「サルタヒコと日本神話のコスモロジー」(北沢方邦)
イザナギの投げた杖はクナトの神だとして、それをサルタヒコと同一視してよいかというのが考えどころ。言い換えれば、その杖には、広々と葉が茂ったいるかどうか。
「サルタヒコと日本神話のコスモロジー」のなかで北沢方邦は書いている。
「貝による死と再生」は、「貝による生誕」と記号的に対をなす。
佐太大神は、「貝である母と地下世界の岩屋が二重に母なる大地の子宮を表している」。それが「貝による生誕」の意味である。
キサカイヒメが地下世界から投げた金属の矢と、イザナギが地下世界に投げた木製の矢は対称をなす。
クナトは、「結局イザナキとイザナミの間接的な交わりによって母なる大地の子宮で生まれたことになる」が、これも「母なる子宮という「貝による生誕」に他ならないから、サルタヒコとクナトの神は、「同一の神か、すくなくとも同型の神といえる」。
サルタヒコは雷神であり、雷電の火で火の神でもある。赤は、火を象徴する。だから、クナトも火の神と相互に変換形である。
北沢の論理は、記号としての対称性を見い出し、その対称を位相同型の根拠にすることで成り立っている。ぼっくは、もう少し内在的に捉えたいと思う。
サルタヒコは、太陽を生む貝を母に持つから、火の神でもある。イザナミは矛盾を抱えた神に見える。イザナミ自身がは火の神を生むが、それはトーテムが蛇からシャコ貝へと変換されることを示しているように見える。この「貝」を宿している分、イザナギの投げる杖も「貝」を宿すという見なしも許されるように思える。また、宿しているということは、イザナギとイザナミがおのころ島を作るのが「矛」であることにも示されている。
北沢は、「杖」は同時に「矛」であるとしている。タマホコは男根であり、クナトまたはサルタヒコの霊力を示す。それはおそらく石で作られたホト、女陰と対をなすと思われる。それが道祖神に変形された。
石は必ずしも女陰のみを示すとは限らないのだから、やはり「矛」自身に、男女が込められていると見なすのがいいのではないだろうか。石も同様。それゆえ、道祖神に変形されるのも可能になる。
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