、倒れたまま。これを意中の女性への手紙で書いているのだから手を焼くのは用意に想像できるけれど、こちらも笑いつつ、どこか惹かれる。これが二行目で終わっていたら、ただのネガティヴだけど、三行目では深刻なのに、ユーモラスで素敵な感じさえしてくる。なかなかできないことです。
この手合いと真摯に向き合ったフェリーツェは立派だ。もしカフカが身近にいたら、ぼくなら呆れて敬して遠ざけるのが精一杯だったろう。しかしフェリーツェは、二度の婚約と二度の破棄に付き合っただけでなく、こうして手紙も残した。残したのもいずれ有名な作家になると思ったからではなく、取っておきたかったからだと思う。風変りとはいっても、こんな文章をこまめに自分のために書いてくれるなんて、誰も経験できない。
決められない男、カフカ。けれどほんとうにそうだろうか。「自殺」のカードをいつも片手に持ちながらしか生に向き合えず、まわりのあれやこれやの手助けでなんとか社会生活を送っている。でもそのカフカは、建築現場で左足を砕かれた老人のために、法律に不備のあるなか、弁護士を介してお金をもらえるように働きかけていた。第一次世界大戦の戦場で心を病んで戻ってくる人たちのために精神病院を開設するのに力を尽くしたのも彼だった。ここに「倒れたまま」のカフカはいない。人のためなら決められるわけです。
近代の落ちこぼれのようなカフカ。近代を生み出した西洋にもこんな人がいたのだ。しかし考えてみたら、そうであったからこそ、「虫」への化身(『変身』)を想像しえたのだろう。そこでカフカは、人間との関係だけではなく、自然との関係を見出すことはできず、虫が妹の心変わりによって、みじめに死んでいくことしか描けなかったとしても、そこが拓くべき通路だったのは確かだと思う。
頭木はカフカを「決められない男」ではなく、「決めない男」ともいうべき態度で捉え、そこにある曖昧さや矛盾の許容を「私たちが息をする場所」としてそっと置く。そのおかげでこの本から、余韻を残す小説のような後味が届けられる。ぼくはその余韻に任せて、人が弱さの極みで虫に化身しても訝しがられない世界を夢想した。
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